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森まゆみ 震災日録



森まゆみの震災日録。「福島原発事故に思う」欄よりこちらにまとめました。

2011年3月22日〜2012年3月11日


  • 震災日録3月5日〜11日(2012年3月12日)
  • 震災日録2月29日〜3月4日(2012年3月5日)
  • 震災日録2月17日〜28日(2012年2月27日)
  • 震災日録2月11日〜16日(2012年2月17日)
  • 震災日録2月1日〜10日(2012年2月14日)
  • 震災日録1月22日〜31日(2012年2月1日)
  • 震災日録1月16日〜21日(2012年1月31日)
  • 震災日録2012年1月10日〜15日(2012年1月16日)
  • 震災日録12月29日〜2012年1月9日(2012年1月10日)
  • 震災日録12月20日〜28日(2011年12月28日)
  • 震災日録12月11日〜19日(2011年12月21日)
  • 震災日録11月25日〜12月10日(2011年12月11日)
  • 震災日録11月20日〜24日(2011年11月26日)
  • 震災日録11月14日〜19日(2011年11月20日)
  • 震災日録11月3日〜13日(2011年11月13日)
  • 震災日録11月1日、2日(2011年11月13日)
  • 震災日録10月24日〜31日(2011年11月1日)
  • 震災日録10月15日〜22日(2011年10月26日)
  • 震災日録10月6日〜14日(2011年10月14日)
  • 震災日録9月27日〜10月5日(2011年10月6日)
  • 震災日録9月21日〜25日(2011年9月26日)
  • 震災日録9月14日〜20日(2011年9月21日)
  • 震災日録9月14日、15日(2011年9月15日)
  • 震災日録9月12日〜13日(2011年9月13日)
  • 震災日録9月3日〜11日(2011年9月11日)
  • 震災日録9月3日〜7日(2011年9月7日)
  • 震災日録9月2日(2011年9月2日)
  • 震災日録8月27日〜9月1日(2011年9月1日)
  • 震災日録8月17日〜8月26日(2011年8月26日)
  • 震災日録8月1日〜8月15日(2011年8月21日)
  • 震災日録7月23日〜8月1日(2011年8月2日)
  • 震災日録7月16日〜7月22日(2011年7月23日)
  • 震災日録7月10日〜7月15日(2011年7月15日)
  • 震災日録7月6日〜7月9日(2011年7月13日)
  • 震災日録6月28日〜7月5日(2011年7月5日)
  • 震災日録6月24日〜6月27日(2011年6月28日)
  • 震災日録6月16日〜6月20日(2011年6月23日)
  • 震災日録6月12日〜6月15日(2011年6月18日)
  • 震災日録6月8日〜6月11日(2011年6月15日)
  • 震災日録6月6日〜6月7日(2011年6月8日)
  • 震災日録5月30日〜6月5日(2011年6月6日)
  • 震災日録5月26日〜29日(2011年5月29日)
  • 震災日録5月16日〜21日(2011年5月26日)
  • 震災日録5月13日〜15日(2011年5月15日)
  • 震災日録5月10日、11日(2011年5月11日)
  • 震災日録5月7日〜9日(2011年5月9日)
  • 震災日録5月2日〜6日(2011年5月7日)
  • 震災日録5月1日(2011年5月2日)
  • 震災日録4月29日、30日(2011年5月1日)
  • 震災日録4月28日(2011年4月29日)
  • 震災日録4月27日(2011年4月28日)
  • 震災日録4月25日、26日(2011年4月27日)
  • 震災日録4月23日、24日(2011年4月25日)
  • 震災日録4月22日(2011年4月23日)
  • 震災日録4月21日(2011年4月23日)
  • 震災日録4月20日(2011年4月21日)
  • 震災日録4月19日(2011年4月21日)
  • 震災日録4月18日(2011年4月20日)
  • 震災日録4月17日(2011年4月20日)
  • 震災日録4月16日(2011年4月19日)
  • 震災日録4月15日(2011年4月19日)
  • 震災日録4月14日(2011年4月15日)
  • 震災日録4月13日(2011年4月14日)
  • 震災日録4月12日(2011年4月13日)
  • 震災日録4月10日、11日(2011年4月12日)
  • 震災日録4月9日(2011年4月9日)
  • 震災日録4月8日(2011年4月9日)
  • 震災日録4月7日(2011年4月8日)
  • 震災日録4月6日(2011年4月7日)
  • 震災日録4月5日(2011年4月5日)
  • 震災日録4月3日夜(2011年4月3日)
  • 震災日録4月3日(2011年4月3日)
  • 震災日録4月2日夜(2011年4月3日)
  • 震災日録4月2日(2011年4月2日)
  • 震災日録 31日(2011年4月1日)
  • 震災日録 30日(2011年3月31日)
  • 震災日録 29日(2011年3月30日)
  • 震災日録 28日(2011年3月28日)
  • 震災日録 27日(2011年3月28日)
  • 震災日録 26日(2011年3月27日)
  • 震災日録 25日(2011年3月25日)
  • 震災日録 24日(2011年3月24日)
  • 震災日録 22日(2011年3月22日)
  • ●震災日録3月5日〜11日 最終回

    3月5日 あまりに論議をつくさない復興町づくりについて

    きのう、陸前高田を再訪した建築家の薩田さんは「いま何が一番よろこばれるかというと女子大生。若い女の子がきて静かに話を聞いてくれるというのが、お年寄りは一番元気が出る。孫みたいでかわいがりたくなる」のだといった。そりゃ、そうだろうなあ、とおもう。

    その陸前高田は名古屋市のまるごと支援を受けていて、名古屋市の都市計画の専門の職員もまじえてお年寄りたちが元気なうちにできるだけ早く、と書いた計画ができたらしい。
    山を削って高台に住宅地を作り、海際は8メートル盛り土してかさ上げし、防潮堤で守りながら商業地、漁業基地などにするという。
    それの説明会はたった2時間だそうな。参加の町づくりとはとうていいえない。同じようなことがあちこちで起きている。

    名古屋の「町の縁側育み隊」の建築家・延藤安弘さん、神戸の震災で活躍された真野地区のプランナー・宮西悠二さんは仙台市荒浜でプロジェクトを始めた。
    ⇒「希望の黄色いハンカチ大作戦(http://yellowarahama.at.webry.info)

    3月6日 誰も知らない基地の話

    渋谷キノハウスで『誰も知らない基地の話』の試写を見る。朝日新聞の宜野湾市長選の記事をみて映画配給の会社から連絡がきた。渋谷円山町に映画美学校も移ったらしい。

    イタリアのビチェンツィアは私も行ったことがある。世界遺産の美しい町だ。そこにアメリカが駐留米軍基地を作ろうとしている。それでイタリア系とイタリア人の若者二人がこんな映画を作ろうと思い立ったのか。マイケル・ムーアを思わせる手法で、資料映像を挟みながら二人は世界の基地を調べて歩く。
    見てよかった。知らないことが多かった。
    沖縄だけではない。40カ国に700も米軍基地がある。表題でもあるがそれをスタンディング・アーミーという。インド洋の島からは基地ができるから危ないと、島民2000が追い出され故郷を失った。しかし米軍兵士はそこの珊瑚礁でヨットに釣り、海中水泳などまるでレジャーランドのような生活をしているらしい。沖縄でも世界で一番危険な普天間基地で轟音に耳を塞ぐこどもたち、自分の土地を勝手に取られたおじいさんなどの映像が印象的だ。

    なんのためにこんなに基地があるのか?
    日本を仮想的中国や北朝鮮から守るためではない。米国の軍事産業とそれとかかわる人のためだ。
    アイゼンハワーが大統領辞任挨拶でこれら軍事産業の商業的拡大は危険だといっているのも知らなかった。
    アメリカのこうした「金儲け資本主義者たち」はホスト国日本のエリートと野合している。「日本の下級官僚や自治体職員ならちがった対応をするでしょう」というブラウン大学の女の先生がいうことの正しさは、野田総理と伊波元宜野湾市長や、百歩ゆずっても仲井真知事の差を見てもわかる。だれが住民のことを考えているのか。日米安保条約は事前通告でいつでもやめられる。

    3月7日 いまさらでも福島の子どもたちを避難させたい。

    昨日はねられなかった。「ふくしま集団疎開裁判」にかんするホームページや映像を見、いままでそれほど関心をもたなかったことを恥じた。映像ドキュメントの仲間たちは早くから郡山や福島に取材にいき、映像化して流していたのだが。
    ふくしま集団疎開裁判(http://www.eizoudocument.com/0632sokaisaiban.html)

    これは郡山の14人の子どもが集団疎開をもとめて郡山市を提訴したもの。郡山の3月以降の放射性物質の積算量は7.8〜17.2mSv。
    これはチェルノブイリで子供たちの疎開の基準とされた5mSvをはるかに超える。それでも疎開先のゴメリ市では、数年後から子供たちの体に異常が現れ、通常十万人に数名しかあらわれない甲状腺異常が1996年には10人に1人見られるようになったという。
    しかし文科省は20mSv以下なら教育活動をすると言明、また福島県が山下某という「100mSv以下なら大丈夫」論者をお抱えにしていることからも、行政は率先して子どもの健康を守ろうとはしていない。
    下の郡山市の学校のうち、アカマルはチェルノブイリなら強制移住地域となるはずの放射線量。

    郡山市放射能汚染地図

    わたしは夢を見た。それは中学校のときに林間学校で行った長野の美しい高原。
    国の研修施設で、たまたまそこに坂田文部大臣がきて草の上で逆立ちをしてみせてくれた。あのときまだ50そこそこだったのかな、そのまわりに小学生、中学生が集まって拍手をしている。文部大臣ははりきって額に汗をかきながら逆立ちのまま手で歩いた。どこから来たの?と私がきくと白いカーディガンの女の子が『郡山から』といって恥ずかしそうに、でもにこにこしながら、広い草の上をかけだして行った。みんな楽しそうに草の上で遊んでいた。

    ここで目が覚めたのだが、国立の青少年施設、泊まるところも食堂も、教室研修室、体育館ところによってはプールのある施設はたくさんある。そこに郡山、福島はじめ高線量の地域の子供たちを国が責任を持って集団疎開させる。最初は希望者からでもよい。そこでは近隣からの食料や炊き出しの協力も受け入れ、ボランティアの学生を派遣し、勉強を見てもらうほか、それぞれの生き方や進路や受験についても話し合う場をつくる。疎開によって差別もされず、進学に不利益をもたらさない疎開を国は最大限の誠意をもって行うべきだろう。
    私は国家公務員上級職の研修に講師で行ったことがあるが、ここなんか一人ずつ個室の高級ホテル並だった。緑の多い広い敷地のあの施設も疎開に使えばよい。エリートに育った青年を優遇するより、これからの命と健康を大事にしなければ、なんのためのこども手当、何のための少子化対策。

    3月8日 群馬の山を除染すると・・・

    忙しいので丁寧に料理を作る暇がなく、スーパ−で野菜のほか、ラーメンやチゲの素、ベーコンなどつい、便利かなと買ってってきた。これが食べてみるとみんな化学調味料で舌がびりびり。
    しまった。外食もだめだが、家で食べるにしても買物に気をつけなくては。いつもは気をつけているのになあ。家中の化学調味料のはいっているものを捨てる。サトコはついに花粉症の始まり。私にはまだこない。

    サトコによれば八ッ場ダムのある群馬県長野原町も所によってホットスポットがあるという。60年、ダム計画で苦しめられて来たところが、放射能でも苦しまなければならないなんて。ある住民は「山の除染はあきらめている」といったそうだ。
    ダムは住民のためでなく東京を含む下流都県民のためにつくられようとしている。しかし下流都県民は八ッ場と川でつながっていることに気づかない。でももし八ッ場で山を除染したとすると、その放射能は吾妻川から利根川に入り、やがてわれわれ都民の水道水となって口にはいるだろう。2年8ヶ月後に東京湾が最大に汚染されるというのはそういうことなのだ。それでもまだダムは自分に関係ないというのか。

    3月9日 公務員に思うこと

    恵美ちゃん(このブログの伴走者)が白山に来たので、穴子重を食べに行った。
    きのう友人の部屋で見た『原発マネー』の番組で盛り上がる。

    自治体や県にばらまかれたお金は3兆円。ランニングコストが何千万もかかる博物館を作ったが入場料は90万。冬期閉鎖の柏崎市。
    原発の誘致をした元町長や市長が「原発がなくては財政が苦しい」といったり、もと高級官僚がいまも偉そうな自己正当化を言っていたが、みなインタビュー場所からしても関連団体に天下りしているのはみえみえ。
    「原発がなくては自分たちの高給は払えない」「箱ものを作るため土建屋に回す金がない」とか正確に表現すべきだ。原発立地の農家の生活なんかちっともよくなっていないんだから。

    農家の所得補償なら私は是認する。食料の安全保障のために。過疎の村にゆとりのある都会から協力するのは必要なことだ。しかし基本的に役人の側に交付金をじゃぶじゃぶ使って当たり前、町民からの税金でやりくりしようという気概がないのは、すでに「自治」体とはいわない。他力本願体とでも名前を変えればよかろう。あるいは交付金奴隷体とか。

    以上はまったくひがみそねみではない。我が一族郎党には1人も公務員はいない。とことん宮仕えのできない遺伝子だ。公務員になりたいと思ったことは一度もないし、なれるとも思わないのだけれど。

    3月10日 しつこいようだが・・・

    きのう恵美ちゃんと話したことを反芻した。

    1.たしかに公務員の待遇が社会の基準となっており下がれば民間も下がるかもしれない。
    2.しかし給与ベースで比べてもしかたない。ボーナス、退職金、年金、手当、遺族年金などまで入れるとそうとう官は手厚い。
    3.破産寸前の大赤字会社みたいな国や自治体の給料が減らず、ボーナスが出るということが民間では考えられない。国債のツケを次代に回すな。
    4.企業が高給なのは知ったことではないが、われわれの税金で民間の倍ちかい平均年収を得ているのは納得できない。
    5.その実体も明らかでないが、ヤミ手当などお手盛りがあるという。
    6.震災のあとでも消防団や町会役員は寝ずに働き、公務員は時間外手当がでる。
    7.津波で先生は誤導しても殉職扱い。なくなった児童は一時金500万のみ。
    8.(花巻と石巻からきた人がいっていたが)田舎では専業農家と公務員では3倍、4倍の格差がある感じ。仕事は農家、漁業の方がきついのに。農家は冬は土方でしのぐ。
    9.しかもコネ就職が多く、職員同士結婚して、息子を町役場に押し込み、また職場結婚して一家に4人公務員がいたりするとみんないってる「貴族のような暮し」。(実際に見た)
    10.同じ役人と言っても高級官僚とそれ以外、専門職と事務方、教師や医師、看護士、保育師、消防士、図書館員など現業職では住民のためにがんばっている職員を見てきた。また県庁職員と、町役場の職員とではしごとの内容もきつさも違う。国でも県でもエリートは夜中まで働いているが、働いている中身がどうも私たち住民のためになってはいないような。
    11.環境保護や基地反対の運動などは退職公務員、元教師等が担っていることも多い。年金も多くてゆとりがあるからできることかもしれない。でも何%が老後そんな社会還元をするだろうか。
    12.無駄な労働が多すぎる。書類づくりにはんこ押し、日程調整、管理のための労働。
    13.頭の固い、マニュアルでしか動けない、責任をとらない、支持待ちの事務方は非常時には使い物にならない。もと番長や暴走族の方がよほど臨機応変に避難所などを運営した。
    14.税金使ってやったのに「してあげた」という表現をよく使う。みっともない。

    公務員労働の研究者にも疑問に答えてほしい。東京ではたくさんの仕事があるから公務員はそう目立たないが、農村などに行くと、農家以外は公務員、農協、信用金庫、電力会社くらいしか仕事がないので、格差とそのわりに住民の要望に応えていないということが目立つのだろう。まあ、東京にいる私も区役所に何か聞いて真摯な対応を得たことはまずないのだが。事務方公務員とは「できません」というために生きているみたいだ。

    3月11日 紫のヒヤシンス

    真理ちゃんにもらった白いヒヤシンスが終わりかけた頃、紫のヒヤシンスが咲き始めた。去年、真理ちゃんにもらったもの。こんどはカイドウのつぼみが開きそう。でも去年はピンクだったのに今年は白い。なぜ?

    今日は震災の一周忌。自分に取っても生涯最大の事件だった。そのとき聞いた話を、感じたことをだれか、書き留めておかなければと毎日、ブログを書いて来た。言葉の持つ意味がひとによって違うこと、いる場所や立つ場所で違うように響くこと、言葉を使うことのおそれ、怒り、かなしみ、とまどいのなかで、おろおろと書いて来た。あとから読み直せば間違ったことも多々あるだろう。

    たとえば高台移転を昨年の4月頃はイタリアみたいな美しく楽しそうな町ができるかも、と期待したが、仮設ビジネスのあと、いまや高台移転はゼネコンの商売になり、住民の合意や討論がないまますすめられそうだ。行政のつごうで拙速に結論を出さない方がいいと思っている。それに盛り土の市街地は果たして安心か?

    除染についても移染にすぎず、除染ビジネスをもうけさせるだけという実態をみると避難の方が先ではないかとも思う。『世界』でいま読んだばかりだが、神戸の震災に投下された金は9割、県外に流出したそうだ。

    今朝の東京新聞、伊集院静さんは、いま東北では今日も明日も葬式がつづく、祈り続けている人がいること、この震災がまだ続いていることをわかっておいてほしい、という文だった。
    そうだろうと思う。悲しみや喪失感をお酒やカラオケに癒すことも大事だろう。私もそうしているように。でも飲み過ぎたら、心配だよ。

    いますぐ立ち直れというのはとうてい無理だ。でもなには遅すぎて、なには急いではいけないのだろう。かんがえる。住民が立ち上がろうとしているのを支えるのは早く。地域に雇用がうまれ、地元に金が落ちることは早く。住民間の格差を是正することは早く。でも・・・そうなっていないような。

    東北の人々がゆっくり悲しみ、祈っている間にも原発は早く止めなくてはならない。今がチャンスだし、チャンスの女神は後ろ髪がない、とマキャベリはいった。

    悲しみや落胆だけを(短調の静かな音楽や見出しをつけて)強調するメディアにも違和感がある。私の出会った東北人たちはけっこう冗談もいい、まるで映画のように津波の冒険談を語り、元気に新しい仕事を作ってもいた。私こそどんなに励まされたかわからない。「津波で家を流されて、これで地域の付き合いや契約もやめて、大嫌いな故郷を離れられますね!」と大笑いした人もいる。人はいろいろ。気もかわる。

    これからも東北へ通う(来るなと言われない限り)とおもうが、毎日日録を書くのはここで終わりとします。長い間、この日録を読んでくださった方へ、ありがとうございました。

    森まゆみ(2012年3月12日)


    ●震災日録2月29日〜3月4日

    2月29日 追い炊きのできない風呂

    閏年。4年に一度の29日。

    屋良朝苗さんゆかりの沖縄少年会館が老朽化によって壊されることに反対している市民グループが那覇市内の小学校を調べたところ、10校もそれ以上の老朽化で危ないという。先にそっちを改築するべきではという意見。思いやり予算で米軍基地が置かれているところは基地対策費ですばらしい校舎や体育館が建っているが。

    東京新聞によれば、仙台の住宅地でも地盤が崩れ、現地に残るか、引っ越すか、深刻なことになっているという。そして全国1000カ所の盛り土による宅地造成は極めて危険と国土交通省もいっている、と東京新聞。その同じ省が八ッ場ダムで盛り土の代替地をつくろうとはどういう話?

    今日は雪。寒いから昼からお風呂に入る。お湯を入れ替えるのはメンドクサイから追い炊きポン。仮設住宅で一番困るのは追い炊き機能がついていないことだとあちこちできいた。衛生面からそうしたらしいが、東北の寒い現場でどういうことだろう。お年寄りはお風呂洗うのもおっくうだし、プロパン代が物すごい、と嘆いていた。

    3月1日 言葉の問題

    言葉に関すること。「フクシマと言う言葉を使うのはやめていただきたい。胸がいたみます」というメールがsnowという人から来た。下さった方、匿名でなければもっとよかったのに。しかしこれは考えるべきことである。わたしは福島と言う土地やそこで暮らす人々のことを指す時は漢字を用い、それと区別して東京電力福島第一原発事故が引き起こした問題を著す際にはフクシマとつかったりした。とくにアレクシェービッチが「我々はみなチェルノブイリ人となった」といったことに感銘を受け、この原発を止められなかったことに責任があるとの自覚に立って、日本人全体の問題である、自分たちだけ逃げられなると思うのはまちがい、福島の人々と連帯したい、などの思いで使っていた。しかしフクシマと書かれる度に傷つくひとが、胸の傷む人がいるのなら、これからは注意して使うか使わないか考えたい。しかしsnowさん、あなたはヒロシマ、ナガサキ、ミナマタなどという片仮名を見ても胸がいたむのだろうか。

    すでにこの問題を取り上げているサイトがありました。
    フクシマと書かない

    私は「世界に対してこの問題を訴えたい」意図で使ったことは一度もない。
    「なんで美浜、大飯、伊方などに県名はついていないのに、これだけ県名がついているのだろう」という疑問ももっとも。また事故直後、新聞などが「福島第一原発」とつかうたびに「東京電力」と頭につけろ、と感じていた。そして福島在住の方からの痛切なコメントにも胸がいたんだ。農業どころか福島でつくるのか、と町工場にまで仕事がない状態だそうだ。2・28に寄田さんが「フクシマではなく福島です」と書いていたように、原発事故にばかり目がいって福島の大変な生活に目を凝らす必要がある。

    「ノーモア・ヒロシマ」が英語としてはおかしいこと、911や311も使うべきではないなどという意見もある。いいだすときりがない。3・11に誕生日や結婚記念日の人もいるのだから、とか。うちの娘は3・20が誕生日だけど「べつにいいんじゃない」といっていた。私は3・11は震災と津波の日と認識し、原発とは結びつけない。事故が起きたのは3・12だ。

    3月2日 相変らず大変ないわき

    光源寺の島田富士子さんはずっといわき支援を続けておられ、檀家ながら頭が下がる。昨日来たメール。

    お久しぶりです、島田冨士子です。3月5日にレンタカーでいわきに出かけます。現地からの要望などをみなさんにお願いできれば幸いです。
    以下、現地の方々の必要としているものです。光源寺に寄せていただけると有難いです。3月5日に届けますので3月4日までにお持ちください。

    野菜または野菜ジュース
     野菜があまり生産されていないし、県外のものが高くて、少ししか食べられない。

     とくに子どもに県外の米を食べさせたい
    フリーズドライ米
     煮炊きがしづらいお年寄りが、いつでも食べられる
    ミシン
     エプロンなどなにか作って内職にしたい
    空気清浄機
     気管支ぜんそくの人が多くなった

    いわき市は30万を超える福島第二の都市なのに、そこでまだこういう需要があることに驚く。被災地格差というのだろうか。原発に近い海辺の被災地で、お米を炊くのもままならないお年寄りがいるようだ。阪神淡路大震災では仮設での孤独死が問題になったが、今度もこんなことが起こるのか。

    3月3日 ガラクタ整理

    ひな祭。今日はガラクタ整理のはなしを聞いたので、家に帰り、枯れ果てた鉢植えを10個捨てる。芸術新潮、東京人、旅などのバックナンバーも段ボール2箱捨てる。「谷根千」という商標にもなんら執着がない。それで新しいことができる。それでも本と書類で家が片付かない。ガラクタ整理師さんいわく、いろいろ考えたら一番のガラクタは夫だ、という人が多いんですよね。うーむ。
    このところ胃痛はなはだし。そうすると炊事する元気なし。

    3月4日 命を守れる避難所とは

    今日は67年前の同じ日、谷根千をB29が襲い、190人もの人がなくなった。
    3月10日の東京大空襲では一晩で10万人くらいの死者が出て、よく知られているが、この日のことは知られていない。また広島、長崎は海外でも知られているが、東京大空襲でさえ、海外では知らない人が多い。
    3月4日は爆弾で、今の千駄木3丁目の鹿島湯の倉庫で23人なくなった。不忍通り反対側の崖下の防空壕では、坂上の貯水槽が爆弾で崩れ40人以上がなくなった。そのほか三崎町、初音四丁目、真島町でなくなった方70余名を慰霊するため、三四真地蔵が建立された。詳しくは谷根千80号参照。

    今日、谷中コミュニティセンターで行われた「谷中は戦場になった」での初めて聞いた発言より。

    田辺さん*三崎坂で菓子屋をしていた。おひな様をしまおうかなあ、という日に空襲があっておひな様どころか家が爆弾でやられたと聞いた。下谷の遺体は両大師橋に並べられた。アメリカ軍は厚木あたりに落とすつもりのところ、視界が悪いのであきらめ、しかしグアム、サイパンまで爆弾を持って帰るのは重いので谷中当りに落とした。私は楽堂疎開中でいなかったが、子どもより疎開先の猫の方がいいものを食っていた。それで猫の煮干しご飯を食べて、未だにネコマンマを食べたと言われている。戦後、不忍池を田んぼにしたが、一部の人が収穫を隠匿したというので翌年からやらなかった。

    *浅草育ちの父から逃げるなら川より山へ逃げろと言い聞かされていた。隅田川では人は死に、上野の山では助かった。

    *上野で育ち、戦後は防空壕は冷蔵庫代わりに使った、湿っていたが今では乾燥したのか湿っていない。

    *谷中の台地から見ると浅草のコンクリートのたてもの2つ3つ残してあとは焼け野が原だった。父は花火は好きなんだけど、焼夷弾を思い出すからきらいだといっていた。屋根の上に焼けこげた死体が乗っていたそうだ。

    *教えてくれた先生は医学生として空襲の惨状を見、医学より戦争を止める経済学を学ばねばと専門を替えた。1969年にベトナム戦争のことを考えようとMITの学生が一日研究モラトリアムをした。ホテル・カルフォルニアなどに見られる69年スピリットをどう思うか。

    *谷中でなくなった方を誰がどう葬ったのか。警防団の人々が谷中墓地の日暮里の駅上野公園のあったあたりに仮埋葬し、八柱霊園に回葬したと聞いた。

    *父の従兄弟たちは14歳と12歳で日本橋浜町で抱き合った遺体が発見された。明治座に逃げてなくなった方が多いとも聞いている。

    *私は89歳で、そのとき南京に兵隊でいた。もう戦闘はなくのんびりした生活。毛沢東と蒋介石の軍隊が闘うのを傍観していたりした。そこへ内地から手紙が来て空襲でやられたことを知った。麻布三連隊で、内地に転属になり,帰って来たら品川の駅で空襲に会った。5・25宮城が焼けた日であった。こんな馬鹿な戦争はやめたいと思った。

    *昭和21年生まれ、父は中国戦線に2回行って、マラリアで私が小学校6年のときに死んだ。中国人の首をつるした写真や馬を殺した写真などうちにあった。父は同期の桜をうたっていた。

    *栃木にいたので戦争はピンと来なかった。日光と京都は決して爆撃されないと先生がいっていた。うちには将校が泊まっていたので物資には不足せず、勉強もしなかった。農家で朝は麦踏み、かえると兵隊さんの手伝い、飛行場の草むしり。矢板でベニヤの飛行機を作っていた。戦後は置いていったモーターで水汲みなどした。

    *今のと夫婦ですが、私は長野で食うに食われず、大豆の煎ったのを口に入れるだけで嬉しかった。ほんとうに白米で通したなんて非国民と夫を恨んだりして。でも今回の地震のような支援なくたって人々は立ち上がった。

    *姑のいとこが業平にいたが、警察官だった夫を空襲でなくしてひとりぼっちになり寂しがってよく来ていた。父母兄弟もみな空襲でなくしたといっていた。

    *浅草の今戸で生まれたが母の実家の小田原に移転して空襲を逃れ、いま生きているんだからせめて戦争をふたたび起こさない運動に関わりたいと思っている。父は上海近郊で死んだことになっている。それが10月31日で、私は11月28日に生まれたので父の顔も知らない。家内のオヤジは鞜職人で、3月10日の空襲に会い、隣りの老婦不を助けられなかったのを悔やんでいた。人間として悔しく哀しかったのでしょう。

    *母の弟は戦地に5、6年いて帰って来たが85で死ぬまで一切戦地のことを誰にも語らなかった。言えないことがあったのかなあという気がする。

    午後1時半からは和室で、谷中防災コミュニティを考える有志の会「地震発生、そのときあなたはどうしますか」が行われた。

    *谷中まちづくり協議会防災対策部会長・篠田さん
    真島、初四、三崎などは木密、うちの上三崎南町会は、お寺のあいだにちらほら町家がはさまっている程度。状況が違う。一とき集合場所は谷中14町会に18カ所ある。
    谷中小には9町会対象者2523人がもしくれば立錐の余地はない。毛布は2000枚ある。
    上野中には4町会923人、上野高校には1町会。
    発災後3日間は何もできないと考えてください、と行政には言われている。
    医薬品は外傷などのくすり。谷中クリニックの高橋先生などとの連携、町会ではお寺との協定なども模索中。自助、共助、公助のほかに近所(近助)も大切だと思う。

    *谷中まちづくり協議会、環境部会会長・松田橿雄さん
    安心安全に暮らせる町である必要があるが、耐震化をいってもなかなか進まない。今古いものが残っているので観光の人気スポットになっている面もあり、そういうにぎわいと防災をどう両立させるのか、むずかしいところ。
    町会にはいっていない人も多くなり、昼間に震災が起ると半数は自宅にいないなど、人手不足。若い方の参加を期待したい。
    コミュニティでは谷中は絆がつよい先進地区だが、加えて結(ゆい)まですすめたい。また自宅に最低3日、できたら5日の食料備蓄がのぞましい。
    他区では街角水道栓や手押しポンプを配備しているところもあるが、家の前に植木をしている家の10メートルのホースをつけた散水銓も有効だ。

    *建築家・薩田英男さん
    谷中コミセンの防災建て替えについて、出入り口は広い方がいい、廊下を多目的に使う、多目的ホールは窓がない、換気が悪いと避難所としては使えない──などのことが専門家としては気になった。
    陸前高田に再度行って、重ねていくことの大切さを思った。
    命を救う鎮守の森、諏訪神社。いま市は一回2時間の説明会だけで、8メートルの高さの盛り土をして町を再生しようとしている。それで住民の意見をくめるのか。
    いま壊すなら解体費用は市で出すということでどんどんこわしている。瓦礫が片付いて自分の家がどこにあったのか分からない。記憶の町が消えていく。いきていた場所の証しがなくなってしまう、という声もある。
    お年寄りは女子大生が来て静かに話を聞いてくれたりすると喜ぶ。
    大手のプレハブ仮設でない木造の仮設住宅を造ったところもある。岩手を回る移動図書館のプロジェクトやみんなの目の底に残る大庄やを部材を探して建て直そうとする動きもある。

    *上野消防団、庄野さん。
    真島町で3代目。昭和63年から消防団に入る。消防団員はどんどん減少している。AEDなど応急救援をしたい。自分たちが習得して地域に伝えることが大事。
    夫の実家は仙台の荒浜でたくさんの話を聞いた。本当に被災地は見ると聞くのは大違い。そのことから谷中での防災を考えた。マンションや一人暮らしの人が増え、顔も知らない人といざとなったら谷中小学校で避難生活を送るのかなあ、と戸惑いもある。

    *台東区議、防災石川さん
    浅草の歯科医。東京大学地震研究所は4年以内に震度7が来る確率を70%と言っているが、いま都のデータを集めているところ。
    谷中のコミュニティには注目している。京都の祇園などでも文化財が多いが、あそこは木密と言っても細い路地の裏は広い道、条件が違う。
    関東大震災では町の人が神田佐久間町小学校を3日間まもりとおした。そのような初期消火の地域防災を向う三軒両隣でどのようにやるかが大切だ。

    *台東区本田係長
    台東区に荒川の氾濫や決壊で5メートルの浸水が来た場合には谷中コミセンに本部機能を持たせる。

    そのほか
    *お寺と防災
    *井戸と防災──出なくなった井戸をもう一度掘り下げる。台地の上では飲用不適でもわかしたりして飲んでいる。井戸水の浄化の研究は?
    *震災時の医療──どの医師がどこに張り付くか
    *観光客と避難場所
    *災害マニュアルは住民に配られるのか?──現在手入れ中。
    *知的障害、精神病、介護の必要なお年寄り、車椅子の方の避難はどうするのか。
    などの問題提起や討論がなされた。

    その後、場所を移して初音の森防災ひろばで、防災井戸、ベンチをはずせば火を使える防災トイレのシステムを学習、じっさいにベンチをはずして豚汁をつくり、お湯を沸かしてアルファ米をたいてみた。
    火鉢カフェ主宰の中村有里さんの説明では炭は間伐材の利用で森にとっても環境保全になり、熱効率高いが煙や焔は余りでず、火事や呼吸困難などになりにくい優れもの。これと珪藻土の七輪、熱効率を挙げるブリキの煙突(お茶缶の底を抜いても代用可)なども有用。橋詰さんたちの豚汁がうまいのはさすが、けっこうアルファ米の山菜ご飯もおいしかった。

    森まゆみ(2012年3月5日)


    ●震災日録2月17日〜28日

    2月17日 ナショナル・トラスト

    私が理事をしている日本ナショナルトラストは東日本大震災で被害を受けた文化財の救援募金を10年がかりで始めた。街頭などでも募金を集め、企業からも醵金を募り、3000万くらいは集めた。今年度は2000万を被災した文化財に補助する。

    56件の応募があった。その中から10件程度に上限250万。まず激甚被害の宮城県からほとんど応募がなかったのは、現地が生活再建で手一杯だったこともあろう。
    そのかわり北関東、結城、桐生、真岡,小山、笠間などの町の文化財がたくさん被災していることがわかった。また釜石の虎舞にみられるように故郷の無形文化財の頭や衣装が流されてしまっていることもわかった。

    国や県、市町村の指定物件はできたら公で直してほしい。公務員のみなさんは手厚く保護されているのだから、地元の文化財のために醵金したらいいのではないか?
    登録文化財や未指定・未登録でも地域にとってかけがいのない個人所有の文化財をどうにか救いたい。しかしいま、多くの被災民家は壊されている。いまならタダでこわしてもらえるということで。いま建て直せば200万だかの補助金がつくということで。

    夜は古書ほうろうの三遊亭きつつき、坂本頼光さんの会。きつつきさんの薮入り、泣けたねえ。うちも大工の息子が帰ってくる夜は、あれも食べさせたい、これも飲ませたい、と大はしゃぎ。で帰るころには疲れ果て、意外に冷静な息子に白け、文句言ったり。
    頼光さんの落語もよかったよ。ゲロ・グロ・ナンセンスだったけど。火焔太鼓。

    2月18日 北上川河口に茅刈り

    タクシーの運転手さんのはなし。

    「私は鹿又というところで、波は床下までしか来なかったけど、全壊地区の指定です。渡波の方ですね。
    うちの被害は自動車を2台、これは津波の保証がついていなかった。ほとんどの人はそうでしょう。あと300万かけてつくった墓が倒れ、もう直しました。で総額1000万くらいかなあ。

    家族は無事だった。娘は女川町立病院で看護師をしていますが、あの高さなら大丈夫だろうと思った。
    一階はあそこまで水ついたんだもんねえ。無事がわかってからは毛布だの運びましたよ。女川の駅なんてレールはないし、駅のトイレ一つしか残っていないよ。

    私は地震の直後、おばあさんを載せて、孫が心配だからって、すいすい走ったんですが、帰りはもう渋滞でした。それで車を高台に置いて逃げました。あのおばあさん、どうしたかなあ。

    山から見る津波はまるで映画みたいで、なんとも言えないものだった。三日目に水が引いて、瓦礫の中を4時間かけて自宅まで歩いた。途中となりのご主人とあって家はあるよ、と聞かされて地獄から天国にいっちゃった。下水とか、浄化槽とか、回り回った津波が吹き上がってきたみたい。

    宮城交通も車13台ながされて、寝台車も、車椅子用のも流された。タイヤも700本ながされて。
    社員にも被害でました。お客さんは逃がしたけど、自分は車から出られなくてなくなった同僚もいる。
    社長は毎日、泥のかい出しやっていて、私も別に閑だし、3月23日からまた営業再開。それから4、5、6は富士保険の調査で貸し切りだったからよかったねえ。社長も現金持っていくと喜ぶものねえ。

    でも仕事がない人はパチンコ。石巻に2軒しかないから、いつ行っても混んでますよ。
    スナックも少ないから。義捐金貰ってそのままタクシーに乗ってパチンコ行く人とかいるけど、一年も休んじゃったらもう働けないんじゃないですか?

    仙石線もいつ復旧するかわからないから。大工の手間は上がってます。みんな我先に直したいから、石巻の大工じゃとうてい足りなくて内陸部からも来てますが、そのために仮設のホテルが建ってるくらい。

    いま壊すとタダでこわしてくれる。だから作る方と壊す方と両方ですね。仮設がおわったら、市営住宅。市立病院や学校も建て直さねばならないし」

    豊葦原みずほの国に生まれきて米が食えないとは嘘のような話
    せっせと鎌で萱を刈る。葦は悪し、と忌んで、吉に通ずる葭と言い換えられた。それが屋根に上がると茅になる。葭は丸く中空で、平たく中空なのは荻という別の植物。そうか、それで萩原さんと荻原さんの区別がわかった。

    2月19日 仮設住宅にて

    女川と雄勝を見学。坂茂さんのコンテナ3階だて仮設にすむNさん夫婦の話。

    夫「うちの家族は大丈夫だったけど、妻の弟の奥さんと娘がなくなった。雄勝にいた姪がまだ遺体も出てこない。妻が脳梗塞をやったので日赤で検査しているところだった」

    奥さん帰る。あら、こんな汚くしててごめんなさい。

    妻「日赤の看護士さんは優しいものだね。車椅子でそうっと下ろしてもらって桃生町の避難所に1週間いた。そのときは紙コップがよれよれになるまで使って、だから割り箸でもなんでも今でも捨てられない。ちり紙がなくて困ったり、温かいご飯を食べたときは涙が出たし、今までの生活はなんだったんだろうって、どこの家も豊かになに不自由なくくらして神様が怒ったのかなと思う。女川のうちの周りでも110人のうち、60人なくなったの。そのうちのひとりになったような気がして、いまも生きている気がしない」

    夫「娘がいる古川で世話になっていたんだけど、やっぱり女川が好きで帰りたくなっちゃった。それで仮設に申し込んだら最後だったのでこんないいところが当って。残りものに福があったってわけ」

    妻「家のあったのはこのすぐ下。だからよくわかっているし、まわりは緑が多くて散歩することもできる。八百屋さんも魚屋さんもここまで来てくれるから買物の心配もない。
    とにかく最初からボランティアさんたちが支援してくれてありがたいの。警察の人にがんばってね、なんて言われると涙出たよ。あの人たちも外に寝泊まりして、水道で頭洗ったりしているんだもん。うちのお風呂に入りにきてね、といったんだけど。
    写真洗いにきてくれる人もいるしね。
    アフリカの人が来て太鼓叩いたんだよ。そうしたらリズムに乗って嬉しい感じがしてくるんだよ。人と人がこんなにつながれるなんて。今、私はめざめたの。みんなにこんなに心配してもらって、そうすっとこのへんに生えている雑草だって引き抜いちゃ行けないようなきがしてくる。
    それに私車椅子に乗って歩けなかったの。それなのに震災のあとはどんどん元気になって、いまではすたすた歩いてる」

    夫「この年になってこんな思いをするとは思わなかった。でも子供なのにこんな怖い思いをした方が可哀想だね。もうこんなつらいおもいはさせたくない。津波てんでんこ、というのは本当だね。ひとを助けようと思って流された人は多かった」
    他の仮設よりいいらしいのは、隣りの音がまるで聞こえないこと。上の音もそう聞こえないし。結露もしない。断熱もできて温かい」

    妻。よくをいえば、ものが増えてすぐ狭くなっちゃった。それと風呂の追い炊きができないのでガス代がけっこうかかるの。衛生面で問題があるというのでどこもそうらしいけど。家賃はないけど電気代や暖房代、ガス代は自分持ちだから。町外の子供のところにいる人なんかにはまったく支援はないのよね」

    そのほか、雄勝の硯職人、女川のスレート職人の声を聞いた。熊谷さんの家でつぶしたてのカモをご馳走になった。近所の館山さんが三味線を持って来て「さんさ時雨」を弾いてくれた。

    2月20日

    登米で高橋哲郎さんと再会。

    「大正10年の生まれで91歳になりました。70年スレート屋根をやっています。もう危ないからやめろと言うんだけども。熟練があるからしたでいいから指導してやってくれと言われて。
    私はさいしょ父と一緒にスレート掘りをやったが、のちにおじさんについて屋根葺きになった。私は重要文化財の登米小学校の卒業生です。あれは山越喜三郎という人の設計で、外廊下だし、ガラスばりで寒そうに思うが、こどもの頃はそうも思わなかったね。わたしは地理と歴史は好きだったな。算数はきらいだった。

    スレート山は外貨獲得の手段だった。他から金取るにはよかったんだね。
    もう一つ自慢は登米の能を伝承していることです。櫻井八郎衛門という人が陸奥仙台藩の第五代当主伊達吉村に呼ばれて来た。釣の七太夫といわれた大蔵正座衛門とこの櫻井を受け継いだのが登米の能です。
    天狗に誉められるところで『由々しい』というのがズーズー弁だもんで「ゆゆすす」となっちまう。これを東京でやったら大笑いされちゃった。で、帰って来てもめてねえ。
    やっぱり『由々しい』とやらないといかんのじゃないか、とか、いんや、俺だちの土地のことばでいいんだとかねえ。伊達藩だけに伝わる能というのもあるんでがすよ。
    「摺上げ原」という戦国時代に磐梯山の麓で伊達軍と蘆名が闘った闘いを歌ったもので、これは伊達の殿様の許可が出なければやってはいけなかった。
    しかしこの能というのが屋根葺きと多いに関係がある。葺きごもりといって葺き終わると謡を一くさりというわけさ、式三番と決まっていますがね。

    昔はスレート山は入る鉱口のところは人の土地だが、中はどこ掘ってもいいことになっていた。三尺したは国のものだから鉱山局に許可さえ取れば。石だからのみをあててトンカチで叩いて、穴開けて発破つめてその間は外で煙草飲んでまっている。しかし山はいい石がとれるときと穫れないときと交互なの。魔石というくず石ばかり出る時もあって金ばかりかかってどうにもならないからすっぱりやめたの。

    前にも話したように、明治22年に篠原源次郎という人が雄勝にいい石の山があると見つけて、このときのスレートは今の前の木造の国会議事堂になった。嵐が来ても地震が来てもびくともしないからスレートはたいしたものだと、その後、需要が増えた。日本銀行の各支店や法務省はじめ役所の屋根。私がやったのでは日銀京都支店や高松の四国支店があります。まんず威張って葺いてやるッて風で、飯場でなく、旅館に滞在して葺いていたね。
    それで24歳からは葺く方に回って。終戦後だね。

    昭和27年に戦争で焼けた東京駅を葺きに行った。ドラム缶を作るような亜鉛鉄板で応急処置してあったが、機関車の煤とか、ブレーキがレールにきしんですり減ったレールの錆が亜鉛鉄板にとんで穴があいていた。それでスレートで葺き直すことになった。およそ創建時に戻す余力なんかなくて、そのまま三角屋根で。
    登米のスレートを貨車で持って行ったんだが。我々は11人いて、八重洲口のガード下、障子会社の総弧を開けてもらってそこに畳を敷詰めて臨時の宿舎をつくった。45日間で仕上げたの。それも登米と雄勝とどっち使うということになったら、宮城県知事がケンカになるから半々で使えというから。
    登米のスレートの方が目が細かくて絶対水を通さない。質がいいんだよ。雄勝の方は表面に豆粒みたいな泡があって、その水文字が味があっていいという人もいるが水が染み通って行くんだな。
    厚さは2、3ミリで、うろこ形に加工した。ウロコにするには金がかかって、そうでない方が水滴もたまらなくていいんだが。
    監督は大林組で、国鉄の管理課長が毎日みたいに来てたな。ああいうのは日当でなく、一坪葺いていくらだからがんばればがんばるほど稼ぎがいい。
    あの頃はスレートはどんどん来た。その結束に使った藁を古着屋さんが毎日とりにきていた。銭湯に売って燃やすんだって。6尺ほどの山ができるのを荷車で持って行ってその代わりに酒をくれた。あるときは国鉄の組合が強い頃でストライキをやった。そしたら国鉄がさっそく調べて宇都宮まできているのがわかったから、それで一日休みになったんだ。それで銀座に行って片岡千恵蔵の時代劇を見たな」

    まだまだはなしは続きます。

    2月21日 世の中なんかおかしい

    川本眞理さんのくれたヒヤシンスが咲いた。今年のは白。いいにおい。

    手帳をどこかに忘れてきてパニック。「じゃあもういいよ、どこにも行かなくて」とサトコ。それもいいなあ。うちのマンションが大規模改修に入り、ものすごい音で足場を組み、それを支えるために壁に穴をあけている。なんだか虫歯を治すのに穴をあけている感じ。でも大規模修繕なんてまだいらないんじゃないか、といわなかった私にはいまさら何か言える義理はない。

    東京中小企業家同友会文京区支部の小池一貴という人から、4月20日の講演は、別の人にも依頼してあって、お二人から承諾をいただいたが、今回はその人に頼むことになった、なにとぞご了承ください、というメールあり。これはビジネスの倫理を逸脱した下品なやり方だと思うが、こんなことが中小企業家の中ではまかり通っているのだろうか。

    共同通信は母親が子どもを殺した容疑者の母子の写真を間違えたが、私のところへは源泉徴収票を私のと山根基世さんのをまちがえて送って来た。しかも留守中に家族にまちがった方を送り返すように伝言したそうである。まちがうことは誰にもあるが、その場合は私ならちゃんと謝りに行くな。まえに別の社がまちがった時は対応が丁寧で、あとでお詫びに香水入れかなんか送って来た。今回はあまりに安易なやり方にあきれる。

    読売新聞は2年くらいは、といった都内版の連載を半年で打ち切ったうえ、調べたら50万以上の原稿料を未払いだった。なんでこんなことが起るのか。連載中にも担当者は一度も会いにこなかった。一度くらいはお茶でも、といったのに「仕事で忙しいですから」というのは、私の連載はしごとの範囲ではないと言うことか。
    もうすこし、前向きなことにエネルギーを使いたいので、直ぐに忘れることにする。

    2月22日 最初の読み手

    『建築士』という専門雑誌に石巻の復興村のことを書いた。そしたら編集長の建築家井出建さんからメールがきた。

    「広域合併のこと、熊谷さんが重要な役割を果たしていることへの言及、そしてとりわけ入居者の小山さんの聞き書きに引込まれ、一気に読み進みました。
    被災した人の生活、生活設計、地域が行当たっていることありありと感じられました。
    使い捨て、ゴミをつくる横柄な方法でなく、「夢のような話ー手造りで美しい試み」真っ当な方法で僅かといえども、10棟も実現しつつある報告、書いていただき、とてもうれしかったです」

    こちらこそこんな感想を聞けて嬉しい。おくっても「二行多いです」「明日までに校正してもどしてください」なんてだけ書いてくる人が多い中で、井出さんは建築家が本業だけど、ほんとうに今どき珍しいまっとうな編集者だ。3月号、読んでください。

    2月23日 元のところに家を建てちゃいけないの?

    石巻周辺の被災地をみてきて感じたこと。
    みなさん、食べ物、着るものはもう十分あると言っておられました。瓦礫の処理もかなり進んでいました。
    しかし仮設の人には赤十字から家電6点セットがくるが、自宅を直している人や、2階に住む人など、仮設・借り上げ以外に住む人には何も来ない。といった不満も聞きました。
    瓦礫の片付け、物資支援、炊き出しなどの終わったあと何をすべきなのでしょうか?
    町づくりだと思います。それぞれ高台移転と現地再建でゆれています。仮設単位で説明会をしても住民の意志は見えてきません。かつての集落単位のコミュニティを大事にすること。集落ごとの新聞を出して遠くに身を寄せている仲間に伝えること。ちりじりにならないように。行事や祭り、伝統芸能などを大事にすることも、コミュニティ保全につながります。
    集落ごとに話し合い、いっせのせで高台に移る必要もないかと思います。
    どうせ行政が金をかけすぎて高台を造成するころには、結構な家族が都市部に腰を落ち着けてしまうのではないか。八ッ場ダムの代替地のように。「高台ができるのをまっていたら死んじゃうよ」と賃貸の復興住宅に入った方がいっておられました。
    また海際は再建築不許可にする動きもありますが、「もとのところに戻りたい。津波がくればこんどこそすぐ逃げればいいんだ」という人も居た。根津のおじいさんが「地震が来たらこの長屋で潰されても本望だ」といっていたのを思い出しました。どこで生きるのも,どこで死ぬのも憲法に保障された自由ではないか。

    2月24日 元商社マンの意見

    聞いて来たことをすぐ起こさないと、メモは使い道がなくなる。かなり疲れて来たけど、石巻の話をまとめる。

    4時に赤坂でひょんなことであった人。退職した商社マンです。
    「ロンドンにいたとき確信したのは、福祉がよすぎるとひとは働く気がなくなる。生活保護の方が働くよりいいと働かない」「社会はピラミッドだから不公平があっていい。みんな平等ではなりたたない」「我々サラリーマンは税金をばっちり取られるから。消費税一本にした方がよっぽどフェアだ」「大阪の橋下はいいと思いますよ。ああいうのにやらせればいい」

    一緒にいた恵美ちゃんともどもむかつきながら反論するのも疲れ,さっさと帰って来た。未だにああいうひと、いるんだなあ。

    2月25日 頭は青鞜

    『青鞜』の冒険を「こころ」に書く。
    ちょうど平塚らいてうに奥村博が戻って来て、二人で赤城にいっちゃって、留守番の伊藤野枝が獅子奮迅のところへ、木村荘太からラブレターが来て動揺する。
    今までのと違い、私は谷根千との比較をしながら雑誌編輯としての青鞜を地誌にからませて書いているのだが、なんでも個人的なことを青鞜誌上にかいてしまうところはすごいなあ。ひとからきたラブレターも、結婚に当っての伴侶への質問状も、親にあてた独立宣言も。そのうえ、会ってもいないのに妄想で求愛するオトコとか、恋人たちの間に割り込んで俺をないがしろにするならみんなばらすぞと脅迫するオトコとか、大正ッてへんなのがおおいなあ、とあきれながら書いた。

    疲れたので、ヒロシと野池さんにお寿司を食べに行った。そしたら若いころから知っているケンちゃんも立派な旦那さんになられたので、「苗字はなんて仰るの」ときいたのだけど、「昔通り、ケンちゃんでいいですよ」と言ってくれた。うれしいな。

    そのあと、ペチコートレーンで甥のヒコベエたちのライブ。窓のそとに谷中を楽しむ人たちが通るのもいい。ここのママ、アキオさんに世話になった若い人はおおいなあ。みんな覚えているよ、いつまでも。

    2月26日 お風呂とビール

    日曜日なのに。一日仕事。岩波『世界』からゲラがきたので,あちらも仕事なんだなと連帯感湧く。今回は「東京も被災地だった」と根津山の湯や谷中コミュニティセンターの建て替えについて書いた。これも進行中のことだからなかなかうまくいかず。
    もちろん、そのうち藤倉さんなりなんなり、それぞれ詳細に論文でも書いてくれるだろう。
    谷中防災コミュニティを考える有志の会は、3月4日午後1時半から、コミセンで。

    午前中は谷中・千駄木の歴史の会、1945年のこの日、谷根千は空襲でやられ、谷中で70人以上、千駄木でも60人以上なくなっている。
    1945年3月4日を忘れない─谷中は戦場になった(http://311.yanesen.org/archives/914)

    とにかく前のように集注力もたず。サトコが帰って来たので「お風呂行こうか」と富士見湯へ。そしたら今日は百円だった。得した気分で「ビール一杯飲もう!」と薬師坂の「なかや」に。立ち飲みだけど初めてはいった。たくさんの純米酒が安い。このつぎね。

    2月27日 越後の粟島

    並行して新潟の粟島の聞き取り調査をおこしている。いまも独立自尊の合併しない誇り高い島だが、昔のはなしを聞くと、涙が出てくる。
    「学校をつくるため、島民はせっせとアワビを採ってその収益をあてた」。過疎地対策費で立派な校舎をたてたりはしないのだ。
    「自家発電を最初にしたのは昭和27年,それも夜だけ。テレビが見られるようになったのは昭和44年だった」
    「診療所をつくってもなかなか医者がいつかなかった。いまは高速船があるからいいけど、むかしは屈強な若者が20人くらい、病人を乗せて早船で岩船までおくった」。みんないっしょうけんめいいきてきた。
    アイルランドの絶海の孤島、スケリッグ・マイケルもかくやと思うばかり。あそこにはマンクスミズナギドリもいるし。いや違うな、アラン島だな。海藻を肥料にするあたり。でもあんなに平らじゃないか。

    2月28日 寄田さんからメール

    放射線の影響がどの程度のものか?よくわからない。
    陸前高田の材木を燃やすことや、岩手県の瓦礫処理までヒステリックに反対する人たちにはうんざりする。
    子どもが小さければ注意するのは当たり前だが、いますぐ福島から逃げろ、逃げないヤツは馬鹿だ、というような文言にも違和感を感ずる。
    当面、私自身はウクライナ基準くらいのものなら食べる。1bqも出ちゃいけない、というのは現実的に無理だ。福島でも群馬でも栃木でも必要ならいく。

    友人の馬の調教者でホースセラピストの寄田勝彦さんから。許可を得て公開します。長文だがぜひ読んでほしい。
    彼は沖縄や粟島で福島からのこどもたちのキャンプを行い、しかも福島にあたらしく牧場をつくることにしました。福島にこどもたちがいる限り。

    「僕は原発に反対です。
    世界にある、すべての原発がなくなれば良いと思っています。
    低線量被爆もなくすべきと考えています。
    得に自分で選択出来ない子どもたちを大人が守るのは当然の事なので、命を基準としたルールを作ることが重要だと考えます。
    分からない事は安全サイドに立って考えるべきです。
    そして、命のボトムラインはお金ではありません。
    お金を基準に命を計量することは許しがたい侮辱です。

    これが僕の思考と行動の前提であり、原理です。

    さて、ここから原理を超えた現実の話になります。
    ある人が定住に繋がる支援はやってはいけないと語ります。
    これは、原理主義としては賛成です。
    しかし、原理主義の問題点は、切り捨てられるものが多すぎるという事です。
    ゆえに、原理主義はファシズム的にならざるを得ません。

    考えてみます。

    定住に繋がる支援と、定住に繋がらない支援、二つの支援は何が違うのでしょうか?
    定住に繋がる支援とは、その場所で暮らす人の暮らしの質を高めるという事でしょう。定住に繋がらない支援とは、今暮らしている場所からの避難して別の場所で暮らす為の支援を指すのでしょう。

    この二つの活動を明確に分類し、かつどちらかの活動が悪であるという判断は非常に危険です。
    それは、分断を生み出します。それだけではなく、「暮らす人により添う」という内在化された支援が不可能となります。

    「私たちは福島です」ここから始める事が重要です。フクシマではありません。

    政府や報道が正確な情報を流さないという話とは別の次元です。
    正当な市民の権利として正確な情報を獲得する権利があります。なので、政府は正確な情報を提供する事が責務です。その意味で、現在の状況が正確な情報によって生み出されているとは全く思えませんし、政府の発表を信じる気持ちには未だに全くなりません。
    しかし、だからといって、暮らしを二分化した価値観で判断するのは間違いです。

    逃げたいと考える人には、誠実に対応すべきです。
    もちろん必要な支援を受ける権利を失うことがあってはいけません。
    残って暮らしたいと考える人にも誠実に対応すべきです。
    残る権利もやっぱりあるのです。

    凄く環境の悪い地域で暮らしている家族が複数います。
    100キロ離れたところに、とても環境の良い暮らしの場所があります。
    ある人がやって来て、家族に言いました。
    ここから100キロ離れた場所に家を建ててあげるからそこで暮らしなさい。
    全ての家族にそのチャンスを与えますと言いました。
    でも、やっぱり全ての家族がその提案に参加するわけではありませんでした。
    数家族は生まれ育った環境の悪い地域で生きることを選びました。
    ある人がいいました、こんな環境の悪い場所に残ると判断する人間は、親として失格だから、何の支援もしません。もし、君が改心したら、新しい場所で新しい暮らしを準備しましょう。
    バカはだれか?

    スラム街で暮らす子どもたちがいます。
    この子どもたちがスラム街から出るという条件を満たすなら、支援をしましょう。
    しかし、スラム街で暮らし続けるならば一切の支援をしません。
    それは、スラム街での暮らしを認める事になるから。
    スラム街を出るしか解決方法はないのですから、支援は条件付です。
    これは良いのか?

    強制的で暴力的な移動でない限り人は、完全にまとまることはありません。そしてもし、強制力によってまとまったしても、幸福とはほど遠いです。
    必ず残ることを選択する人がいます。
    そのぐらい歴史や文化は重いものです。時として命よりも重くなってしまいます。
    ゆえに、この状況においては、人々に分断が生まれます。
    残る人はバカで出て行く人が賢い。
    残る人は情報が不足しているのであって、啓蒙が必要である。
    残る人が無責任で、出て行く人が責任のある行動を取っている。
    この分断と侮辱を増長させるのが、このファシズム的支援です。
    これはやってはいけない。
    その流れは啓蒙的にならざるを得ず、内発性を排除し、ファシズム的になります。

    全ての命は輝く権利を持っています。
    その権利は権利を超えて尊厳です。
    この尊厳を奪うことは誰にも出来ません。
    そしてその尊厳を尊重し認めるという責任を僕たちは負っています。
    その尊厳に対して必要な支援を提供することは辞めてはいけません。
    何よりも必要な支援なのです。
    この尊厳に対する支援は、外部と内部の関係では構築出来ません。
    「より添う」という事がどうしても不可欠です。
    いかなる命にも寄り添うこと、それは私たちが内部として生きている事に他なりません。
    この事がとても重要なのであり、このことがボトムラインなのです」

    森まゆみ(2012年2月27日)


    ●震災日録2月11日〜16日

    2月11日 おきなわつかれ

    年のせいか、那覇まで往復したのでかなり疲れた。
    帰りに車に乗せてくださった方の話を思い出している。
    「はじめて東京の大学に入るのでいったとき、パスポートに帰国証明と判を押されて反抗心が芽生えた。祖父も父も弁護士でした。でもおばあさんが偉かった。夫が勉強中、学校の先生をして留守を守りきった。しかし孫である私の前で祖父はその漁師の兄を『この無学もん』とどなった。勉強させてくれた兄さんなのに。それで偉くなったが祖父は軽蔑してましたね」
    沖縄ッて複雑なところですよ、個人の歴史にその複雑さがこだまする、とその人は言った。辺野古海上案に反対して泊まりにあった防衛庁沖縄局の前でハンストをする友につきあい夜明かししたと言う。

    耳鳴りがする。お昼は友人の家でご馳走になる。
    「手帳で収入につながらない用事に緑を塗ってみたら、手帳が緑だらけになったって、誰かが書いてた。私も人に頼まれて紹介したり、調べてあげたり、情報を教えたりばかりだわ」という。
    私の手帳も真緑だろう。この年になるとしがらみもおおすぎて。確定申告の段になって、がくんと減っているのに気付く。「だって3・11以降、あちこちかけずりまわって仕事してなかったじゃない」と娘。でも10くらいの映像作品をアップしたし、去年はそういう年だったんだ。

    2月12日 ドキュメンタリーを見る一日 

    高円寺・座でドキュメンタリーの公開審査。ずっとライトに照らされもう気絶しそう。

    『相馬看花──奪われた土地の記憶』よかったな。わたしも本を届けにいった相馬女子校に避難していた南相馬の家族を追う。一つの家族を追っていると、その人について20キロ圏内の逃げない人々のところにもいけるし、避難所で一所だった人たちが越した先の仮設住宅にも行ける。そしてかつて国策で煙草や塩をつくり、国策で原発を迎え入れた土地の歴史が浮き彫りになる。若い撮り手が信頼されているのがわかる。

    相馬女子校は耐久性に問題ありと、私のいった日に閉鎖になった。でも体育館よりはるかに居住性は高かったはずなのになんで閉鎖にしたんだろう。二次避難、三次避難というあわただしい日々。立派な家がありながら避難所に、温泉ホテルに、別の町のアパートに住まなくてはならない人々。ああ、本当に申しわけない、と思いながら見た。

    『カミングアウトストーリー』これも見ながら自分が変わっていける映画だった。
    土肥いつきさん、京都の府立高校の先生は男性の体と女性の心を持つ。だから適合手術をした。陰茎を取り、女性器を作る。はじめ弱々しそうに見えたいつきさんが、だんだん強く、粘り強く見えてくる。
    なんで50近くになってそんな痛い手術を受けなくてはならないのだろう。男の愛を受け入れるためか。そうではなく「女性の体を獲得したい」という長い間の欲求を満たすためだ。女はショートカットにして男装することも多いが、男性の女装へは違和感が強い。女装した高校教師が女性の下着を盗んだとき、いつきさんは「やっちまったか」といって泥酔する。そうならない道を探れたはずなのに。
    ヘテロな私にははじめ違和感があることが映画を見終わるころにはなんだか、共感してしまった。あとの2本もよかったけど。

    夜中、宜野湾市長選の結果出る。やっぱり。革新の伊波候補、自公推薦の佐喜真に900票差で破れる。

    2月14日 宜野湾市長選のショック

    物すごくショック。きょうはたちあがれない。
    でも東京新聞の『宜野湾市民は怒っている」といった記事より、私の同行した朝日のルポのほうが市民感情を伝えていたのかも。歯切れは悪いが正確だった。
    負けて人のせいにするのでなく、なぜ勝てなかったのか、考えなくては。
    演説会や街頭演説より写真入り、カードばらまき戦術の方が効果あったのか?
    伊波陣営は「勝てるし勝たなくては行けない選挙」といってた。おおかたの評価も伊波有利だった。「それでゆるむとまけるぞ」といった人もいた。

    「いったん市長をやめて知事に出た人がまた市長とは虫がいい」
    「伊波は市長としてはなんの実績もない。労組上がりでもういい年」
    そう言うネガティブキャンぺ−ンが行われていた。

    長い基地との共存のなかで騒音にもなれっこになった人たちがいた。そして基地で働く人、地代がはいる軍用地主、タクシーや飲食店も基地経済の中にある。
    「基地賛成なんて言ったら宜野湾では勝てん。挨拶みたいなもんだ」
    「基地は反対よ、でも出会ったアメリカ人はみんないい人だった」
    「65年で一度しかヘリは落ちていない。あれは事故でなく不時着」
    「すぐ基地が戻ってこない以上、日米交流の町づくりに補助金を出させたい」
    そんな声も聞いた。そのうえ、
    「沖縄は義理堅いから親族に頼まれればざーっとそっちへ流れる」
    まさに真部局長がそうしようとした通り。そしてあの事件はうやむやにされ、佐喜真と仲伊真知事のパイプだけが強調された。そして民主党の無方針、自主投票。

    「沖縄県民はみんな基地で怒っている」と伝える本土のマスメディアとは違う声に私は驚いた。伊波さんの演説会であった人は元公務員とか教師とか組合運動経験者といった意識の高い人々。しかしそうでないサイレントマジョリティが動かした今回の選挙だったのかもしれない。といってもぎりぎり半々だからね。

    2月15日 被災地公務員の苦悩

    昨年4月にたずねたある避難所の職員さんから手紙がきた。

    「早いもので震災から10ヶ月以上たちました。その節はたくさんの本を頂戴し、ありがとうございます。
    森さまがお越しになった4月中旬は、連日の被災者対応に心身ともに疲弊しきっている頃でしたので、失礼がなかったかと、当時を思い出すおりに心配になります。何日も飲食睡眠なしの勤務をしてしまい、心身ともに多少壊れてしまいました。食事から物資配布、排泄の介助までお手伝いしても、苦情やお叱りの言葉を受け続けるような当時を振り返ることは困難で、支援してくださったみなさんに感謝の気持ちを伝えるところまで気持ちを持っていくことができませんでした。森さまのふくよかな笑顔に対し、緊張し、引きつった対追うだったと思います。きれいに並べることすらできず、本を粗末に扱ってしまったようで胸がいたんだことを今も覚えています」

    本を届けることが、ときに相手の重荷や苦痛になったりすることも考えなくてはいけないことだった。住民側の行政に対する不満ばかりではなく、行政内部の方の気持ちを紹介したい。福島県の海辺の町でも、知り合いの兄弟が罹災証明などの事務対応に追われ心身を損ない、やめようか悩んでいる話を聞いた。公務員もそれぞれ被災者で心に傷をおっている。それを忘れないようにしよう。

    今日は朝から胃カメラ。昼過ぎ税務申告。夜は22歳のときの会社の先輩と飲む。

    2月16日

    昼、民主党の広報紙で有田芳生さん、取材に見える。議員になっても偉そうにならない珍しい人。しかし民主党に期待しているかと言われてもなあ。政権交代は大いに意義があり、「コンクリートから人へ」のキャッチフレーズもよかった。普天間県外移転、八っ場ダム中止。そのとおりやってほしいが、そうなっていない。というしかない。しかし自民党に戻るのは絶対やだ。橋下の維新の会にもっていかれるのはもっとあぶない。社民、共産が政権とれるとも思えない、うーむ。

    原発、基地、ダム、みんなおなじ利益誘導型の公共事業。ばらまきゃ地域はよくなるどころか自然と文化の破壊が進み、暮しはさもしくなった。来日したブータン国王夫妻が心を打ったのは「つつましくとも心豊かでしあわせなくに」だからだろう。交付金というシャブ漬けになった心を替える文化革命が必要なのだろう。息子が帰っていう。「ベトナム戦争をとめたのはジョン・レノンじゃないかな」。かもね。

    夜は写真家の旧友とジャズ喫茶映画館で、ご主人との写真機のマニアックな話を聞きながら飲む。といったってカンパリソーダ。沖山秀子、いいおんなだなあ。

    森まゆみ(2012年2月17日)


    ●震災日録2月1日〜10日

    2月1日 4年のうちに70%?

    たまった仕事。夜はのんきに行って、友人たちとそのあと東大バーへ。

    直下型地震が4年のうちに70パーセント起ると東京大学地震研究所発表。3・11での失敗を取り戻そうと、誇大にいっときゃ間違いないということなのかな。
    税金を使って研究しているのになんにも役に立たないどころか、パニックを起こすようなことを今さら言ってどうする。週刊誌には東京で危ない避難所として東大があがっている。あそこには逃げない方がいいと思う。

    2月2日 高台からなぜ戻るのか?

    毎日何となく体調不良、喉が痛い。寒いところにいすぎたせいか。でもヒートテックは化繊でだめだしなあ。絹の下着を着ています。

    さいきん「官僚」と言う文字を見ただけで吐き気がするようになってきた。「興す」という字もだめ、興業、興産なんて会社がこの日本をずたずたにしてきたから。「開発」という字も活性化という字にもアレルギーをおこしているわたし。

    山口弥一郎『津波と村』(昭和18年の復刻、三弥井書店)を読む。
    明治28年と昭和8年にも大変な津波に襲われて村がなぜ現地に戻ってしまうのかを研究した在野の民俗学者の本。せっかく高台に移動しても誰かひとり海際に降りて大漁でもうけたり、後から入ってきた漁師がいい目を見たりすると、どうしてももとのところに戻りたくなるという。「1人でも降りたらおわりです」と山口さんは話していたという。おすすめ。

    午後、妙蓮寺の矢萩多聞さんの家で南インド料理をご馳走になる。

    2月3日 地質から見た八ッ場ダム

    八ッ場ダムを見てくださる地質学者の方々のお供。東川口駅で伊藤さん、中山さんと待ち合わせ。地質屋さんはさすがにアウトドアな恰好でやって来た。私を見て、戦後のかつぎ屋みたいだな、という。藪に入ったらいっぱい草がつくよ、その通りになった。

    湖面1号橋も高い橋脚が建ってしまった。
    地質学者のいうことはスケールが大きく300万年前の新しい地層などというのでビックリ、天明二年の浅間山の噴火灰のあととか、地質を見るだけでいろいろなことがわかる。貫入という下からはいってくる地層、熱変質と言って100度から200度までの熱水でもろくなった地層などあり、そんなものがダムの下や代替地にあれば、かなり危ないことだろうとわたしは思う。しかし科学者たちは、慎重であって断定的なことは言わなかった。

    2月4日 官僚だけが肥え太る

    変質性岩の専門家藤本さんも合流。雪深い川原湯温泉近くを見てあるく。
    お昼は旬さんの野菜ラーメンでみんな体を温める。ここのコーヒーは大きなカップになみなみあって四百円。おいしい。

    地域の人たちはもう政府の何度もの方針転換に翻弄され、疲れきり、動じない。しかし地滑りしやすい切り土と盛り土の代替地へ移るかどうか、悩んでいる。あらためて60年の人生を国にめちゃくちゃにされた人々に申しわけない。下流都県民の税金も注ぎ込まれ、そのために作るという名目なのに。国とは国民の幸せのためにある組織ではないのか?
    しかしいったん官僚という利権集団があいだに入ると、税金を吸い取り、それを公共の福祉の名の下に自分たちのいいように使うだけ。税金で視察をし、税金で天下り団体を作り、不必要な公共工事で国土を荒らすだけ。

    2月5日 コミセンの歴史

    谷中コミュニティセンター委員長の浅尾空人さんにははなしを聞きに行く。
    昭和56年頃からのコミセンの歴史を詳しく。台東区長内山さんが安上がりで、住民参加の施設づくりをどうやってきたか、などなど。お父様は桜木、谷中の美術家と深い親交を結んだ方でした。

    2月6日 古いチラシ

    夕方、ヤマサキ、仰木と千石3丁目の港やに谷根千、小石川の店のチラシを観に行く。
    どんな店があったかわかり、とても興味深いが、ふるいチラシが一枚平均1000円なので個人で買える資料ではない。月日だけはいって年が入っていないのも年代特定が難しい。
    エンタクの広告。北原白秋の弟がやっていたアルスの広告。めずらしい。文京区が買えばいいが。

    2月7日 宜野湾のラブホテル

    15時の便で沖縄へ。雨。寒い。朝日新聞支局は沖縄タイムスの中。早速宜野湾へ。

    海岸ベリにはリゾートあり。宜野湾市は9万4000人。真ん中に普天間基地。「よこぎりゃはやいのに、いつも基地が邪魔」。
    軍用地主は3000人、年間1000万以上モはいる人が1パーセントいるという。復帰後も年金をはらっていないひとが多く、その地代が年金代わりだというが。そりゃ筋違いだろう。いまさらサトウキビ畑には戻せない。油漏れなどで汚染されている。復帰前は一坪コーラ一本分だったのに、4倍、7倍にした。それは基地漬けにするため。復帰後、急速に宅地化されたという。
    泊まったホテルははっきり言って復帰以前からあるラブホ。ダブルベッドに枕二つ。ハワイの絵。緑色の冷蔵庫、女の長い髪。

    2月8日 選挙戦を取材

    朝の嘉数公園。京都の塔は京都の部隊430人がなくなったという。在日韓国人の犠牲者を弔う青丘碑。島根県の部隊の碑。

    ゲートボールのお年寄りがいっぱい。

    「佐真下に住んでいる。基地がうるさくてかなわない。特に火曜がうるさい。テレビが映らない。政治は好きでないので、わからない」
    「まあ、半々やろな。みんなわからんもんだから口コミであの人に入れてといわれればざーっとかわる。誰がやっても替わらないな、とみんな思っている。基地は危険だから撤去した方がいいが、軍用地持っている人はなくなったら金が来なくなる。私は1歳のときに両親を沖縄戦でなくして、姉に育ててもらった。戦後は苦労した。米軍の戦車に乗せられて捕虜にされた。この辺、木という木はなく石がひっくり返って真っ白。だから基地には反対。バス会社に勤めて組合もやったから、ずっと反対してきた。伊波さんに入れる」
    「いまのはハーキュリーズ。岩国から来たFA18とかはうるさいよ」
    「昭和2年の卯年、手榴弾で知り合いのやられたのを背負ってひめゆりの塔のあたりから糸満まで逃げたことがある。父が57歳で艦砲射撃でやられ、木をばっさり切った破片が体に突き刺さってとまった。それでうしろにいた僕と母親は助かった。捕虜になって野嵩の収容所に入れられて、それからずっと宜野湾。建設関係の仕事をした。基地じゃないよ。野嵩の学校とか作った。ここで基地賛成といったら選挙は通りません。いまうちは防音工事やってる。パイロットの顔が見えるよ、うちきてみるか。子ども3人、孫8名、ひ孫もいます」
    「若さと行動力があるから佐喜真がいい。伊波は14年間市長のときには何もやってない。いまきたのはC135だ」
    うーむ、どうなるのかなあ。

    真栄原公民館にて。男性が踊りにきた女性たちに候補のカードを配った。公民館員は公務員でなく自治会の人だからいいのらしい。沖縄は選挙管理が甘い、管理されない選挙だという。自民、公明、財界は佐喜真。社民、社大、共産、市役所労組は伊波。ほとんどの人は聞くと沖縄戦で家族を亡くしている。

    昼ご飯はもちろん沖縄そば。伊波候補が事務所をでるところにばったり。対立候補はマスコミ嫌いで今日は街頭演説なし。爆音訴訟団の桃原市議に再会。

    山田泥真・真由美さん親子に会う。琉球紅型の作家で名前はドロシー。親しかったアメリカ人につけてもらったという。昭和22年生まれ。

    「父は渡嘉敷憲伸。廃藩置県で武士の身分を失いました。明治18年生まれ、13、4で移民となって西表にいて、父親がマラリアにかかってなくなり、山田という棟梁に預けられて福島に行った。それから上野の美術学校へはいり、絵を描いたり、高村光雲の弟子になって彫刻をしたりした。山田真山という号です。
    小堀鞆音の娘と結婚して生まれた長男は東南アジアで戦死、次男は戦時中に学徒出陣でなくなりました。これは後妻のうちの母が育てた子ですが。父は紙徴兵にもなれないくらい体も弱く小さくて、いつも戦争に送り出す側でした。ですが戦後は琉球政府で画家として重用され、切手の図案を書いたりして、平和を祈念して記念塔におさめる仏像の原型を作りました。
    62で私を、65で弟を生んで全部で12人子どもをつくて92歳でなくなりました。母はレストランをやってハンバーガーなど作って父を支えた。

    私は戦争を体験してませんが、灯火管制の中を米兵が朝鮮戦争へいくのに野嵩を上って行く向かう軍靴の音、ざっくざっくするのを忘れられない。むかし普天間は草ぼうぼうだった。ラジオ番組にでた米兵が3人いたのに毎週一人ずつ減っていった。彼らはベトナムに行きました、とアナウンサーはいった。婦人会が割烹着かけて朝鮮戦争にいく兵を送る。ヘリコプターがばりばりいって。だから私は戦後生まれの戦争体験者。
    なんでも自分の身に降り掛からないとわからない。対岸の火事なら戦争は儲かる。米軍出ていけでなく、米兵も心の傷を受けている。どこの人でも戦争は嫌い。だから外交はなにしているの。沖縄は基地のあるところだけでなく、文化があることを知ってほしい。だから紅型をやっているのです。

    沖縄も基地がある見返りに政府から当たり前のように金をもらう。箱ものを作る。その交付金だってみんなの税金だということを知らなくちゃ。当たり前のようにもらっちゃいけないと思う。日本がつぶれたら沖縄もだめなんだから。保守でないと金はこないというような言い方はおかしい。
    こどもに武器を取らせるような教育はしてはいけないとおもいます。だから宜野湾も八重山みたいな教科書を採択するようになっては困る。憲法9条があるということが大事。米軍が撤退すると自衛隊がはいってくるのではないかというのが心配。自衛隊も災害救助隊になればいいとおもいます」

    普天間三部自治会を訪ねた。武島俊一郎さんの話。

    「おばあちゃんが戦後、婦人服と学生服の店を始めた。この辺は1階が店で、2階が住まいで、みんな買いにきた。社交街があってこっちは1、2階が店で、3、4階に家族が住んでたそうです。戦後すぐは農村で町ではなかった。外人住宅は柱もない。屋根裏もなくて暑い。更地にして返すはずが民間で売買されています。
    昔は外人住宅に住んでいるのは貧乏人だという感覚があった。でもいまはおしゃれ。地代は安いし、建物は古いし、何やってもいいよ、というからアイディアさえあれば面白いことができます。
    宜野湾は物流の中心だし、子どもは増えていて、活気ある町だと思う。セレクトショップやバーで330号線は空き店舗がないくらい。
    生まれたときから基地があるから当たり前で、一年もすめば騒音も慣れる。うちの妻も内地の人間だけど騒音は気にしていない。ベトナム戦争のときは頭の上をギャラクシーが飛んですごい音だったが、嘉手納のジェット機が飛んでこない限り我慢できる。
    子どもの頃はホームランを打てば基地にはいって、策の下の穴をくぐって基地内に入ってボールを拾ったりした。ハロウィンに外人ハウスを回るとお菓子をもらえるとか。一番いやなのは飛行場で訓練していることではなく、当て逃げや泥棒など外で悪いことをすること、それを罰せられないこと。
    いい悪いをいってないで、飛行機がおりる大謝名辺りに本土の政治家の家族が住んでみればいい。当事者にならない限り、ものは見えないんだから」

    自治会会長渡名喜さんの話。

    「復帰が高校一年のとき。ドル使っていた。サインバーがA、B、Cと分かれてた。海兵隊は兵舎が移転してでてこなくなった。北谷へ流れた。復帰後は日本人相手に切り替えた。昔は基地で働くガーデンボーイやハウスメイド、エンジニアは高給で公務員や教師はやすかった。
    いまはそんな仕事はなく、基地で働くのは300人くらい。県外のメディアは普天間基地問題を云々するが、我々には暮らしの問題がもっと大事。基地反対は挨拶みたいなもの。ほんとうは経済をどうするかだ。
    嘉手納の道の駅みたいに、基地があるから学習に来る人もいるだろうし、むしろ観光資源と考えたらいいのではないか? 基地でカーニバルがあると口コミだけでも人がわんさと集まる。女の人は知らないが、男はメカとしての飛行機や戦車に関心がある。もちろんおいしい店もあるわけだけど。なくなるまでは共存しないと。
    沖縄国際にヘリがおりたときもたいした被害もなかったでしょう。65年にたった一件だけでしょう。当面なくならないなら、もっと米軍と交流してもいいのではないか。そんな文化交流の施設を作るよう防衛省に補助金を申請したい。静かな夜を返せといって外人部隊が夜中まで選挙戦をする方がよっぽどうるさい。
    辺野古にジュゴンがいるというが、普天間の基地の周りにはたくさん子どもが暮らしている。ジュゴンと人間の子どもとどっちが大事か、とおもう」

    伊波候補の街頭演説を聞く。5時だけど寒そう。朝日新聞の人たちと別れ、夕飯に一人台湾料理を食べる。小龍包。ビール。野菜の前菜。

    7時過ぎ、タクシーで真志喜公民館へ伊波さんの演説会を聴きに行く。本当だ。基地を横切りゃ近いのに。爆音協(すごい名前)の富田さんが「あした、辺野古まで送って行こうか?」といってくださる。帰りも普天間南の交差点まで、誰かの車で送ってくれた。優しい人の多い車社会沖縄で送るのは当たり前だそうだ。
    今日のホテル、お風呂はあるが、ヒーターはない。テレビはついた。タオルもあった。

    2月9日 高江と辺野古

    ラブホらしいしつらえながら、おばちゃんは親切で朝バナナとビスケットをくれた。
    8時に爆音訴訟団の富田さんと待ち合わせ。静岡で学校教師をしていた彼が沖縄に興味を持ったのはお嬢さんが沖縄の大学に行きたいといったとき。
    「もうこっちで所帯も仕事も持っています。それから海や自然が好きになって、歴史も勉強して普天間基地問題にかかわった。そしたら移住して爆音訴訟の原告になったらいいよ、というので平山さんとアパートを借りている」

    平山さんとは山手教会牧師の息子さんで昨夜「うちの姉は沖縄問題をよくやっていた」というので聞いたら、朝日新聞の松井やよりさんだった。
    富田さんは知れば知るほどひどい沖縄の基地問題を本土の友達に伝えるためのボランティアガイドも務めている。

    ほんとうは辺野古に行くはずだったが、まだ早いから先に高江までいってみようという。名護をすぎるとどんどん人家は少なくなる。
    沖縄といえばゆんたく(おしゃべり)、ゆいまーる(助け合い)、そのベースが各集落に一つはある住民立の共同店。限界集落なんていうが沖縄ではみんなでお金を出し合って店を維持している。なかなかきれいで、野菜、肉、魚、米、飲み物、調味料、トイレットペーパーや洗剤、弁当、タバコ、何でも売っている。どこにも明るい顔のおばあがいる。まえに弁当を買ったおじさんに「はいさい」と挨拶されて、まだ「ハイサイおじさん」がいるんだとおどろいた。外には風通しの良いゆんたくテーブルがあって、すばが食べられる共同店もある。

    ヤンバルの森はまるでインドネシアカリマンタンか、タイの奥地のような熱帯性の植生が続く。T字路のところに誰か立っていた。防衛庁の役人が来ないか、毎朝立って監視しているのだ。ここにヤンバルクイナをはじめたくさんの固有種がいるが、密林での掃討作戦の練習をする米兵たちもいっぱいいる。
    宮城勝己さんは「こどものころ、夜中にざっくざっくと武装して歩く米兵がこわかった。ベトナム戦争のころは農民がベトナム人のような菅笠をかぶせられて演習に出演させられたんです。あぶなかった」。彼もまた「戦後生まれの戦争体験者」である。
    いままた未亡人製造機と呼ばれ、じこをおこしやすいオスプレイなるヘリコプターを配備する基地、ヘリパッドが7つも集落を囲むように作られる計画。住民たちはそれを阻止するためにゲートの前に車を並べ、非暴力で沖縄防衛庁の工事を阻止し続けている。

    畑仕事の合間にきたのは森岡浩二さん。「栃木の方で農業をやっていたんですが、子どもを自然の中で育てたくて。それに自分、寒いと神経痛がでるので暖かい沖縄に来ました。基地があることははじめから知っていましたが、新しいのが集落近くに作られるなんていやですねえ」ヤンバルでは珍しく米に挑戦している。

    東村はいまはパイナップルで有名だ。東村村長ははじめ基地反対だったが、一日でころっと基地容認にかわったという。「どうやったらそんなにころっと変われるんでしょうね」というと、「反対は口先だけさ。対立候補がでないとわかったとたんだね」

    沖縄県職組の宮城淳さんはバイクでやってきた。「今日は休みなのでちょっと見に来ただけです」。
    富久亮輔さんは多摩在住のナイチャーだが、退職後、2年ここに住み込んでいる。運転してくださった富田さんといい、公務員、教員で退職後、沖縄生活を楽しみながら、基地反対の支援を生き甲斐のようにしておられる方がいる。
    なかなか暮らすだけで大変な人が多いなかで、知識もあり年金も生活に困らない退職公務員がこうした生き方をしてくれることは大切だと思う。
    あと沖縄では本土と異なり、社会、共産が分裂していない。メンツにこだわらず基地問題で共闘できるのはうらやましい。
    また本土から来てここで最低限の仕事をしながら基地反対の底支えをして、保育園までやっている若者たちがいるのにも驚いた。

    おいしい差し入れのおにぎりや宮城さん自家製のチャンプルーで慌ただしく昼ご飯をいただき、「今度はゆっくりきます」「いつでも泊めてあげるよ」という声に送られ、辺野古への道を急いだ。
    途中、慶佐次という集落でエコツアーらしき人々を見る。うちの息子たちがよく手伝いに行く道草牧場もこの辺にあるはずだが今回はスキップ。
    「よし、きょうは大サービスだ」と富田さんはこんどは東海岸をとおり、辺野古へ。

    大村海岸というリーフのすばらしい海を見る。そのむこうにあるのがキャンプシュワブ。白亜のといいたいような立派な宿舎が見える。その手前の山の中には弾薬庫。
    「南北問題というけれど沖縄は西海岸は海沿いにずらりとリゾートが並び便利でもあるけど、東海岸はこの通り、観光はない。でも静かな村にエコツアーなどをする人が住み着いて、すてきなカフェや民宿もありますよ」
    富田さんはダイビングのライセンスを取って珊瑚の海に潜ったが、「いまはシュノーケルで十分」という。私も慶良間の海にシュノーケルで潜ったなあ。また潜りたい。

    2時、辺野古着。アップル通りの由来となったアップル中佐のいわれが書いてある。辺野古の集落、とってもかわいらしく人間サイズ。アメリカの地名を冠したバーなども多いがいまは海兵隊の連中は街に出てこないそうだ。このまま映画のセットに使えるのじゃないか?

    海辺に私をおろすと富田さんはじゃあね、と手をふってかえっていった。半日ありがとうございました。テントでまず受付、きた人を確認、また仲間を増やすためだろう。

    真ん中にいた明るい顔の方が半対協の安次富浩さん。このかたも公務員だったが、故郷名護に戻り、辺野古で体を張って日本政府防衛省沖縄防衛局と非暴力で対峙することになった。
    世界で一番危険な基地とされる宜野湾市の普天間基地。1996年の橋本内閣のときに、これを返還すると日米で合意ができた。これをsaco合意という。しかしその後も17年、普天間は返還されていない。そして普天間を返すなら辺野古に新たな基地を作ると日米政府は言い出した。それもいろんな案が浮かんでは消え、いまは会場にV次に滑走路を2本作る案。
    世界遺産にしたいこの珊瑚礁の海をコンクリでかため米軍の飛行機が飛ぶがままにするとは。行ってみて初めていろんなことがわかる。

    政権交代起って坊ちゃん宰相鳩山由紀夫は「少なくとも県外移設」をいった。これは正しいが、成算もないままの発言で官僚を動かしきれず、世論も支えなかった。沖縄には気の毒だがうちにはきてほしくない、と言う地域エゴ。そしてまた約束は反古にされ、沖縄の人びとは怒った。八ッ場ダムとおなじく約束は反古。

    この何日か、米軍の配備転換で8000人の海兵隊のうち、4800人をまずうごかし、辺野古はあきらめるというような憶測もとび出したが、安次富さんは動じない。
    政府のいうことを信ずれば裏切られるだけ、これも八ッ場と同じ。「こんどはカヌーに乗って海から見るといいよ」とわらった。優れた活動家にはこの明るさと寛容が共通している。

    2月10日

    9時のモノレールで空港へ。ベビーカーの母子、車体がちかづくとマスクをかけた。
    「那覇でもインフルエンザがはやっているというし。横浜から夫の出張についてきたんです。横浜にいると不安で。でももう浴びちゃってるんでしょうね」。昼間いくところもないので、これから空港のアウトレットにいってみます、という。
    沖縄まできてお買い物か。博物館や美術館で沖縄の大変な歴史でも学べばいいのに、と思う。
    空港は軍属らしきアメリカ人、背広で群れなす公務員は那覇県庁の役人か、あまりしまった顔ではない。12時着。最後に来た偉い人だけJクラスに乗ってきた。

    森まゆみ(2012年2月14日)


    ●震災日録2012年1月22日〜31日

    1月22日 菊池の人々

    朝の便で熊本へ。去年、3・11の直後、12日に私は午後の便をどうにかおさえて九州に飛んだのだった。それで友人の藤原さん宅に一泊して、翌日菊池のシンポジウムにむかったのだ。去年あった人々と再会を祝し、この一年に見てきたことを話す。
    東京の中心部で飲食の店をしていたが、子どものために原発避難をして、東京の子供を持つ家庭のために九州の食材を送るしごとを始めた女性も来て熱心に発言していた。立ち上がる人はどんな状況でも立ち上がり新しい生き方ができるものだな、と感心。

    菊池はその昔、南朝方についてこの地に都を樹立した菊池氏の古郷。肌がつるつるになる温泉も湧き、食材もたくさんある豊かな土地だ。将軍木という木があってそれにお見せする能楽があるという文化水準も高い土地である。

    宴会のあとに熊本ラーメンを食べにいった。この土地からも奥さんと二人で運転を代わりながら陸前高田まで支援物資を届けにいった話を聞いてありがたいと思った。

    1月23日 竜門ダム

    竜門ダムを観に行く。このダムは下流の洪水調節と農業用水には役立っているという。また湖面を利用してボートレースなどを行って、人がよく来ているとのこと。
    川辺川ダムは熊本でもかなり南の五木村。ダムを止めたのはいまの蒲島知事より、前の女性の知事の粘り強い活動に寄るところが大きいとか。
    案内してくれた宝来館のご主人は市議で南相馬に支援に行ったらしいが、支援物資の箱を開ける係で、よくこんなもの送ってくるな、と開けるたびに怒りを感じたという。
    去年訪ねた安全な食材を売る久保酒屋さんのお母さんが、もう住まなくなった山里の実家を改装してレストランを始めた。すっきりしたインテリアで野菜料理がたいへんおいしい。

    藤田洋三さんの『世間遺産』のはなしを聞きながら旅をした。動体視力がものすごく、あそこの蔵のこて絵がすごそうだからちょっと止まって、といっておかげで面白いものがたくさん見られた。
    藤田さんと福岡の石風社を訪ねる。ペシャワール会の事務局も引き受け、中村哲先生を支えておられることに感謝する。活動には3・11以降も着実に募金が集まっているそうだ。

    1月24日 対馬へ

    朝の便で対馬に。空港に6年前、いっしょに釜山を旅した鍵本さんが来てくれて、藤原恵洋さんが会議のあいだ、私と馨さんを案内してくれた。対馬の宗家文書をおさめる長崎県立の博物館をつくるのでその委員会が開かれるのである。鍵本さんはいまボランティアガイドを育てるしごともしているので案内はお手の物だった。

    対馬は日本と韓国の間にあり、大陸の文化はこの島を通じてもたらされた。仏教もここを通り、遣唐使も朝鮮通信使もここを通った。そのためスエズ運河じゃないが島の一番狭い所を切って舟を通したり、大船越といっていったん地上に上がり、舟ごと、あるいは荷物を運んでまた入江から舟に積み替えたり、その場所の風景がすばらしい。

    新羅仏、高麗仏なども多くあるが、あまり注目されていず、ときには盗まれて韓国にわたり文化財指定されたものもあるらしい。
    東京の寺とちがい、アパートや駐車場経営でもうけるわけにも行かず、寺の住職は仕事を持ち、あるいは清貧の暮らしに甘んじているようだった。誕生仏や仏典の版木などもある。

    半井桃水の最初の妻元子の墓をふたたびお参りする。結婚してしばらくして明治14年になくなり、一葉が桃水にあったのはその十年ほどのちのこと。二人が結ばれなかったのは桃水が美しかった先妻に心を残していたからだという説もある。また一葉が24歳でなくなったずっとのちに、桃水は大浦若枝という人と再婚する。この人は芸事の師匠で、演芸批評を書いていた桃水に近いのかと思っていたが、若枝もまた対馬藩士の娘だということだった。
    鍵本さんは「桃水は春香伝を最初に訳したひとですし、征韓論の時代に韓国とは平等互恵の関係を結ぶべきだといっています。明治新政府でも対馬藩が日韓外交を担ったら日韓併合以降の悲劇は生まれなかったのではないでしょうか」という。賛成。
    桃水は『胡砂吹く風』なる韓国の王朝を舞台にした英雄小説を書いており、イ・サンではないがテレビドラマにすればいいのにな。

    さいごに済州島の4・3事件で漂着した100人を超える遺体を埋葬した墓にもうで、胸がつぶれた。朝鮮戦争の頃だから私の生まれる前、しかし鎖につながれた女子ども、なかには細面のきれいな人もいたと、当時を知る人は言っているという。
    ともかく流れ着いた犠牲者に対馬の人々は驚いたであろうが、ちゃんと慰霊の墓をつくってくださった。そのことに感謝する。海で流されたひとのことがどうしても東北と重なってしまう。

    1月25日 亀卜神事

    きょうも鍵本さんと役場の方が運転してくださって、対馬の文化財をめぐる。天道法師という人のお母さんをまつった神社、法師の神社、いずこも椎の巨木がはえ、原生林の中を歩いて、気候のよい頃はさぞ気持ち良いことだろう。お日様から光が射してお母さんは法師を受胎したという。

    対馬は平地が少なく、海まで崖が迫る。一筋の道路からあばら骨のように集落へ至る道があり、その地名がおもしろい。本当に古いものが多い島である。
    離島振興法でここもまた公共事業が主な仕事になってはいるが、崖を削り浜を壊すような公共工事はなるべくしないで、文化を保護し、それが見学客を呼び込むようなしかけはできないか。すくなくとも見学してまわるには公衆トイレや休憩所は不足しているようだ。観光化すると団体客用の大きな景観を害するトイレなど造りがちであるが、そういうのでなくささやかで清潔なトイレはもうすこしあちこちにほしい。厳寒のなか見学した感想だ。

    昼過ぎに亀卜神事という古代からのめずらしい行事があるので見学に行く。なかなか始まらずたき火を囲んで男たちが魚の値段など話している。土地の言葉で、ほとんどわからず。ようやくお宮に魚が供えられ、ろうそくがつき、亀の甲らに金火箸があてられた。農業も漁業も吉、地震もなし、「関東地震多し」の字句にぞっとする。

    宮本常一が滞在した集落や大関対馬洋(つしまなだ)の墓にお詣り。かれは相撲取りをやめたあと、故郷に帰って区長をつとめたという。夜の便で福岡に帰る。

    1月26日 星野村で星を見る

    ゆっくり星野村に向う。福田さんという九大の若い音楽の先生と。民俗芸能が専門だが、お母さんの実家が小千谷の星野家だとか。菊池氏も悲劇の離散をしたが、星野氏も南朝方について、戦闘に破れ、星野村には残れなかった。野球の星野仙一氏もこの末裔とか。
    調(しらべ)と名を替えた人もいる。原発以外にも心ならずも故郷を捨てなくてはならないひとは昔からいたのだなあ。
    全国の星野氏はいまも懐良親王の法事には全国から集まるという。
    うちの母方橘樹も嘘かホントか楠木正成の子孫というから、にわかに後醍醐天皇や小島高徳の故事に想いを馳せる。
    木工の西岡泰心、陶芸の山本源太の両氏を訪ね、山里での精進に打たれる。星野村は玉露の故郷でしずく茶なるおいしい飲み方を教わる。

    きららというよくできた村営ホテルに泊まる。空は満天の星。日本でもっとも美しい村連合にはいっている星野村。つまり開発にまかせず、美しい風景や昔ながらの暮らし、産業を大事にしているのだけど、飯舘村もそのひとつだったのを思い出す。

    1月27日 由布院の再会

    大学入試の会議が急に入った藤原さんと別れ、基山インターから由布院行きの高速バスに乗る。2時駅前につく。
    お風呂に入るか、ランチを食べるか迷う。結局、タマゴ丼を食べて友人美由紀さんと一年ぶり再会。彼女は電磁波にも敏感なので。福一水素爆発後の関東にいられなくて由布院に引っ越した。そのおうちにとめてもらう。

    よしなしごとを語るうち、夕方になり、家の温泉で温まって、和田さんの家で中曽根さん、赤坂さん、平野さんらと鍋を囲む。全員、由布院への移住者だ。リタイアしたあとの人もいるし、いろんな仕事を見つけている人もいるが、由布院は温泉あり、厚生年金病院あり(その存続には私も署名した)、食べ物屋さんも多く、暮らすにはなかなかいいところ。やや朝霧に見られるように湿度が高いのが玉にきず、かな。高原なので冬はかなり寒い。でもいろんな人と出会え、直ぐに友だちになれるいいところ。
    パソコンを持って行ったので2月3、4に地質学者の方たちが八ッ場ダムを視察に行ってくださるというありがたい話のスケジュール調整。

    1月28日 どこに住むかという話

    またよしなしごとをはなし、美由紀さんは私の健康のためのしょうが紅茶にハチミツ胡麻ペーストの朝ご飯を作ってくれた。それからお風呂に入って、物件を観に行く。

    様々な理由で由布院にアトリエやギャラリー、別荘を持ったひとも、また様々な理由で去っていく。だからいつもたてものの売り買いがあるのは東京と同じ。しかし福一の状況如何によっては私も東京を離れざるをえないかもしれず、先に出た人に学ぶことは多い。由布院へも関東からの避難者はけっこういて、すでにチラシを配り、太極拳やバレーを教えている人もいる。
    手に職とはよくいったもので、どこに行っても食べて行けるスキルを持つことは重要。由布院もいいけどわたしは・・・やっぱり南の海沿いがいい。高知か沖縄、竹富、知り合いが1人もいないところはつらいし。
    いずれにせよ、竹富なら台湾の核燃料のゴミの島が近くにあり、九州でも川内、玄海、伊方が近い。関西だと福井の老朽原発、日本中安全なところはない。

    昼は中谷健太郎さんと後藤千香子さんたちと会う。すでに動いている原発は3基。

    1月29日 暗闇シネマ

    帰って来た。いない間に富士見坂からの眺望を守る会が盛んに動いて。午前中しごと。
    12時に友人と新宿風紋の林聖子さんを乃池ずしにご案内。穴子寿司や卵焼きを押ししいと喜んでくださる。わが父と同じくらいの野池幸三さんが前掛け姿で天ぷらを揚げているのを見て涙。お父さんの替りだと尊敬しているのは野池さんとアンノ先生と島根の忠吉さん。

    3時より、蔵でクラヤミシネマ。サリドマイドの若い女性がサンフランシスコへ留学する作品。八王子の絹の道、土本監督の『路上』。『路上』は三回目だがこわくて正視できない。音楽も不安感をかき立てていやだ。とにかく蔵が寒くて凍えた。

    終わってから兆徳で新念会。思ったとおり原発の話になる。日本中が分断されている。悪いのは東京電力なのに、普通の市民がおたがいを責め合うなんて。
    若いお母さんいわく「わたしはママ友の付き合いや会話の内容もA、B、Cでわけています。A層の原発について知識があり、自分の頭で判断して柔軟に対応できるひととはなんでも話せます。B層はゴミ出しに行くにも服を着替えてお化粧するようなママ。人の顔色見て日和るので本当のことは言えません。一番迷っているのはこの人たちでしょう。C層は放射線なんてたいしたことない。なんでそう気にするの?という調子なので話にもなりません」
    なるほどね。彼女はセシウムの性質についてもわかりやすく教えてくれた。

    1月30日 青鞜のあとを訪ねて

    朝から喉が痛い。昨日の冷えがきたのだろう。だから2月の蔵は寒いよ、といったのに。
    3時半にポン太こと弟子の山本明子が『師匠」と来てふたりで青鞜のあとを訪ねて歩いたのであるが、寒いこと寒いこと。
    5時すぎ、鴬谷の「うぐいす」なる貝やきの店に飛び込んだ。半年前にできた店だが貝好きの私にはこたえられない。3種類ずつお酒が飲めるのもうれしい。試飲セットだそうだが、これで十分。熱が出てきて家に帰りダウン。

    12時に息子と娘の話し声で目が覚め参加。エモーショナルに「かわいそう」とかいうのでなく、現実を見よ、放射線値が高い田や畑で米や野菜を造ったり、藁を牛に食べさせるのはあまりに食べ物を作っているという自覚が足りなかった、と若い二人はいう。
    私は知り合いの農業者の顔がちらつくが、ちゃんとした人ほど、今は責任もってつくれない、売れない、すすめられない、と農業はやすんでいるようだ。事故を起こしたのは東京電力なのだからそこに責任をとらせるしかない。
    「1000人に1人、出るかどうかで、当っちゃったら身の不運。リスクを知って東京にいることを選択し、食べるものは食べる」と息子は言う。
    私は「50過ぎたら儲けもの、若者にはできるだけ安全な食事を食べてもらいたいが、私は友人のつくる宮城や山形の食材は支えたい」という。
    直下型地震が3年以内に東京で起こる確率は70%、ばらばらにいても家族を信じて心配せず逃げよう。うちの場合、避難場所は東京大学、避難所は誠之小学校、を確認する。

    1月31日 神田のイワト

    東京の人口は2060年には8600万台になるとか。ひしめき合う島国が適性規模になるのはイイコトだが、年寄ばかり多くなるのは若い人の負担が大変。

    日暮里富士見坂からの眺望をさえぎる住友不動産のビル。これにたいしイコモスが富士山の眺望は文化的な価値が高いとしてこれをさえぎるビル計画に勧告。イコモスはユネスコと連携して世界の文化遺産、自然遺産を守っているNGO。富士山を世界遺産に登録したいと願っている日本政府に取っても無視できない勧告だ。
    富士見坂通信(http://fujimizaka.yanesen.org/)

    神楽坂イワトを主催しておられた平野公子さん、甲賀さん夫妻と引っ越し先の神田で。再開発にもまけなかった古いビルの一角。ここでなにをしようかという相談。3月4日、古今亭志ん輔師匠がまず3月4日になんと『真景累が淵』をやるという。前段通しに3年かけて。ウームいかずばなるまい。
    スタジオイワト(http://www.studio-iwato.com/studio/)
    甲賀巨匠に久しぶりにお願いした中公文庫『昭和文芸史』が1月刊。装幀かっこいいです!

    森まゆみ(2012年2月1日)


    ●震災日録2012年1月16日〜21日

    1月16日 国会議員の数、原発国民投票

    官僚や政治家への不信や反感はますます募っている。そのためか国会議員なんて100人もいればいい、という意見が強いが、それでは少数意見が担保されない。小選挙区制ではほとんどそのとき、勢いのある政党が多数を占めてしまう。今の定数で歳費を半分にし、新幹線グリーン席タダなど特権をやめるのがいいとおもう。できたら中選挙区制に戻したい。地方議会も同じ。というかすでに危ないくらいに定数が減らされている。

    原発是か非かの国民投票、いいとは思うが、やらせメールをみても推進派が金や脅しのあの手この手でヤラセ投票をして多数を占める危険も高いと思う。直接声をあげ、主権を行使する場を失わされているため直接民主制への欲求が強いが、議会制民主主義で面倒くさくても議論をつくすということも忘れてはいけない。議会で誰が自分の代理人として発言しているか、はっきり自覚を持ち、言うべきことをどんどん言っていく。

    1月17日 八ッ場ダムは天王山

    1時半に日比谷公園、八ッ場ダム再開への抗議行動。150人くらいのデモ。「民主党はマニフェストを守れ!」「不要不急の公共工事はやめろ」「ダムをやめて被災地にかね回せ」と至極もっともな要求。国土交通省前に1時間ほどいたらその間、何十台もの黒塗りの車に若い官僚がひとりずつ乗って出て行った。これみな私たちの税金から。

    そういえば昔、国家公務員上級職の研修所に講師で行ったことがある。スゴイ立派な研修棟に高級ホテル並の個室の部屋も見せてもらった。受かったばかりのエリートたちは地道に地域で居場所をつくり、地域誌を掘り起こすなんて話にまったく興味はないらしかった。わたしの講義のあとは自主グループ討論で「総理を目指す」なんてむき出しな題がマジックで書いてあった。
    あのひとたちに被災地の困っている人に寄り添えといっても無理だろうな。いくつかの省庁の事務方とつき合ったが、みんな眠そうな死んだ目をして、本音は絶対に言わない。文化庁の専門官には本当に美術や建築の好きないきいきした目をした人がいたけれど。あんな文書とはんこでやりたくもない事業をやって天下りまでがんばるなんて。

    議員会館内での緊急抗議集会は300人で満員。司会も上手だったし、登壇者も具体的でわかりやすい論を手際よく話し、濃い集会だった。
    八ッ場はとにかく「コンクリートから人へ」のマニフェストの象徴であり、八ッ場が止まればほかの不要不急の公共工事も止まるといういわば天下分け目である。
    平議員という民主党議員はエンジニアで具体的な話をしてよかった。川内議員も長くがんばっているけど「わたしを1人にしないでください」というエモーショナルな訴えはいただけない。議員たちのスピーチには少し「自分の次ぎの議席はどうなるのか」「政治生命はどうなるのか」という私心もすけて見える。八ッ場をどう止めるかだけ語ればいい。

    ダムと原発は何度も書いているようにまったく構造が同じ。原子力ムラみたいに河川ムラがあって官僚の天下り企業が八ッ場の調査も何もやっている。

    基調講演の五十嵐敬喜法大教授に久しぶりに会った。むかしバブルで地上げがひどかった頃、いっしょに住民追い出し反対などを闘った。最近まで内閣府参与をされていたので「八つ裂きにされる」覚悟できたらしい。
    彼の考えでは民主党はみんなわあわあ思いつきをいうばかりで、多様な意見を統一することも、それを実現する実力もないようだ。「民主党は生き延びられるか」というタイトルだが「生き延びられない」と思っているようだ。
    しかし自民党へも戻れない。橋下─石原連合はもっと危ない。政治家、官僚、学者、メディア、全てに不信がつのるなか、人々は自分で行動しないで強力なリーダーシップをもとめファシズムへの道を突き進むのではないだろうか。

    若者が考えない、動かない、といってもそんな若者を育てたのはわれわれ大人と教育だ。

    6時半すぎ終わって7時からは文京シビックセンターで脱原発を考える宗教者の集い。
    南相馬からきた浄土真宗の僧侶。
    「原発の勉強会にでてたので11日中に全電源喪失と聞いて、地域の区長などに危ない危ないといったのですが、みんな、なあに、大丈夫だ、爆発するわけはない、大丈夫だの一点張りなので、家族の命を守るため北陸まで車で逃げた。しかし南相馬の檀家からは帰って来てほしいというので、行ったり来たりしようと思ったが、そうもいかない。もう半年で6万キロ走った。特養などにいたお年寄りが病院を移動させられ、なくなってお葬式や法事はいつもの1・5倍。もう和尚さんには会えないと思っていたという檀家と手を取りあって泣く所からはじまる」

    1月18日 江戸東京たてもの園

    原発の耐久年数を40年から60年に伸ばすというトンデモナイ話。
    センター試験でミス、不手際多し。
    私も大学にいた頃毎年のように立ち会いをやったことがあるが、あれほど非人間的な労働はなかった。ミスが出てもしかたない。ヒヤリングなどやめるべし。

    国分寺の東京たてもの園にいく。小学校の頃、いったなあ。武蔵野郷土資料園。文京区向丘から移築された仕立屋さん、池之端の日増屋、根岸の鍵屋などに再会。西片町の堀口捨巳設計の小出邸もあった。あんがい谷根千周辺から行ったたてものは多い。
    前川国男の自邸は明るくて使いやすそうで住んでみたい。
    じつは見に行ったのは2・26事件で殺された高橋是清邸。ガイドさんが「二階ですよ、暗殺されたのは」となにか最近の事件のように語るので爆笑。
    蔵で湯葉うどんを食べ体を温める。

    国分寺カフェスローで中島岳志さんとしめの対談。5・15、2・26事件に至る明治末からの鬱屈青年たちの心の流れ、いまとのアナロジー。こわいなあ。
    自殺の増加、海外逃避、秋葉原事件のような暴発、厚労省の幹部殺害が起きると年金問題でのテロか、とすぐおもって加担してしまう世論。行き詰まる若者を暴発から守るにはやっぱり地域に商店街でも、映画館でも、飲み屋でも小さなたまり場を作って行くしかない。

    夜は根津で小学校時代の友だちと飲む。どんなに意見が違っても自分の思うことを話せる場があることがうれしい。みんなどこかに短パンの少年の面影を残しているし。

    1月19日 湯かけ祭り

    昼の特急草津で川原湯温泉に。上野駅の常磐、信越本線には改札をはいったところに待合室がない。駅には30分前に着いたが喫茶店のコーヒーが450円と高い。中のホームにやっと待合室あり、それはサイン計画が悪いのでわからない。
    常磐線特急は新しい車両、草津は老朽車両、12時に一緒に走り出す。しかも指定席の方が改札からずっと遠い。事前に指定席を買ったが自由席に乗った。がらがら。
    ついでにいうとJR の窓口の若い女性はテキパキして接客態度もいいが、おじさんたちは切符を出すのも遅いし、無愛想。

    2時半川原湯温泉着。降りたのは3人。第二湖面橋の高い橋脚がにょっきり。景観がどんどん変わって行く。本体にはまだ手を付けていないが付け替え国道の工事はどんどん進んでいる。かたかたかたかたかた、という啄木鳥みたいな音はエコ工事だそうな。それでも一日鳴っている音。

    川原湯温泉はもう数軒しかない。地元の生活再建といっても残ったのは少数、大事なことだが、彼らのために不必要な巨大工事を続行するというのはたんなるいいわけ。ダムができると思って引っ越した人たちのために続行するというのもおかしい。住民がおじさんがダムの仕事もらっているから反対できないというのもおかしい。でもそんなおかしなことばかりが積み重なって自民党の政治家や官僚のいいなりになって計画は60年近くまえからあり、その割に進まなかった。小さく産んで大きく育てる、2400億の予算が1兆円を超える。引き返せない、まるでインパール作戦みたい。

    いまの高山町長のお父さんは器用な人で、頭の方も小回りがきいて推進に鞍替えした。山木館の奥さんのお父さんが反対派だったのに、町長になったら県や官僚と話し合わないわけにもいかず、苦渋の末に賛成に転じた。
    能登半島志賀原発の反対派がいっていたように交渉のテーブルに着いたらまける。あの手この手で懐柔してくるのだから。犬でもけしかけておくことだ。遊覧船に乗せて沈めてやると官僚を脅すことだ。海洋調査なんて認めたら「まったく影響がない」というお墨付きを御用学者が出すに決まっているのだから。反対しようと思ったら議員や町長になってはいけない。

    あちこちに旅館の残骸。高田屋さんをこわしたあと。いまは柏屋さんをこわしている。

    さっそく透明な湯に入り、温まる。それから共同浴場王湯のあたりで祭の準備を見て、また露天風呂につかる。うたた寝しながら相撲を見る。白鵬が負けた。びっくり。

    6時にご飯、それから住民のはなしを聞く。テレビでダム再開に万歳していたのは地権者たち。うんとお金が入るもんな。崖地は5000円、道に面した一等地は十数万、しかし売って代替地に上がるとすると坪18万で買わなくてはならない。無理して造成した土地だからそれでも赤字だそうだけど。坪18万出せば前橋駅前の一等地が買えるという。そんなにしても川原湯に残りたいのか、ノマドの私にはわからない。
    でもみんな不安は持っているもよう。宿のご主人と一杯。
    「昔はよかったなあ、きれいどころが30人もいて、みんな話や座持ちのうまい芸者ばかりだった。嘉納治五郎の別荘をこわしたのは残念だったよ。あのまわりに置屋があって芸者さんが住んでいた。この物置のようなバーだって3人も女性を雇っていたんですよ」

    12時にお開き、ちょっと寝るともう湯かけ祭り。雪がふってきれい、でも足は滑る。
    「お湯わいた」が「お祝いだ」に通ずる。大寒の日に400年も続く祭り。わが娘も胸にさらしを巻き、女性としてはただ1人、桶にお湯を汲んではみんなにぶっかける。あったかいみかんも飛んでくる。びしょびしょになって、芯から凍えて終わる前に宿に帰り、温泉に浸かって仮眠した。

    1月20日 ダルビッシュ投手

    ゆっくり朝ご飯を食べて、帰ろうとしたら草津は雪で線路内に倒木あり、こない。高崎からは人身事故で普通。前橋から車できた渡辺さんにのせてもらう。
    けがの功名で雪の一号橋を見て、かえり水沢うどんを食べ、前橋では原沢屋の焼きまんじゅうを食べ、高崎から新幹線で帰った。3時間遅れたが充実した一日だった。でもダム賛成の地元民もおおいなか緊張していたのか、へとへと。

    11時、帰って来たこどもたちと放射能汚染の情報交換、二人とも東京に住む気はない、という。1人ニューヨーク、1人沖縄、1人滋賀ということになるのかな。私は東京を拠点に半年は旅して暮らす。それもよい。

    ダルビッシュ投手が契約したことをNHKは朝、ニュース速報で伝え、その2分後のニュースでもトップだったって。バカにもほどがある。こんなにみんな金も職もなくて苦しんでいるのに。仕事がない人にとって5年で62億もらう男はどううつるのか。いくらなんでも夢はもらえない。私は年金6万円で暮らすことを考えているな。

    1月21日 ふくの湯、新装なる

    あしたから九州。今日中にしなくてはいけないこと多し。動坂の歯医者さんにいって、かえりに動坂食堂でこの間食べたかったヒレカツ定食を食べて、常連の町のおじさんおばさんの楽しそうな様子を見て、帰りに新装なったふくの湯にはいって来た。すごくきれい。昔の体重計があってうれしい。がんばっている銭湯を応援しましょう。営業時間もうんと長くなったことだし。それにしてもみぞれで寒い。

    森まゆみ(2012年1月31日)


    ●震災日録2012年1月10日〜15日

    1月10日 ごったがえす内覧会?

    思い出したこと。1月6日に東京国立博物館の故宮の内覧会があった。
    金曜日の6時からというので、まず西洋美術館のゴヤ展を観に行った。金曜は何年か前から夜遅くまで開いている。5時頃は着衣のマハの前でも空いていた。猫の喧嘩という絵がおもしろかった。
    それから東博にいくと長蛇の列。マイクもなく肉声で、この辺は2時間待ちです。今日は見られないかも知れません、などと言っている。受付した人は休日に見られるようにするとかいっているが、受付までがならぶ。すぐあきらめて帰った。
    内覧会というのは美術評論家や関係者が見るものではないのか?
    上野まで「ご足労」して帰る人の気持ちを考えないのか。朝日とか大新聞が後援して招待状をばらまいたのだろうか。この商業主義。もう内覧会にはいかないようにしよう。

    そのまま根津に降りて「谷根千亭」の寄席へ。きつつきさんがオウムの平田容疑者のことを枕にしていた。せっかく大物のつもりで警察に行ったのに、帰んなさい、といわれたらプライドが傷ついたと思いますよ、でみんな爆笑。さっきの東博で私も「混む前に内覧会で見ようっと」といった優越感もあったんだろうな。でも17年逃げていのに15万とか持ってたんでしょ、なにしてたんだ、にまた爆笑。こっちの方が楽しいな。

    1月11日 グローバルな価値観とは

    仲俣暁生さんが『雑誌よ再起動せよ』という本をだされた。
    これについてツイッターで「実は連載時にとりあげて本に収録しなかった唯一の雑誌が『谷根千』だったのです。あの偉業がいかにしてなし得たのか、またその終了はなにを意味するのか、うまく言葉にできませんでした」と書いておられる。
    まずその連載というのを読んでみたい。自分でも考えて見たい。やめる理由には公にできないこともあったのだが。

    雑誌は終巻すると研究対象になる、と七痴庵こと田村治芳さんが言ってくれたのを思い出す。これは「かわぞえあゆむ」さんというかたの「『再起動の足場』としての地域雑誌、ですぐ念頭に上がったのは『谷根千』なのですが、終わってしまって久しいですねえ。とはいえ『谷根千』では世界規模という意味でのグローバルな価値は持ち得なかったかな?」というツイートに応えたものらしい。
    この最後の文の意味は不明。グローバルな価値って何ですか? 私の世界観は1992年の「抱きしめる、東京」の後記に書いてある。哲学とは私の考えでは「どうして生きていくか、暮らしていくか」であって、3.11が起ころうと、自分の世界観を替えなくてすんでいるのはうれしいことだった。

    1月12日 野村かつ子

    野村かつ子のことを調べている。消費者運動家だが、1970年頃は原発反対をすでに訴えている。成分表示、単位価格表示などを持ち込み、ラルフ・ネーダーを日本によんだ人。
    ネーダーは市民を「パブリック・シチズン=政治や環境に興味を持ち自ら社会をよくすることに関わるひと」と「プライベートシティズン=自分と家族さえ幸せならいいと考える人」に分けている。震災と原発事故以来、この分離がかなりひどいことになっていると思う。

    野村かつ子は戦前から京都で生協運動の走りに参加し、戦後は戦争未亡人の職業安定のため機械編みを普及したり、内職の買いたたきをふせぐ内職大会を開いたり、総評のオルグで三井三池の主婦会を組織に行ったりとすばらしい活動家。そして最後までまったく偉そうにならなかった人だ。

    私はこの人を何度か見ている。ドタグツでリュックを背負って1人でやって来た。「女は男みたいに勲章もらって喜ぶような馬鹿はいないからいいよ」と福田英子はいったが、あんな感じだった。でも加藤シズエも奥むめおも勲章もらって、奥なんて誰がしたんだか、ホームページに勲章を陳列している。女も男波になったというべきか。

    4月からNHKラジオで『女性の品格』に対抗?して、「おんなのきっぷ」というお話をします。男社会で成り上がったひとでなく、困ったひとを見捨てなかったひとを取りあげたいとおもいます。

    1月13日 あくまで敵を間違えないように!

    1954年に杉並婦人団体協議会の会合があった。奥むめお参議院義員の講演が終わる頃、1人の女性が立ち上がった。和田堀の鮮魚商菅原トミ子。「第五福竜丸のことでマグロに放射能が含まれているというので,魚が売れなくて困っています」と彼女は言った。そのあと「これは風評被害なので魚を買ってください」とは彼女は言わなかった。「私たち杉並魚商組合では原水爆実験禁止の署名に取り組んでいます。1人でも多くの方に署名していただきたいんです」これは『原水禁署名運動の誕生』(丸浜江里子著、凱風社)という本に書いてあるそうだ。これから読むつもり。トミ子さんは敵を間違えていない。

    福島の人から「東京のための電力なのに」「私たちは東京のためにひどい目にあった」という発言を何度か聞いた。気持ちはワカル。でもそういわれると福島と東京の住民は連帯できなくなる。正しく「東京電力のための電気」といいましょうよ。
    地方にお話に行くと感ずることだが、東京の住民はみんな六本木ヒルズに住んで、毎日新宿で朝まで遊んでいるかのようにおもっている人もいる。谷根千に来てみてよ。けっこう狭いアパートでしょぼい暮らししてるから。
    敵を間違えないように。そうえなくても向うは分断を図ろうと思っているのだから。

    1月14日 越後妻有の林間学校

    新潟の妻有で開かれている冬の林間学校で町づくりの話をしてきた。石巻、福島、郡山、いわきからの親子も来ていた。うーむ、今までで一番難しいお話でした。福島の子どもたちはもう大人のいうことを信じていないのかもしれない。いわきからきたお母さんは切なくてこわくて海辺には近寄れなかった、といっていました。

    中越地震で大変な被害を受けた松之山周辺の人たちがあたたかく迎えてくれました。こころづくしの野菜の粕漬け、そうめんカボチャの酢漬け、豆など体によさそうなお料理がとってもおいしかった。
    夏の妻有は何度も来ているが、3メートルも雪の積もった新潟もまた得難い体験でした。
    おおたか静流さんとごいっしょ。楽しい方でした。ファンを大事にされるのにも見習わねばなあと。夏のページ(http://youtu.be/lwmPvXEZNiY)ステキです。

    1月15日 どんどやき

    小正月。おんな正月とも言う。前日、こどもたちはわら靴に藁の合羽をきて「あわんどり へんどり、天竺まで立ち上がれ」とうたって歩いた。粟食べる取り、稗食べる取り、どこかへいってしまえ、といううた。
    森鴎外の『山椒大夫』でも老いた母が佐渡で雀をおっているシーンがある。「安寿恋しやほうやれほ、厨子王恋しやほうやれほ」
    藁束を高く積み、そこに去年のお守りや習字をつけて焼く。そこでほしいかを焼き、甘さけもふるまわれた。お昼はすばらしくおいしいそばをいただいた。

    かえってきたら放射線値の高いところでどんどやきをすると拡散に繋がるという誰かのブログを読みました。

    夜、海の汚染をしらべたNHKを人のテレビで見る。ドキュメンタリーに定型的な「見つめています」でなく「最新報告です」というアナウンスがよかった。

    10時からは菅原文太さんが旅人で自由民権と東北のことをやっていた。いまの津波、そして原発立地も戊辰戦争の負け組、東北に対する過酷な処分に端を発している、という論点をよく聞く。
    戊辰戦争の研究者としてはかなり当ってはいると思うけど。「白河以北一山百文」という差別に抗して河北新報はできた。そして福島では河野広中、三浦文治、刈宿仲衛などが自由民権の狼煙を上げ、憲法を構想した。
    タイムリーな企画だし、久しぶりに色川大吉さんに画面でお会いできた。
    中央の代弁者県令としての三島通庸に泊原発再稼働を許した一見かわいい経産官僚高橋晴美がかさなる。県知事は中央官僚の天下りであってはいけない。地元の声の代弁者であるべきだ。

    森まゆみ(2012年1月16日)


    ●震災日録12月29日〜2012年1月9日

    12月29日 週刊『金曜日』をお風呂で

    郵便局と銀行へ行く。いろいろ支払い。年を越すにはお金がいるものだなあ。
    冷え性を治すため、腰湯につかる。なかで週刊金曜日のバックナンバーを1回3冊ずつ読むと額からぼたぼた汗が落ちる。いい記事は破る。
    永六輔さんの「無名人名語録」は相変らずおもしろい。「川辺川ダム。八ッ場ダム、徳山ダム。巨大な公共工事が『中止』『続行』『完成』と、それぞれ現状が違う点を問題にしないと」。これは2008年11月21日号。
    八ッ場はいったん中止になったのに、つかの間の夢でまた「続行」になったのだからこの言の通り。
    「ダムのような公共工事の反対派の村や町を合併してしまうという手があったんですね」。
    徳山ダムの場合、行政は市民に道をつけるなど公約をしたが、合併でその自治体がなくなり約束は反古にされた。志賀原発では猛烈に反対した富来町をはずして志賀町に原発はつくられたがその後、富来と志賀は合併、なんのことはない、反対派にとっては自分の自治体に原発はできてしまったことになる。

    12月30日 風力発電、誰が建てるか?

    「美しい伊豆に巨大風車はいらない」という記事(2008年11月21日号)もおもしろい。自然エネルギーとしての風力発電はいいが、低周波の問題、景観の問題、いろいろあり人家から離してつくりたい。そして誰が作るかが問題。みんなで納得してお金を出し合って自分たちの使う電気のために建てる市民風車ならいいが、伊豆では電源開発と豊田通商などのジョイントで100基以上建てるというのだ。これは金儲け目当ての巨大開発に過ぎない。

    『学問の権力──アイヌ墓地はなぜ暴かれたか』植木哲也著、春風社刊は書評を読んで読みたくなった。森鴎外の妹小金井喜美子は才女だが、どうも馴染めないひと。その夫小金井良精は星新一の伝記『祖父・小金井良精』ではじつに愛すべき鷹揚な人なのだが、東京帝国大学人類学教授としてアイヌの墓を発掘、たくさんの人骨を研究材料に持ち帰ったとは。
    浪花の家を観に行く。ひろちゃんと浅田さんとサトコの四人で行ったら、森鴎外の日在の別荘を見つけることができた。それどころか今の持ち主である森鴎外のお孫さんとお話までしてしまった。夜は星がきれいでした。

    12月31日 働く意欲は環境でつくられる

    地物のホウボウの刺身、茹でたてのタコ、うまし。しかし海の汚染にはわからないこと多く、千葉御宿辺りの地魚が大丈夫とは言いきれない。まあ50代の3人はぱくぱく食べる。帰りは大多喜をとおって帰る。
    谷中清水町に屋敷を持っていた知恵伊豆こと松平信綱の子孫大河内家の城下町、昔ここの大屋旅館というのに泊まって感激した。洋室が風呂になっていたし。こういう古い町の古い宿にはまだまだ知られざる名旅館、権高でもなく親切な、そしてリーズナブルな宿が多い。そこは国の登録文化財になっていた。海ほたるの上でちょうど大晦日の落日。

    金曜日ダイエット?続行中。やる気のある失業者だけにお寺を開放するということに雨宮処凛が異議を唱えている(2009年2月13日号)。この人はなんとなく苦手、だけどいてくれてありがとうと言いたくなるときもある。
    「これから私たちは意欲によって選別されるだろう」「これまでの劣悪な労働経験からすでに『働く意欲』そのものを失ってしまっていたら?」など疑問を投げかける。
    被災地でも同じことがいえる。たしかにせっかくはいった義捐金や一時金で酒飲んだり、パチンコ行ったり、もったいないなあ、と思う。でも「津波で家も仕事も、もしかすると家族までなくして『働く意欲』そのものを失ってしまっていたら?」という問いを、被災地にいない私たちは考えなくてはならないのだろう。

    福田文昭さんの「北を撮る」もよかったな(2009年2月13日号)。小島一郎の写真を『芸術新潮』で見てぜったいこの写真集を買おう、と思ったのにまだ手に入れていない。それを思い出した。
    同じ号の辺見庸さんのインタビューもすごい。病を得て、そぎ落とされ、深化している感が。

    人の家で紅白歌合戦を10年ぶりに見た。ながら視聴だけどユーミンの思い切り似合わない振り袖の『春よ来い』がよかったな。今年の3月4月、いつもこの歌を口ずさんでいたんだもん。東北はなかなか雪が消えなかった。そしてまた、寒い季節に突入。谷中鐘付きツアーに行く体力残っておらず。

    1月1日 迷い立ち止まる

    いる場所によって見える景色が違う。
    じぶんでは正しいと思う意見でも、なかなか言いにくい場もある。
    3年前に死んだ父は「何が真実かを自分でよく考えろ」というのが口癖でした。
    3・11以降、いろんなことが気になり、考え、友人との考えの齟齬が目立ち、自分のなかでも揺れました。
    東北の漁業、農業を応援したいと思う半面、息子や娘には安全な物を食べさせたいと思う自分。孫がいたらなあと思う半面、いま孫がいなくてよかったと思う自分。東京にいるときと東北にいるときとは違うことを考える自分。志賀原発に行けば原発を受け入れた自治体や賛成した住民の責任は重大だと思う半面、いま避難している大熊町や双葉町の住民にはそれはいえない、と思う自分。東北の農産物はすべて産業廃棄物として東電に補償してもらえばいい、と東京の人がいうときにカッと来る自分。しかし「福一の電気は東京の人のための電気だ」といわれれば「福島の人は電気を使ってないの?」と反論したくなる自分。ほんとうに「迷い立ち止まる」ことの多い毎日です。
    なにもいわない、のが賢いかもしれない。でもそれならこの渡世を選んだ意味がない。

    1月2日 人里離れた暮らし

    帰って来た大工の息子は人里離れた多宝塔修理現場で、テレビもラジオもなく新聞もとっていないので、3日くらいは震災を知らなかったって。大工仲間でだれか、冗談で日本の首相が変わったよ、と言ったらみんなでウッソーといってふざけてたら、新聞見たら本当に変わっていたって。extremly local なのです。それもいいかも。

    消防士の友人がいて年末にあった。被災地に応援で行ったら火がボンボン燃えていて、おばあさんがでてきてあっちの方に30人以上まだいると指さすので、うそだろ、ちょっとおかしいのかな、と思ったが瓦礫を乗り越えて行ってみたら本当にいて、1人ずつ背負って救出したとか。

    2年ぶりに会ったのに、またさっさと現場に帰っていく。

    1月3日 年賀状をもらうのは楽しく、返事するのはたいへん

    1日の朝はわくわくする。でも3日返事を書いていると、「365日のうちの3日をこんなことに使うなんてなー」とおもう。まだまだ続きそう。
    年賀状でおもしろかった表現。“if winter comes ,can spring be far bihind?”。冬来たりなば、春とおからじ。そうかなあ、そうでもないような気がするが。
    Adieu Nukes! GAIAは伊勢原に農場をもち、卸売り業もはじめるとか。がんばって。
    初恋の人とクラス会であった友人「枯れ木にぱっと花が咲いたみたいで──」わかるなあ。歳の倍の男に惚れて土佐の山奥で養鶏所と温泉旅館のおかみになってしまった圭子ちゃんに長男尚太郎君誕生。「畑山にとっては約30年ぶりの元気な産声にシカやサルも驚いたことと思います」。お近くへ行ったらぜひどうぞ。安芸市の畑山温泉です。おいしい土佐ジローのフルコース、1泊2食付き1万円しません。

    「本当に大切なものは何かを考え、遠くにいる誰かを思う一年だったように思います」そうでした。
    「歴史の転換を見ていきます」。ほんと、見るまで死ねません。
    「あんなジジイにはなりたくない、と思いましたが、実際なるものですね」あたしもババアが近いです。
    きょうの東京新聞によると班目(でたらめ)委員長や代谷委員は就任前に東電から賄賂をもらっていたらしい。じゃなかった、研究費だ。研究と海外旅費に使ったというがファーストとか乗っていいホテルに泊まったりしたんだろうな。

    1月4日 NHKに出たい町づくり?

    とつぜん憶い出したこと。
    地方の人たちはどうして赴任して来た中央のメディアの記者をあんなにチヤホヤするのだろう、と思うことが多い。会合にも参加費無料だったり。特に若い女性記者はおじさんがたにモテモテ(多少ひがみ入)。「記事に書いてほしいから」もあるらしい。
    「NHKの全国放送に出るのが夢」といった町づくり人がいる。うーん、さみしいナ。そして記者を甘やかしてだめにする。
    去年4月に、避難所になっている温泉旅館で4人の大新聞記者にあったが、ぼくたち支援部隊ですからとさっさと部屋に引き取って寝てしまった。周りにごろごろ取材対象いるのになあ、もったいないことだ。

    夜はH大のO先生が羽田から電話を下さって新橋で新年会。セシウムを土壌から除染するプロだというのに「被災地は補正予算がつくたびに我先にという研究者でいっぱい。僕は東南アジアの里山保全で大忙し」だという。これももったいないなあ。

    1月5日 ちゃんと売りちゃんと買う

    初ゴミ収集の音で目が覚める。収集時間が物すごく長い。29日に最後に持って行ってくれてからみんな大掃除をしたので、ゴミ置き場は立錐の余地なかった。税金をはらってよかったな、還元されているな、と思うのは区では学校と図書館。都ではゴミと都営地下鉄、水道。国ではーーあんまりないな。博物館、美術館、劇場くらい。でもものを買わないのにごみが出る、これいかに。不必要な書類、包装紙、刊行物のせい。

    帰って来た息子から「関西は神戸の地震の経験があって、みんな支援のしかたもなれているし、支援もがんばっているよ」ときいた。「でもあちこちで義捐金を募っていてもしなかった。絶対届くところにもうしましたから、といってね」。
    東京でもカンパを募るのはいいが、支援つきとかいって野菜や缶詰をずいぶん高い値段で売っていたりする。当たり前の値段でチャンと売り、チャンと買うこと。それで対等な関係でいいと思うのだけど。
    被災地のひとを裏切らない、といつも考えているつもりだが、「私たちは被災者だ」といわれると反論不可能命題でこっちも息苦しくなる。はんたいに「私たち支援者だ」という蒸気が知らず出ていないかとも反省する。

    1月6日 金もらうのがうまいNPO

    町づくりを顕彰する審査会で、大企業からも省庁からもたくさん補助金をもらっているNPOがあった。私は「これはNPO(非営利)じゃないだろ!」と思ったのだが、男性審査員のなかには「これくらいやらないとビジネスモデルにならない」と擁護する声もあり。
    町づくりがビジネスモデルにならなくてもいいんじゃないの?
    「いい活動だがこれでは妻子が養えない」といういわれ方もある。その人が考える「妻子が養える月給」ッてどれくらいだろう。エリートの公務員や大企業社員、大学教授などの価値観を持ちこまないでほしい。
    いつも同じような申請書をあちこちに出している団体もある。結局、ほんとうにいいことをしているのに金のないところもあり、鳴り物入りだがやっていることといったら派手なイベントばかりで金には不自由しないところもあり。
    私は「できるだけ純真なよちよちあるきのところに出したい」というのだが、これまた実際に行ってみると「よちよち歩き」に見せかけるテクに長けたところだったりして。自分の目のなさに忸怩たる思い。

    今日は歯を治し、ゴヤ展と故宮のオープニングに行って谷根千亭に滑り込み。
    権力者を笑うのはいいが、曽我ひとみさんをネタにしてはいけません。被害者なんだから。それぞれの個性で初笑いを楽しんだ。

    1月7日 核のゴミの責任

    尊敬する地質学者が「原発をいまとめたところで核廃棄物の処理にはみんなが責任を持たなくてはならない」といったのでショック。
    そうだとしてもいまとめた方がいいと思う。廃棄物をこれ以上増やさないように。それに核廃棄物の処理は生産した電力会社が生産責任をとるべきで、もともと成算もないのに生産したわけで、そのツケを消費者に押しつけることはない。
    また核のゴミをどこかへ持っていけという声もあるが、原発に賛成してしまった以上、自治体にも賛成した住民にも生産地にゴミを置いておく責任はあるのだと思う。福島第一のゴミは東京電力が回収して福一に置いておくしかない。
    その方は地震にも原発震災にも科学者として責任はあると仰ったつもりなのだろうが。「東電ばかりを責めるのは酷」とか「電気を使っている我々にも責任がある」といったまやかしの世論誘導にはのらないことにしよう。

    1月8日 機械ができて仕事はなくなる。 

    教え子からメールで呼ばれるのは悪くはない。でもみんな卒業以来、失職したり転職したり、苦戦を余儀なくされている。
    大工業制の発展によって機械が普及すれば、必要な生産物が短い時間でできる。共産主義になると自由時間が増えて、釣をしたり、詩をつくったり、ケーキを焼いたり、哲学を考えたりして人間性がかぎりなく発展するとマルクスはいっていた。しかし現実の社会主義では少数のエリートが赤い官僚としていい暮らしをし、それに疑問を持つひとを「人民の敵」として粛清してしまうことがわかった。(私が一番いやだよ〜んな言葉がこの粛清)。
    そして資本主義のなかでは機械が働いた分のコスト低下は株主と正社員のもうけになってしまった。そして若者は職にあぶれ、つごうのいい使い捨て労働力にさせられ、労働組合は闘わず、正社員以外の権利を守ろうとしない。
    「地下鉄の切符切り」というシャンソンがあった。いつも暗くて空気の悪い中で働く歌の「切符切り、切符切りーー」というリフレイン。自動改札になったとき、とまどいながら、地下でのつらい切符切り労働がなくなってよかったね、と考える自分がいた。
    しかし駐車場でも、高速道路でも、自動販売機でも電話交換手でも機械ですむところは機械になって、その代わり仕事がなくなってしまった。しかもそこに外国人労働者がはいってくる。
    ボタンの掛け違ったどこかからやり直してみるしかないのかな。正社員をふたりで分けっこしたらどうか。避難所でおにぎり分けっこしたように。とにかく就職するなら大企業より、人間を大切にする、社会に貢献している小さな企業をさがして入り、経営陣に参加するつもりで一生懸命働くことを若い人には勧めたい。

    1月9日 原発文化人の定義

    あるエッセイ集を読んだらその初出が電力会社のPR紙だというので、「これも原発文化人か」と書いている方があった。とんでもない高い原稿料をもらっているならともかく、そこまで言うときりがない。原発文化人は高いCM料や対談料をもらって原発賛成とか原発はすばらしい、とかいった人にかぎりたい。
    リクルート事件のときにリクルート系の雑誌に書いたライターをひとくくりにリクルート文化人と批判した記事があってイヤーな気がした。そうするとJALやJRが大事故をおこしたら機内誌、車両誌に書いた人はJAL文化人、JR文化人とか叩かれるのか? 巨悪はほかにいるんだから。
    しかしバブルのときはとんでもない高い原稿料がでたらしい。知っている研究者が企業PR誌に10枚くらい書いて、いくらほしいか、といわれたので3万円でいい、といったら1枚につき3万円振り込んできたという話をきく。何かが狂っていたのだ。

    森まゆみ(2012年1月10日)


    ●震災日録12月20日〜28日 森まゆみ

    12月20日 赤坂プリンス

    住まいの町並コンクール審査。

    麹町というところは国民の税金でか似たような派手な会館がたくさん建っている。都道府県会館、都市センターホテル、全国市長村会館。きょうのルポールというのもそのひとつ。地方から永田町へ陳情するための足場か? ルポールは港といういみなのかなあ。砂防会館、放送会館、平河会館、食糧会館などもあやしいな、おおかた税金とか年金が注ぎ込まれているんじゃなかろうか?

    去年までの会場は虎ノ門パストラルだった。これも東京農林年金会館、パストラルとは牧畜とか食糧を著す語だそうだ。ややこしいな。どういう趣旨で建ったのだか、霞ヶ関に近くで政治家や官僚のパーティが多かったらしい。閉鎖されて森ビルが2300億とかで落札した陰にはとかくの噂があったらしい。

    帰りに赤坂プリンスが解体工事で白い塀に囲まれているのを見る。最後は3・11の福島からの避難者が使ったが、丹下健三設計、築30年にみたないのに、まだまだ使えるものを解体するとは資本主義のムダも極まれり。さすがに保存運動は起こらなかった。

    旧赤プリは李王邸、日本の侵略によって人質にとられた大韓帝国王族李垠の屋敷であった。このひとも数奇の運命のひと、政略結婚した梨本宮方子とのあいだに愛情があったのがすくい。しかし長男は暗殺されたと妃は自伝で書いている。これは当初の形にして場所を移すらしい。

    12月21日 オトコとオンナの間には

    一日雑用。夕方、気の知れた女性の編集者と久しぶりにお酒を飲む。
    原発事故以来、これは男の妄想だという気がしている。絶対安全と言う科学という名の宗教だと。だって原発問題で女の設計師とか女の学者とか女の保安院とか女の東電とか女の閣僚とか出てこないでしょ。まったくもって男の世界。
    それで私が「チェルノブイリ以来24年間、戦わなかったのは反省する。でもこれだけの災禍を見てまだ原発つづけようだなんて。もう懲り懲りだ」というと、男の知人のなかには「それは無責任だ。代替エネルギーを考えなくては」という。
    「もういいよ。エネルギーのない日本で製造業をするのがまちがいだよ」というと「そうすると東北は復興できない。日本は三等国になる」というから「三等国でもいいよ。関西の電力を東北に回して上げなさいよ」という。
    どこまで行っても平行線。男はエネルギー供給の視点で考え、女は命を守る視点で考えるのか。命を守る視点で考える男もいるとは思うが、産業界で発言権ないもんな。

    12月22日 内灘闘争から志賀原発へ

    朝の新幹線で越後湯沢へ、そしてはくたかで金沢へ。きょうからすいれん舎の志賀原発訴訟資料集の手伝いで関係者の証言をビデオに収めにゆく。
    社長の高橋さんとは20年来の友人だけど志賀原発について私は勉強したわけではない。出たとこ勝負。巻町の資料に続いてたった100セットつくるらしい。でもすでにハーバード大学、ミシガン大学、東京大学,一橋大学ほか注文がはいっている。少部数でも届くところに資料があることは大切だ。

    お話を聞くべきかたが体調を壊されたので予定を変え、内灘闘争の展示を観に行く。昭和27、28年頃、この砂丘は米軍の実射訓練場となった。それを阻止するために赤ん坊を抱いたお母さんたちが権現森に座り込み、全国的な闘争になった。そのときのおんなたちの写真のかっこよさ。赤ん坊を抱いてすっくと立って髪をなびかせている。ジャンヌ・ダルクみたい。
    寒村であった内灘はいまでは金沢のベッドタウンであるが、ちゃんと闘争を公民館で展示していた。これはそのあとの北陸電力内灘火力発電所反対闘争にも引き継がれていく。それで今度は七尾火力発電所の反対闘争が起こり、結局できてしまう。
    過疎地である能登に一時は原発を10基ならべ、原子力船むつも寄港するという計画すらあったという。知らなかった!
    夜も事務局の林さんとこに資料を探しに行く。高校時代、上野千鶴子さんとビラ巻きしたというひとだった。

    12月23日 すごい住民たち

    富来町と志賀町が合併していまは志賀町。その赤住という地区で旦那さんの菊太郎さんとともに1967年の計画発表以来、40年以上がんばり続けてこられた橋たきさん、88歳にお話を聞く。
    ずっと戦い続けてきた方の明るさ、やさしさ、ほこらしさに打たれる。金に転ばない人ってなにも後ろめたいことないもんね。ご飯を炊き、豚汁やおいしい漬け物を用意して待っていてくれた。
    「あんまり食べねえな」「にいちゃん、みかんはどうだ」と様子を見ていてすすめてくれる。ここが原発に反対する人々のたまり場になったのがうなづける。かえりに自作の吊るし柿をいただく。「ことしは寒さが足らずにかたくならないんだ」うう、じゅうぶん寒いよお。

    西海の小川民宿さんにお世話になる。小川さんも郵便局員をしながらずっと原発を認めないでこられた方。反対ッて言う言葉は変だ。ひとのうちのそばで勝手に原発計画を北電が立て認めないひとを「反対派」とレッテルをつけてあらゆる嫌がらせや差別をする。行政も一緒にいじめる。共同体の同調圧力で「今日もひとり、明日もひとり」反対派から消えてゆく。
    それにしても吹雪と落雷で体は冷えきる。ここでがんばり続けるのは大変だ。この民宿もみんなのたまり場のひとつ。なべと焼きカレイ、香箱がになどのとのおいしい食材が並んだ。お母さんの支える力も大きい。

    12月24日 能登東奔西走

    志賀原発の場合、北電、県庁、北国新聞と企業、行政、メディアが三位一体で原発を押し進めた。いっぽうこの土地でつよい真宗大谷派の僧侶たちは蛸嶋漁協とともに珠洲の原発計画をやめさせている。
    志賀原発では西海漁協がくずれたのをきっかけに阻止線が失われ、富来ではないが志賀町に原発ができてしまった。そのあと富来と志賀は合併。それに反対した数々のエピソード、たたかいの話を聞いてまわる。
    橋さんによると福浦では剛の者がいて北電社員を遊覧船に乗せて「きょうはてめえらを海の底に沈めてやる」といったらそれからこなくなったとか。犬をけしかけて絶対家に近寄らせなかった人もいる。そのくらいこわもてでなかったら戦えない。

    今朝は津幡で「紅茶の時間」を主宰する水野スウさんから命を守る女たちの活動について聞き、故・安宅路子さんがつくられたすばらしいキルトを見せていただく。

    午後はいま、福島の子どもたちを放射能から守る活動をしておられる浄福寺の畠山浄さんと珠洲原発反対を担われた先代住職のお話を聞く。夜はおともだちの鳥居醤油店で今年もご苦労様会。

    12月25日

    志賀原発は着工以後、88年から1号機、99年から2号機の差止訴訟を戦って行くことになるのだが、その事務局をになった羽咋の田名加哲也さんにはなしを聞く。4時間におよび、おいしいトンカツうどんをご馳走になった。

    3時40分羽咋発のはくたかで金沢経由、越後湯沢へ。雪のため列車は遅れ、予定した新幹線への乗り換えは間に合わなかった。
    JR西日本は「連絡がとれ次第アナウンスします」といったのに下りる間際までアナウンスはなく(連絡とるのくらい簡単だろ!)、「つぎのMAXたにがわかその次のときの空いている席にお座りください」というだけで、たにがわとときとどちらが先に東京に着くのかさえアナウンスがない。ながながと遅れたお詫びをするだけで具体的な情報はまったくない。
    「JR東日本の上越新幹線で車掌が参ります」といったのに来ないので、みんなこの列車の正規の指定席券を持っている人がどこから乗るか、とびくびくしながら坐っていた。さいわい途中からのる人はほとんどなかった。しかも越後湯沢で時間がないため乗り継ぎの改札はしなかったので上野駅では自動改札機を通れず、ここにも降り口はひとつで長蛇の列。
    雪がちょっとふれば、このていたらく。東電ならずとも災害時の危機管理などできそうにない。

    12月26日 キレイゴトももう終わりに

    昨日、田名加さんがいっていたことが頭から離れない。

    「金をもらって原発を認めてしまった人はその責任をとらなければならない。原発内で出た使用済み核燃料はそこにおいておくしかありません。岩手のほとんど汚染されていないがれきを東京が引き受けるのはいいが、核のゴミは製造物責任でそこにおく。大熊町、双葉町の住民は核を受け入れた責任をとるべきだし、除染は移染に過ぎない。もうそろそろきれいごとはやめて、もうここには住めない、ならどうするか、ということを提起しなければならない。こういうと東京の住民を喜ばせるだけかも知れませんが」

    福島の子どもになんの罪はない、かわいそうではありませんか、と私がいうと「それもキレイゴトだと思うんです。子どもを守るのは親の責任です。親が子供を逃がすか、一緒に避難するか、そこに留まることを選ぶか、それによって子どもの運命が決まるでしょう。国が住民の命なんか守りっこないことは証明済みですから」

    30年近く、原発と対峙し、差止訴訟の中心におられる方の冷静なきびしい言葉である。「それだけ原子力を受け入れるということは、海も空も田畑も汚し、取り返しのないことになるんだということを、覚悟してうけいれるならいいが、無責任にただ金もらい、原子力村のいいなりになる人が多すぎる。ムラなんてかわいいものじゃない。日本は政財官学マスコミのよってたかってつくった原子力帝国です」

    ただしい意見だと思う。谷根千ホームページの年末の挨拶はこの意見を踏まえて書いています。

    12月27日 JALの危機管理

    朝、ヒロシが福島の子どもたちのキャンプを手伝うため、JALで沖縄に行った。
    また憶い出してしまったのだが、JALの早朝便が台風で欠航になった日、わたしは羽田で後の便,臨時便への振替を待っていた。といってももともと満席にちかく、欠航の人たちを吸収できない。ここでもまともなアナウンスはなく、客は地上係員に同じことを次々聞き、きれいなお姉さんたちは顔をしかめ、不機嫌そうに客を静止し、結局なんの役にも立たずハイヒールで右往左往していただけだった。
    しかも受付口はアナウンスもなく変更され、こんな時にもかかわらずエメラルド会員さまサファイア会員さまとかからどんどん優先的に搭乗させるので、私たち一般乗客は爆発寸前だった。
    だっておなじく行き先に大事なしごとが待っているのだし、仮にも金払った正規のチケットを持っているのだ。平時に先に乗せるくらいの優先は認めるが、非常時に会社の金でしょっちゅう乗っているビジネスマンだけを優先するのはやめてほしい。
    私はタクシー飛ばして講演にからくも間に合ったが親の死に目に会えなかった人もいるかも。とにかくJALも東電やJRとおなじく災害時の危機管理はまるでできていないことはわかった。

    12月28日 事故調、中間報告

    まるで甘いものだ、という人もいるが、新聞で事故調の中間報告を読んで唖然。

    「2008年に10メートル以上の津波のシミュレーションが出ていたが、吉田所長、武藤副社長はこんなの来ないといって何もしなかった。保安院も対策工事の要求もせず上司に報告もしなかった」
    「津波で5000個の線量計が駄目になり刈羽から13日に500個送ったが連絡ミスで4月1日までただ保管されていた」
    「事故後も運転に習熟していない係員が運転していた」
    「保安院は東電に職員も送らず、助言もしなかった」
    「海水注入の遅れと中断は官邸の判断のあやまり」
    「スピーディを公表し、避難に役立てようと言う発想ははじめからなかった」
    「厚労省は食品汚染の基準を持っていなかった。農水省は風評被害を防ぐために(!)基準を厚労省に要望した」
    各自治体は国や県からなんの情報も流されずテレビを見て判断するしかなかったという。

    私は相撲協会のガバナンスを建て直す委員会にいて力士から聞いた。野球賭博や八百長問題について「協会も親方も何も言わないので、なんでもテレビで情報を得るしかありませんでした」。ガバナンスが低いのは相撲協会だけではないことがよおくわかった。

    森まゆみ(2011年12月28日)


    ●震災日録12月11日〜19日 森まゆみ

    12月11日 久しぶりに千住

    足立区の千住図書館で「おたがいさま──昭和30年代パラダイス」を話す。
    帰り、森鴎外旧居を見たりして、ぐったり千住駅前で一人で飲んでしまった。
    もらった花束を明日のためカフェコパンへ持っていく。毎日、時間通りに北上の牡蛎が届かなかったり、余ったり、足りなかったりの夢を見る。だいたいコパンさんにあわせて25人も入れるのか?

    12月12日 復興支援牡蛎まつり

    いよいよ北上河口尾の崎復興支援奇跡の牡蛎まつり。
    11時集合。余計なことを話している閑はない。ヤマサキの指示どおり会場作り。手伝いは数名いるが1人ずつがいちいち聞き合って、それに応えるのがてまで、東京が被災したら私もパニックを起こすんだろうなと思う。
    ドタキャンの人もあり、そのぶん来たがって断ったひとに電話したり。朝日新聞の菅沼さん(学生時代からの友人)3名、毎日新聞の中島みゆきさんら、北上を応援してくれる人たちも「地域の人を優先して!」といってくれたのであるが、連絡すると来てくれた。

    1時のはずが扇橋たもとで渋滞のため、2時近くに到着、さっそく浅田、山崎チームは山崎宅でカキフライとグラタン作りに。私たちは牡蠣むき。3時のお客さまにどうにか間に合った。

    石巻辺りで写した映像を壁に流したり、北上チームのお話や清子かあさんの牡蠣むき教室も大人気。3回とも満員御礼、表での大内さんを中心とする米やわかめの販売も好調、夜中の1時半に後始末をして帰ったが、18万円を売り上げた。飲み屋ならたいしたもんじゃない? といってもみんな支援だと思ってかなり率先してお金を使ってくださったみたい。
    イスラエル医師団をヘブライ語で通訳した福地波宇朗さん、石巻出身の振り付け師桜井ことのさんも来てくれたし。本当にいろいろな方にお世話になりました。

    12月13日 ムール貝の洋風調理法

    朝、千駄木のブリックワンに泊めていただいた坂下さん夫婦に朝ご飯らしきものを届けに行く。昨日作れなかったムール貝のトマトソースも作って持って行った。

    「牡蛎は生が一番だ。ムール貝は潮汁が一番だ」といいはる坂下健さんも「案外これうめえな」と言ってくれた。清子さんにレシピを伝える。
    「フライパンにオリーブ油を入れ、みじん切りのニンニクの香を出してムール貝をざっといれ、安い白ワインをふり、ざく切りのトマトとみじん切りのパセリを入れ、貝の口が開いたら身がふっくらしているうちに皿に移す」というじつに簡単な料理です。
    潮汁は貝の味が汁に出るが煮込む分、どうしても貝は身がちっちゃくなる。「カラスガイなんて金とッて食べさせるもんでない」と清子さんたちは思っているようだが、ベルギーのガンやブルージュではぴかぴかの銀のバケツにムール貝をただ茹でてパセリをちらしただけのが名物料理だった。きりっと冷やした白ワインによく会う。なんならのんびり村で私が作りましょうか、というと「やってみようかな」ということに。
    とれとれの魚を刺身で、というだけではなかなか人がこない。あたらしい洋風のメニューも開発した方がいいと思う。
    健さん「しかし森さん、客はうめえうめえと食べるだけだが、あれだね、主宰者ッてやつは大変だね」とねぎらってくれた。海を見ていないと駄目なオトコ、健さんは私の東京見物のお誘いも断って、十時過ぎには愛する長面浦へ向けて出発した。

    きょうは夜、コミュニティセンター建て替えの仲間の忘年会なので残った牡蛎を30ほどもっていき喜ばれた。料理じょうずな酒井さんはニンニクとパセリとパン粉を混ぜて殻つきの牡蛎に載せ、焼いた。ペシャメルソースではないこんなグラタンもおいしい。

    12月14日 軍都東京

    中島岳志さんと5・15事件、2・26事件の現場を歩く。犬養首相は官邸にいた。私は22歳のとき、溜池の出版社に勤めていて、いつも国会議事堂駅から首相官邸の脇を通って通勤していた。今は新しいガラス張りの官邸ができているが。警備の人に聞くと、野田首相はここに住んでいるとか。5・15の首謀者たちはタクシーに乗って官邸に乗り付け、簡単に中にはいっている。今日はハプニングで国会の衆議院を見学してしまった。天皇の貴賓室は淋しそうだった。天皇皇后お揃いで来ても部屋は別々らしい。

    板垣退助が功労者として銅像があるのは解せない。あとは伊藤博文と大隈重信、これは分かるが。赤坂のTBSは近衛歩兵三連隊、高橋是清邸の近くに第一師団司令部と麻布連隊司令部、青山中学がもとの陸軍大学校、その近くに乃木大将邸、赤坂プリンスは李王邸、と軍都東京の姿を知ることができた。

    4時に東京駅で日本ナショナルトラストの被災文化財保護のための募金キャンペーン。しかしマイクを握って離さない観光庁長官がほとんど文化財と関係ないことを言って、道行く人にはあまり伝わらなかったのではないかと思う。そのうえ揃いのジャンバーのいわき市観光関係者が来てパンフなど配ったので、ますますわからくなった。
    松方弘樹さん辰巳琢郎さんは簡潔でさすがに的をえた挨拶をなさったが、こんどは通行人の方が黒山の人だかりで携帯撮影会を初めてしまい、一緒に写真を取ったり、握手をするために百円入れる人が多く、文化財保存の思いなどはほとんどなかった。
    四半世紀前、東京駅の外で署名を集めたときは誰も有名人は来なくてもじっくり話し、向うも聞いてくれて署名が集まった。有名人を頼んで金を集めるという方法はもう古いのではないかと思った。

    12月15日 津波てんでんこ

    JTBの交流文化賞の審査。作文部門と活動部門がある。毎年全国の町づくりの新しい波を知ることができて有意義。しかし長い一日だった。

    サトコの友人はリテラシーを高めるために新聞をとることにしたという。どういう意味と聞いたら「新聞がどんなに嘘を書いているかを見抜く技量をつける」のだそうだ。本当にみんな大メディアをしんじなくなったなあ。いいことだ。

    ヒロシに「津波てんでんこ、地震のときも私を助けようなんて思わなくていいからね」というと、「今なら逃げられそうだから一諸に駆けるけど、これが80で病気だったら悪いけどおいて逃げる。その前に育ててくれてありがとうというから」という。「そうそう、生き延びて社会の為にお役に立ってちょうだい」そんな話をするようになった。一生を津波てんでんこを伝えることに費やした方がなくなったという。意義のある一生だ。

    12月16日 石巻河北の経験

    石巻河北新報の復興写真コンクールの審査。いったい今年はいくつ審査をしたことだろう。でもこれはぜひともいきたかった。見るだけで熱いものがこみ上げる。ホタテをむくおんなたち、牡蛎をあげる漁師の笑顔、モクモクと煙を吐く石巻のシンボル日本製紙、泥のなかの写真を乾かす少女、河北新報を読んでいるように見える幼児。

    石巻河北の桂さんから聞いた話しでは当日、道をゆく人を3階に上がれと呼びかけながら、窓から撮った写真は新聞に載せた。新潟日報の機械を借りて印刷し、女性たちは炊き出しをし、全国の新聞社からは支援物資が届いたという。

    またいくつも体験を聞いた。
    「津波で流されてたまたま人のうちの玄関に入り込んだので、すぐ2階に駆け上がって、悪いけど人のアノラックを着込んで屋根から脱出して助かった」
    「新築したてのうちの2階だけ外れて波間にただよったが、階段の方が浮いていて、気密性が高かったので浸水もないまま、流れてきた他の人も引き上げて11人で漂流して全員助かった」
    まるで冒険談のようである。

    夕方、スレートを40年とり続けている写真家の菅野さんにあっていろいろ教えてもらった。そのあと3・11以来会えないでいた結城登美雄さんにあう。「もう一度ここで生きる」がテーマだな、といっていた。
    仙台はいつもより早く定禅寺通のイルミネーションをはじめ、復興特需もあって景気はいいようで、繁華街も物すごい人出だった。

    12月17日 岩手の沿岸へ

    朝、7時の新幹線で一ノ関へ。半農半筆の渡辺征治さんと落合い、一路陸前高田を目指す。
    三陸でこれだけ海に広く面した平地があるところも珍しいであろう。土蔵の町並みなどもあったと聞くが、瓦礫は処理されて一面の平地が広がっていた。有名になった一本松シルエットが海際に見えるが、近づくことはできない。これも塩害でいずれ枯れるだろうとのこと。
    今回は杉も塩に弱いことがわかったという。途中が壊れながらもみんながよじ上った神社の石段。山ノ上に神社や寺があって救われた命も多い。その下に古い醤油屋さんがあり、黄色いハンカチがたくさんはためいていた。
    今回、各自治体ごとの犠牲となった率は5%くらいだが、陸前高田は12.5%と突出している。

    大船渡は漁港にも被害が少なく、お店や食堂も復興していた。魚は希少で高値がついているとのこと。いかがぴかぴか光っている。そこから国道ではなく海沿いのこもれ日の道を走る。伊能忠敬が測量の縄を下ろした浜は透明な水であった。そこからぐるっと半島を回ると吉浜というアワビ漁の浜、スレート瓦の大きな家の向うに海がきらきら光っている。

    釜石では日本製鉄がモクモク煙を上げていた。しかし市街地は建物が残っているものの、中華屋さんと洋品屋さんが一軒ずつ開いているのを見かけたくらい。駅前の市場はにぎわっていて海鮮どんの店には行列で入れず、ラーメンを食べたが、これが極細めんで、漬け物も餃子もご飯もおいしかった。お店の夫婦のお顔もとても素敵。

    釜石は津波てんでんこで防災教育が行き届き、こんかい学校にいた児童には1人も犠牲者が出なかった。それどころかこどもたちは小さい子たちを励まし、お年寄りを乗せた大八車を押し、高台へ高台へと自力で逃げ延びたのである。「釜石の奇跡」と言われているそうだ。

    時間がまだあったので大槌にも足を伸ばした。ここは高い防潮堤があり、住宅地から海が見えない。ここにも店などが並んでいたのだろうな、とコンクリの基礎でわかった。
    結城さんとは「もう一度ここで」という言葉を考えたのだが、「もう一度ここで生きなおす」には相当の時間がかかるだろう。ビニールで囲った仮設の店で海鮮丼やコーヒーを出していた。岩手大学のボランティアもいたし、地元の青年が黒い揃いのジャンバーでがんばっていた。いわきでは「がんばっぺ」だったが大槌では「まげねぞ」だった。
    百聞は一見にしかず、でテレビで見るのとは違った知見が得られた。

    遠野に向う。ここは市長はじめみんなで後方支援にがんばってくれた町。ありがとう!
    花巻について冷えきった体を台温泉の日帰り湯であたためた。帰りに石やきピザの店があって夕飯。駅前のホテルで渡邊さんと別れる。

    12月18日 花巻の雪景色

    朝、目が覚めるとまだ群青色の町に橙色の灯火がちらつき、白いものが舞っている。一晩のうちに森も家も雪化粧してこの世のものとも思われない美しさ。

    花巻は何度か来ているが、新渡戸稲造記念館は行ったことがなかったので、時間を節約するためにタクシーで行ってみた。新渡戸稲造は五千円札の顔でもあったのに今ひとつ業績がわからない。花巻は祖先の地、十代でサッポロ農学校に入り、クラークの薫陶を受け、東京大学にはいり、アメリカに留学、かえって一高や東京帝国大学の教授となり、ジュネーブの国際連盟次長をつとめた。若いころはほっそりと美しい。ボストンの名家のクエーカー教徒、メリーと結婚、一男が生まれるが一週間でなくなった。後藤新平とも関係がある。『武士道』を書く。そんなことがわかった。

    ついでに宮沢賢治の施設にも行く。雪の道を掃いていたおじさんは「宮澤家は物すごい金持ちで、特にお母さんの実家は今の新花巻の駅のあたりを全部持っていた。土地ではけちの宮澤商店で知られていて、そうでないと金なんかたまりっこない。富士銀行の頭取した人もいたし、いまの代でも花巻の商工会議所の会頭をしています」とか。

    タクシーの運転手さんは「大きい声では言えないけど、花巻はあんまり被害がなかったし、仙台のこどもたちはいつも会津に修学旅行に行くのが、みんな花巻に来てくれて観光客は多かった。東京からは福島またいでまできませんけどね。それと保険会社が沿岸部の実況を検分しに毎日タクシーを使ってくれて、うんとよかったね」といっていた。

    仙台文学館で円朝の言葉、最終回。仙台駅は混んでいてはやてが取れずにやまびこでかえる。途中、はやて2台に追い抜かされちょっとシャク。

    12月19日 学校と津波

    谷根千プレゼンツのカフェコパン、朝はおかゆ屋さん。中華粥のどんぶりかと思ったら
    瓢亭の朝がゆのような上品なおかずも多いものであった。これで500円では足が出ちゃう。

    昼間はひたすらパソコンに向い、夜7時にまたカフェコパンへ。タイカレー、真理サラダ、ヤマサキ製の豚肉の醤油煮などでビールを飲む。うろうろさん、守本君、赤坂さん、島さんはじめ地域の仲間に会えて幸せ。ヒコベイたちのライブも楽しかった。気を使わなくてよい仲間に忌憚ない話をしながら飲む、こんな幸せなことがあるだろうか?

    今日は『世界』や『スバル』『こころ』などの校正。
    間違いがあってはいけないので北上河口の大川小学校について調べる。もう書きたくないくらい哀しいが、児童108名中、75名が犠牲に、3人行方不明、教師12名中11名死亡、スクールバスの運転手さんもなくなる。なくなった先生方個人個人を非難する気はない。生き残った先生は児童を裏山へ誘導し、命を助けたともいえるし、校長が親戚の結婚式でいなかったのもとがめられるべきことではない。しかしやはりたくさんの児童の犠牲は無念であり、いろいろ疑問は残る。二度と起こさないために書いておきたい。

    *石巻教育委は北上川河口にちかいところでどうして津波を想定しなかったのか。
    *オシャレでもなぜ川の状況が見えないような校舎を設計したのか。川より低いところに建てたのか。校庭からも校舎にさえぎられて川は見えなかった。
    *2時48分に地震が起きて、なぜ3時35分まで避難を開始しなかったのか。
    *点呼を取っている暇は何故あったのか、子どもを保護者に渡すことや点呼に追われるより先にまず高台へ誘導するべきではなかったのか。
    *なぜ津波警報が出ているのに高台でなく川の方、橋のたもとを目指したのか。
    *裏山は倒木で危ないと判断したというが、私が何度も見たかぎり、倒木もなく、私でも上がれそうな山だった。日頃からシイタケの原木などを置いて児童は山にはいっていたという。なぜ階段など津波にそなえて上がり口をつけておかなかったのか。
    *近くの集落から避難してきた住民が「だいじょうぶ」と判断ミスを誘うようなことを言ったという話もある。こういうとき、管理職は地元住民にどういう対応をすべきか。住民対応より児童を守るのが第一にすべきことではないか。
    *住民は学校に避難した場合、どう行動すべきか。自分で自分の身を守るのはもちろんのこと、勝手な意見を言わずに校長に従うか、校長を手助けするほうがいい。指揮系統のみだれは避けたいところである。
    *しかし事故後の校長や市教委の対応も遅いし誠意がないように感じられる。

    二度と起きないように、全員助かった学校の教員の判断と比較検討すべきだろう。インターネットなどによれば、越喜来小学校では校長が揺れがおさまってからでは間に合わないと揺れているうちから避難を開始、73人全員無事。岩泉小では10分避難開始の判断が送れていたら危なかったと回想、268人全員無事。釜石東中では生徒の自主判断で年少者を助けながら高台から高台へと避難して562人全員無事。広い平野の中にある山元小では高台まで避難する暇はないと判断し屋上で90人全員無事。これらにならって私たちも五感を磨きたい。

    谷中コミュニティセンターの防災立て替えでお世話になっている防災都市計画の吉川仁さんから。
    「最近の防 災のキーワードは「避難」です。が、世間的には、避難=安全なところに移 動、という風潮が広まっています。だれかが安全な場所を用意してくれ る!?。そうではなくて、自分(たち)で命を守る判断と行動ができる、とい うことが重要なんではないか、と思っています」
    そうだ、安全な場所は誰かが教えてくれるわけではない。

    森まゆみ(2011年12月21日)


    ●震災日録11月25日〜12月10日 森まゆみ

    11月25日 復興村入村式

    池谷薫さんからプロヂュースした映画「ちづる」がポレポレ東中野で大ヒットとのこと。観に行きたいがなかなか中野は遠い。
    石巻北上町の熊谷産業の秋雄さんからめでたく復興住宅の入村式が行われたという連絡あり。2年半でごみになる仮設住宅ではなく国産材による、在来工法による、地元工務店にしごととお金の落ちる、永久住宅を作ろうという夢のような試みが成功したことになる。
    しかし仮設住宅も2年半ではでられない可能性が高い。土地が沈下したり、高台に移転することに決まったりしているところでは権利関係の調整に5年くらいかかるのではと言われている。冬よ、穏やかであってくれ。いわきにはこたつなどの越冬物資を運ぶらしい。

    夕方、小野佐世男の展覧会を見に、銀座若山画廊にいく。川越市では織物市場、山崎家別邸、旧鶴川座などの再活用提案を募集している。進んでいる自治体。

    11月26日 復興村

    いつものコースで仙台経由、石巻へ。利府でおいしい手打ちそばを食べた。それから長面浦の坂下家を訪ね、12日の牡蛎の打ち合せを行う。

    長面浦のスレート葺きの家々はこわしはじめている。その手前の集落が壊滅して、田んぼはみな海になり、生活する基盤がなくなったこと。いまならタダでこわしてもらえること、こわして新築するひとにはいまなら補助金がつくこと、などがせっかく残った半壊の家の全面破壊を進めている。しかしそのまま残して他に新築しても補助金は出るらしいのに。

    それから追分温泉へ。80を過ぎて復興村の現場監督をなさっている建築家の黒沢先生のはなしを聞いた。石積みは白洲正子邸の庭を設計された福住さんがボランティアで手伝っていらっしゃるし、熊谷さんの意気に感じて手伝う人が多いのに驚く。
    ところで滋賀の栗東に住む吉成麻子さんという方が坂下清子さんの応援に何度も来ていらして、初めてあって意気投合した。よく聞くと小堀鴎一郎先生の娘さん、ということは小堀杏奴さんのお孫さんで、森鴎外のひ孫さんということになり、ふしぎな縁を感じた。亡き須賀敦子さんともお母さまがお友達で一緒にご飯を食べたり遊んだりしたという。須賀さんの思い出話でも盛り上がってしまった。

    11月27日 鎌先温泉

    朝、長面浦に舟を出し、筏から引き上げた牡蛎をその場で食べた。海水の塩辛さはあるが、ミネラル充分の味の濃い牡蛎。引き上げるとムール貝もびっしりついている。こんなうまいものはない。

    牡蛎をたくさんもらって昼過ぎまでに仙台文学館へ。今年の講座は円朝というテーマが地味なのか、震災のあとだからなのか、人数は例年の半分くらいだが、熱心な方が多い。円朝も安政の大地震や農美地震を体験した人。きょうは累が渕、牡丹灯籠の話をしたが、30分まちがって3時すぎには終わってしまった。

    真理ちゃんが来てくれて、車で鎌先温泉まで走る間、半年ぶりの話をいろいろする。鎌先の最上や旅館の湯治部で丸森の緑山の菊地さん夫婦とあって持って来た牡蠣やムール貝を調理してお酒を飲んだ。こんなふうに何時でも入れるおふろがあってだらだら話したり飲んだりしているのが一番幸せ。ここは秘湯を守る会の宿。素泊まり一泊4000円。切り傷にきくという泉質は大変いい。源泉掛け流し。

    11月28日 あわただしく東京

    朝、急いで東京へ。歯医者さん、木崎君と打ち合せ、3時からはピンチヒッターで「こころ」の大正時代に関する座談会へ。尊敬する半藤一利さん、安野光雅さんとなので楽しく、気持ち良くお話しできた。
    明日から竹富島。鳥取大の家中さんが「忘れ物ないように」というメール。夏にはせっかく充電したビデオカメラを忘れた。それに種取り祭は寒いらしいから、と冬服を詰める。

    11月29日 竹富島へ

    朝10時15分の便に乗るためには8時半に家を出る。そのために7時起き。でも竹富島につくのは4時頃、と移動に一日かかる。つくと内盛荘では祭のためのイーヤチ、餅米のお餅を作っていた。
    お母さんのスミさんは前から話を聞いている。芸能、織物でも一人者だ。庭の大鍋で餅米を茹で、重湯のような水気を捨てて、バナナの皮を乗せて熾きで蒸す。それをへらでかき回すと簡単に餅状になり、それを木の枠にはめて成形する。これは本家から叔母さん、嫁いだ姉妹、娘などへの贈り物。
    夜は東、西の女性たちの踊り稽古を観に行く。冬服どころか薄い長袖でも暑い。

    11月30日 離島なのに人口増

    きょうも祭の準備、中筋のイーヤチつくりに参加。長老の前本さんにみんななんでも聞きながらやっている。前本さんが用意してくれたそばもいただく。
    竹富は男社会だが、長老に出番と居場所のある島である。夜は男性たちの狂言の稽古。女たちは舞踊、男は狂言とわかれ、これを島の言葉でキョンギンブ(狂言部)という。
    この島では年間に22回の行事があるという。戦後、復員兵などで島は2000人に人口が増えたが、生産力と見合わず、だんだん減って最少250人にまでなった。いまは毎年40万人が訪れ、内地の人と結婚して子供が生まれたり、アイターンもあって、また人口が350人を超えている。
    島には現在、星野リゾートによる高級リゾート計画もあって、島外から心配する声もあるが、「島のことは島の人が決める」と公民館長は言いきる。たしかに雇用が増える。いっぽう島の中に新しい居住者が住める場所はなかなかない。空き家はほとんど埋まっている。どうなるか、ゆっくり見守っていきたい。

    12月1日 アマチュアカメラマンたち

    いよいよ祭の本番。朝6時に起きて弥勒起こしの神事を遠くから見る。ミルクユウというのはいずれ来る幸せな弥勒の世。弥勒は女の神で目が見えないという。それから干鯛の儀が長く続き、10時半より東と西の演目が始まる。世持ちうたきのまえに仮設テントに舞台がしつらえられ、大きな紺地の幕がかかっている。
    地唄は幕の後。御嶽の前には女性の神司が奉仕する。その前には麻の黒い縞の着物の長老たち。別の面には来賓や島に帰って来た人たち、もう一辺に子どもとおばあたちが坐る。いっぱんの観光客などはその後ろだ。これは客に見せるものでなく、あくまで神さまに見ていただく芸能である。だからプログラムのようなものもない。休憩もなく夕方まで続く。

    ニコンのクラブが40人来ていたが、なかにはひどいマナーの人がいる。高級そうな大きなカメラをもって一般席からどんどん中にはいってくる。女性の着替え中の楽屋を撮ろうとする。ばしゃばしゃシャッターを切る。
    マナーの良いある人に聞くと「昔はフィルムだったのでシャッター押すのも慎重でした。いまは一枚のメディアで700枚とか撮れますし、気に入らなければ夜のうちに整理できますから」という。
    黄色い線の内側にいた1人が少し前にでた島の人を「マナーを守れ!」とどなった。その意味は「俺の撮るのを邪魔するな」ということだろう。あんなに撮ってどうするのか。目的はアマチュアの写真展に出品して賞を取りたい程度のこと。それで神事を邪魔してよいのだろうか。
    なかには出番を待つ美しい少女を至近距離からばしゃばしゃやっている。撮られる方は嫌がって注意する人もいるのに、「すこしぐらいいいだろう」とかまるでオヤジのセクハラ。
    ニコンも高級カメラを売りたいのか知らないが、島に入る前にマナーはきちんと教えるべきだ。私も初めてだったのでしてはいけないことをしなかったか、心配になったけれど。
    夕方に写真団体は引き上げ、あとはユークイといって各家に福があるように歌いながら訪問して歩く。かならずお酒とニンニクと島だこが出た。お酒は高台の上に小さな盃が置かれたが、自酌で飲むようだった。女性は一番座に入れない家もあった。

    12月2日 種取り祭

    今日は中筋の演目。いずれもすばらしいが、たくさんありすぎていちいち書くわけにはいかない。狂言も竹富の言葉がわかって、誰が何を演じているか、島のひとは分かるから盛り上がるが、多少知っている顔も化粧をするとまったく違って見え、来年も来なければわからない、と思った。そこで菊池寛賞を受賞した「竹富語辞典」2万5000円なりをえいやっと買った。あついのでTシャツも買った。

    6時ですべての演目が終わり、中筋の反省会に参加させてもらった。踊りの師匠の野原富子さんといまは神司の島仲由美子さんは以前は踊りのよいコンビだったという。しかし由美子さんのご主人義伸さんは狂言の名手だし、娘さんが踊りで活躍、富子さんの息子の健さんも地方のほか猿回しの役で舞台で三線を弾く。この狂言が大変な人気でさるの役をやった駆クンは一番の人気者、花金が乱れ飛んだ。しかし神への奉納なので花金を投げていいのは子役の狂言に限られる。おばあがうちの孫が出ているというので喜んで投げるそうだ。

    12月3日 反省会と交流会

    今日も忙しい。朝は10時から各郷友会などとの交流会がある。今日でた意見は観光客、外国人ももちろん、一日ゴザの上で静座して見るのは今となっては無理なのではないか、とか。島外から来て姪や孫がいつ出るか分からないのでプログラムとだいたいの出演時間を教えてもらえないか、など。そういうと神事なのだから変える必要はないと言う意見も長老からでる。私も足が痛いから低くても椅子席の方がありがたいが、もしかすると頑固なひとが祭の原型を守っているのかもしれなかった。

    午後は内盛荘でおじいおばあ、といってもとっても若くて仲が良い二人のはなしを聞く。夜6時からは竹富島文化協会の総会、これも参加を許してもらい、会員でもないのにオスシをご馳走になった。長老たち、そして60代の中堅の方たち、50そこそこの若手、各世代にリーダーがいて、みんなかっこいい男たちだ。本土にはこんなマッチョいないぞ、とおもう。本渡からきた観光客や竹富で働くヘルパーの女性が島の男と結婚する気持ちはよくわかる。それがまたみんな綺麗な方たち。

    12月4日 松竹荘にて

    5日間、内盛荘にお世話になったので、松竹荘に移る。一本裏の道で静かだし、家には花が咲き乱れる。ながく農業に携わり、魚も採り、なにより手仕事の得意な昇助さんが大好き。きょうは奥さんの美智江さんの話も聞けた。
    美智江さんのおじいさんは竹盛といって医師免許を持たずに薬草などで治すお医者さまだったのだ。これがじつによく島人を治したという。
    願寿屋であっさりしたそばを食べ、午後は内盛スミさんに昔の井戸の話や伝説をきく。夜は客の三線を聞いて久しぶりに早く寝た。

    12月5日 竹富のフーチバーの香

    昇助さんの植物や薬草に関する話を聞く。ヨモギは長寿と関係あるようだが、内地へ移植すると香りが2年目からうすれるという。
    午後は内盛親和さん悦子さんのはなしを聞く。ヴィラ別邸の若手リーダーの打ち上げに混ぜてもらう。夏は中筋のヴィラ竹富にずっと泊まってたいへん快適であった。そのレストランに新しいシェフが来たのだが、工夫があってなかなかおいしいお料理。「女の私が行ってもいいの?」と聞くと、上勢頭篤さんは「もう女じゃないでしょ」なんていう。ほんと口が悪い。でもそういうずけずけ本音を言って裏がないところが竹富の好きなところ。

    12月6日 時化にあって命拾いした話

    中森荘の内盛勇さんから話を聞く。おにいさんの正玄さんとまた違ったすばらしくお元気なおじい。正玄さんは兵隊にいき、ちょっと下の勇さんは護郷隊にはいって西表に駐屯した。戦後は、由布島に小屋を建てて西表で田んぼをやっていた。お盆の頃帰ろうとして台風に会い、波にもてあそばれながら二里泳いで竹富に帰った冒険談などをきく。

    お昼は狩俣恵一先生のご両親に挨拶に行ったら、お昼をどうぞととびきりおいしい焼きそばにあずかった。お父さんは本当にようすの良い方で、がっしりして声も大きくて、さすがに名家に婿がねと見込まれただけのことはある。「家中先生もきれいな人を連れ歩いて」などと冷やかしてくださって、昨日とはずいぶん待遇が違う。

    夜は念願の赤山喜介さんのお話を聞くことができた。92になられるのに、記憶力抜群で耳もよく聞こえてビルマ戦の話などをしてくださった。きょうは泉屋さんに泊まる。篤さんの夫人きょうこさんとゆっくりお話しできてよかった。東京で働いていたのに竹富に来て、篤さんと出会い、このひとだ!とおもって結婚した。すごいな。

    12月7日 またおいでね

    もう帰る日だ。暑かったり寒かったり。今日はまた蒸す。朝は大山裕達さんに話を聞く。ながらく神奈川県にいたが大山家を守るために帰ってこられた。神奈川出身の奥さまは竹富暮らしを楽しんでいらして藍ジシンのきものをすでに三反おられたとか。竹富には警察官はいないが、桟橋で無言のチェックが効くし、まず治安がいい。おたがいが助け合って生きていく。毎日朝は家の周囲を箒ではき清める。帰って来てよかった、という。

    11時45分の船に乗ったら内盛スミさんがいて、「またおいでね。遊ぼうね」といって踊る仕草をした。その手の動きもかっこいい。篤さんも乗っていて「もう帰っちゃうの、今日は山羊汁のつもりなのに」と声をかけてくれた。二人の言葉が温かかった。

    帰りの飛行機は追風なので5時頃には羽田に着いた。人ごみの中にはいったとたん、竹富に帰りたくなる。100以上もたまったメールの対応。12日の牡蛎の会はもう2日間で埋まった。

    12月8日 ドキュメンタリーを見る幸せな一日 

    毎日映画コンクールの審査。いい環境で一日映画漬けなんて。しあわせ。
    毎日新聞のために「新しい女」について書く。3日に毎日に私の記事が載ったらしくメールがいろいろ来てきょうは毎日漬け。
    神保町ですいれん舎の高橋さんと能登行きの打ち合せ。志賀原発裁判資料を出すのでそれにつける映像を撮るために能登へ行く。
    本を書くことから地域の生活史のインタビュー、映像記録へとずいぶんしごとの幅が広がって来た。目の病気のため書評や解説の仕事がつらいし、映像や録音はまた別の表現の方法でおもしろい。志賀原発で原発は地域社会と馴染まない、という判決を出した井戸裁判長はいまは弁護士になられ、脱原発の運動に関わっておられる。会ってみたいな、同い年だし。

    12月9日 議員の視察は税金のムダ

    民主党の政治家が失言をしては失脚している。沖縄で「犯す前に犯すというバカがいるか」発言は本当だとしたら女性と沖縄にたいして言語道断ではあるが、マスメディアの報道もこのかん、鵜呑みにできないことはみんな分かって来た。でも政治家にオフレコなんてありえない。記者が複数いるところで話したらオフレコではないだろう。そういうときに真性が出るものだしね。

    橋下について「こういう風にしてファシズムができていくのか目の当たりに見る感じ」という新聞読者欄に共感。われわれは危ないところにいる。「議員の視察を辞めて被災地支援を」にも共感。思い出す。谷根千をはじめた頃、福島県安達町というところへ招かれて自費でいったら文京区の議員団が到着して、弥生式土器のレプリカを見て「これ、本物かな」(なわけないじゃないか)、壁にかかったミレーの晩鐘を見て「これ、本物かな」(なわけないじゃないか)、一時間ほど区議と町議で懇談のあいだ、「森さんは外に出ていてほしい」と区議団にいわれ、そのあと彼らはバスでさっさと岳温泉に去っていった。

    視察とはその程度のもので税金のムダ。私は町議の家に泊めてもらい、夜は農村の女性たちと高村智恵子の生き方などについて話し合った。たっぷり給料や調査費をもらっているのだからよほど興味のあるところへは個人で行ったらいいだろう。そのあと宴会でよって女性議員にさわったり、おんな風呂をのぞいた議員も過去に例があることだし。安達町の人たちはどうしているかな。文京区議は100万くらい給料が出るらしいが、われわれは19万円で農業しながら議員をしていますといっていたっけ。

    12月10日 図書館ラジオ

    朝、虫歯を治す。痛いけど被災地の方たちのことを思えば我慢できる。昼に川口へ。

    川口メディアセブンでは図書館内地域放送という試みをしている。図書館は本を貸し出すところ、だけではなく、地域資料の収集、起業の応援はじめたくさんの事業が広がっている。震災もあってラジオ放送の有用性(テレビは電気が来なくなると使えないが、ラジオは電池がはいっているかぎり使える)、世田谷ママや神戸鷹取教会の地域FMのマイノリティへの母語放送の話などする。できたら50万都市川口で地域FMが図書館から発信できたらおもしろい。地域のまだメジャーでないバンドの曲を流すなどもやっていきたいという。
    そこへ年配の婦人から、図書館でいびきをかいているひともおり、学生に席は占拠され、自分がレシピを写したり、病気について調べたりする場がない。これ以上税金を使って図書館でラジオなんかやる必要がどこにあるのか、という意見が出る。
    図書館の古典的利用者はそう言うのだろう。しかしすでにリタイアして余暇を趣味に過ごせるゆとりある世代は、正規の職もなく貯金もない若い世代のやることを毛嫌いせず応援してみてもいいのではないかと思う。若い世代もコンテンツとかリソースのシェアなどといった横文字を使わずに高齢者の理解を求めて共存していく必要がある。
    おたがいさまかな、これも。11時、屋上え皆既月食をヒロシと見る。さぶ!

    森まゆみ(2011年12月11日)


    ●震災日録11月20日〜24日 森まゆみ

    11月20日 いわきで聞いた話

    5月のいわきモスクに行ったときのことを『世界』の連載に書いている。そのときの映像は「天心六角堂消滅」以外まだアップできていない。もう一度、撮って来た映像を見て、あらためていわきのおかれた過酷さを知った。そして私たちが防災を考えるうえで教訓とすべきことのみ、『世界』に紙幅のつごうで書けなかった分をここにしるしておく。これは5月に現場で聞いた話をまとめたもので、今の状況とは違うかもしれないし、別の見方もあるかもしれない。

    • いわき市は34万人の大都市で、広域合併により各支所が行政単位。
    • 3・11では山側は余り被害を受けず、海側は相当津波でやられ500人がなくなった。
    • そのあと、福島原発の雲行きがあやしく、水素爆発が報じられ、住民はとにかくいったんは東京などに家族を逃がした。議員、裁判官、医者なども早めに避難した。
    • 原発立地のあたりの車がいわきナンバーなので、風評被害が起きて、いわきナンバーの車を入れない、などの差別があった。
    • いわき市への物流のトラックなども入りたがらず、ものが不足した。
    • 緊急災害マニュアルのようなものも作ってあったがほとんど機能しなかった。
    • 支所が平の市役所にお伺いを立てても電話が通じず、返事もなかった。
    • 支援物資を受け取る財務関係の部署と、配る福祉関係部署が縦割で、配布が遅れ、物資は平競輪場にたくさんおかれていたが、現場にはなかなか届かなかった。
    • 支所のトップが責任を引き受け、名前だけ書いて持って行っていいということにしたところは必要なものが配られた。出先の公務員が責任をとる覚悟が必要である。
    • 学校の体育館が避難所になっても、基本的には学校では誰かが責任をとらないかぎり、火は使えない。
    • 体育館にはコンセントが2つしかなく、ポットでお湯を沸かしてもカップラーメンを作るのにすら間に合わなかった。高校の合宿所などを使えたところはよかった。
    • 公民館などは畳の部屋がいくつかあり、近所ごとに部屋をつかえた。テレビ、公衆電話もありインターネットも使えた。
    • 避難所のいわき市職員は1日交代、福島県職員は2泊3日、長崎県と市の職員は2週間来ていて、遠いところの人の方が何にでも通じていた。
    • はじめ冷たい唐揚げ弁当が毎日、そのあとは菓子パンと缶詰、みんな人の手のかかった温かいご飯が食べたいと思った。被害の少ない地域の婦人会やいわきモスク、ボランティアなどの炊き出しは喜ばれた。
    • 避難せず残った人々(壮年期の男性)は、自分の生活のための仕事、市街地の水道、電気その他の復旧に追われ、海側を見に行く余裕もなく、支援する余裕もなかった。
    • しかもやっとライフラインが復旧した4月11日、12日にも大きな余震が起こり、また復旧のやり直し。
    • 立地町村が避難し、常磐線が断絶したため、北は南相馬、南はいわきが原発への最前線になった。いわきの賃貸住宅は原発関連企業がおさえてしまい、家をなくした被災者はなかなか入れなかった。またいわき湯本温泉は、前線基地として原発作業員で満員。しかし大マスコミは一時、いわきから社員を避難させ、対策本部も県庁のある福島市におかれた。福島市からは、原発までもいわきまでも2時間かかる。こんなにいわきを最前線にしておきながら、東電はプルサーマルをやるときもいわき市に相談も調整もない。
    • いわき市には国や県に追随するのでなく、住民を守る独自の行政をしてほしかった。
    • 風評被害をおそれて放射線値の計測器を学校へ配ったのもおそい。モニタリングポストを増やしてほしいといっても「それは県の所管だ」というのみ。給食には県内産品を使って農村部を応援しよう、といった「がんばっぺ、いわき」キャンペーンが行われている。子どもを内部被曝から守ろうという気がない。
    • いわきの人たちは今度の震災の経験を生かし、東京で大震災がおこったら支援してくれるだろう。だからいまのうちから姉妹都市とか交流をしたほうがいい。

    ・・・これ全部、東京都にも文京区でも起こりそうな気配です。

    11月21日 マッチポンプ

    まともな線量計を買おうとネットで調べたら日立製のが一番お薦めだって。日立が原発を造っているのにこりゃ、マッチポンプというのではないか。
    ある市で自前でヨウ素をはかれず、結局は刈羽原発に測定を依頼したという話も聞いたが、冗談かな。日立、東芝はこんどは原発解体でもうけるつもりなのか。不買運動を起こした方がよさそうだ。

    震災から8ヶ月経って、東京では被災地の話を微妙に避ける人が増えて来た。
    「そういったって現地のひとがやる気にならなけりゃしかたないよ」
    「義捐金や失業補償もでているんでしょう」
    「寄り添うとか、安易に使いたくないね。自分は自分の日常をきちんとやっていくしかないんじゃないの」。

    先日も松本幸四郎さんが「私は当事者にはなれない。だか舞台で一生懸命つとめてお客さまに喜んでもらうしかできません」といっていた。
    耳にはこころよく、誠実に響くんだがなんかなあ。半分は納得するんだが、半分は被災地支援をしないことの正当化に聞こえる。被災者という言葉はもうやめにするとしても。

    11月22日 パブコメのあやしさ

    明日のアーサー・ビナードさんの八っ場ダムの講演のためにサトコは寝ずに準備。タイトルは「ダムの一つ覚え」。うまいねえ。

    11月4日締切りの国土交通省のパブリックコメント受付には5963通来たそうだが、3日現在で130通だったのに、ほとんどが締切りぎりぎりにどっとどいた事業続行に賛成意見らしい。

    毎日新聞の樋岡徹也記者は、「関東地整によると、パブリックコメントには10月6日〜11月4日に延べ5963人から意見が寄せられ、学識者や住民からも意見を聞いた。賛否両論だったものの、「ダムの必要性を否定するほど大きな問題はなかった」と判断したという」(11月21日)ですましているが、これこそ発表ジャーナリズムというのじゃないの?
    読売新聞は「その後、この評価について、国民からの意見を募る「パブリックコメント」を実施。流域住民や学識経験者から見解も聴取し、建設継続が妥当と結論付けた」でおしまい。もっとひどい。
    朝日新聞は「関係住民からの意見聴取やパブリックコメント(国民の意見)には反対意見もあったが、検証結果を優先させた」。うーむ、苦肉の表現ですな。

    自分の意見や分析がない。どっと届いた意見はもしかしてヤラセでないか、とかどうして疑ってみないのだろう。私も事業継続反対の意見をパブコメで送ったが、「今回の(事業継続が妥当という)方針は関係住民や学識経験者からの意見聴取、パブリックコメントを踏まえ判断した」(下野新聞11月21日)だとすると、私の意見は少数派として抹殺されたものだろう。「踏まえ」のアリバイに使われたことになるのかしら。

    「幹事会に出席した1都5県の出席者からは「継続は当然の結果。検証に費やした2年を取り戻すため、予算を集中投下して15年度の完成に間に合わせてほしい」(埼玉県)、「ダムが完成しなければ利根川の沿線市町村は洪水に対する不安を払拭できない。ただ、整備の際はさらなるコスト縮減が必要」(千葉県)、「資料では入札から契約まで9カ月必要とある。事業化へさらにスピードアップしてほしい」(東京都)と発言し、早期事業化や予算の重点配分、コスト削減などを要望した」(日刊建設新聞11月22日)と関東の知事とその子分はみんなつくれつくれの大合唱。

    県議・都議には反対の人も多いのに。たとえば、
    「出席した県内選出議員は石関貴史、中島政希、三宅雪子、宮崎岳志の四氏。三宅氏は「みんな中止の意見。火山や地震の専門家による検証を加えるべきだとの意見があった」と語った。宮崎氏は「私はダム本体工事に反対だが、中止、建設のいずれにせよ大臣の一声で決めるのはいけない。公開の議論を積み重ねるべきだ」と主張。中島氏は関東地方整備局がダム案をコスト面で最も有利とした点について「事業費は必ず膨れ上がる。低く見積もりすぎだ」と指摘した」(東京新聞11月19日)

    有識者会議だって、
    「群馬大大学院の清水義彦教授(河川工学)は「(八ッ場ダム事業で)これまで地域社会にどんな影響があったかを盛り込み、代替案と比較すべきだ」と注文。
    埼玉大大学院の佐々木寧教授(植物生態学)は「地滑りや地震が起きたり、希少生物が見つかったり突発的なことがあると予算は膨らむが環境面では大ざっぱな議論しかしていない」と指摘した。
    東京新聞特別報道部の野呂法夫氏は、東京都など利水参画者が実態と異なる水需給計画を提出しているとし「きちんとデータとして見せないと報告書として未完だ」と指摘。
    上毛新聞論説委員の小林忍氏は「(ダム建設への)異論に対して説明しないと将来、禍根を残す」と述べ、ほかの出席者からも「反対派と議論がかみ合っていない」との指摘が相次いだ」(東京新聞11月5日)
    さすが東京新聞。これだけパブコメにも有識者会議にもいろんな意見があるのに、「踏まえてゴー」とは何事だ。

    そもそも民主党のマニフェストはどうしたのだ。官僚に巻き返されて情けないな。あとで移転地の地すべりとか、ダムの早期堆積とか、想定外の事故が起こったら国土交通省と今の知事連には責任をとってもらいたい。大公共事業と官僚天下りのために日本の美しい山河をずたずたにして、なんで右翼も怒らないのか。これだけ国債を発行して無駄なものばかり作って次世代にツケを押しつけているのに、なんで若者たちはもっと怒らないのか。わからない。

    11月23日 八ッ場「ダムの一つ覚え」

    学士会館で講演とシンポジウム。200人近く集まる。アーサー・ビナードさんのファンも。本質的な話を分かりやすくしてくれた。
    もともとダムは好きだった。ミシガン州生まれでビーバーが冬を越すダムの話からはじまり、20世紀という時代がいかに不必要なものを作ってもうけて来たか。「資本主義に失礼」という言葉が耳に残る。
    たしかに渋沢栄一たちが考えた資本主義はもっとまっとうだったはず。みんなに必要なものを作るのに1人ではできないから共感する株主からお金を集めて,というものだったはず。これが経済道徳合一説。
    それが軍産複合体制のなかでいらないもの、兵器を作ッてもうける、戦争をして人を殺す。それもできないならダム。アメリカでも1920年代まではフーバーダムなんか作っちゃって、もう時代遅れでもっともうかる核開発、日本は唯一の被爆国なので「核の平和利用」でもうけようとした。アメリカが正力松太郎、中曽根康弘のカモネギコンビをエージェントに、CIAもうごいてゲンパツを導入、いっぽう「ダムは無駄」のダム開発も依然続く、と20世紀を世界史的に整理してくれた。

    このへん、「核とわたしと原子力」映画祭でもさんざんみたけど、映像という「小道具なし」で説得するビナードさんはすごい。感服。「みなさん、ゲンパツは発電機だと思っているけど、あれはプルトニウムという兵器をつくる巨大機械なんですよ!」

    そのとおり。私は食べ物以外にものを買わないのに1週間経てばゴミ袋は紙でいっぱいになる。それは各省庁や天下り財団が無駄な機関紙を送ってくるからで。電気も無駄にいっぱいついているし、この無駄をなくせば原発はもちろんいらない。地球は延命する。場数を踏んだビナードさんにはおよび身つかないが、初舞台のサトコや森さやかさんもよくやった。嶋津先生の説明も分かりやすかった。

    11月24日 谷中コミュニティセンター

    ビナードさん、さっそく文化放送で八っ場ダムのことをしゃべってくれている。ダムは「小さく産んで大きく育てる」。2100億の予算が1兆4000億にふくれあがり、これすべてゼネコンと官僚のぼろ儲け、のからくりまで、昨日シマズさんがいっていたことをもう完全に消化してしゃべっている。すばらしい。

    一日仕事。谷中コミュニティセンターの建て替えは声をあげただけよかった。芸大の元倉先生、防災が専門の吉川さん、谷中の手嶋さんら本当に専門家の名に値する方々が誠実に対処してくださって、ほとんどただ働きなのに、計画を直してくださっているらしい。どんなふうになるのか、たのしみ。

    森まゆみ(2011年11月26日)


    ●震災日録11月14日〜19日 森まゆみ

    11月14日 浜岡もまだあぶない

    朝、静岡放送の記者から電話が会ったので聞いてみた。
    「浜岡が止まったといったって冷温停止まではまだ相当かかるんでしょう?」
    「使用済み核燃料だけでも6000本あるんです。いまなにかあったら終わりです」

    奥歯を抜く。それで今日も夜は寄席。志ん輔師匠の夢金と芝浜。落語は博打打ちや遊び人が心を入れ替える話が多い。そして最後はハッピーエンド。
    石巻では一時金や義捐金をカラオケやパチンコで使っちまう話をよく聞く。家も仕事もなくして、捨て鉢にもなる気持ちは分かるが、まだ若い。どうぞ明日から真面目に職を探そう、働こう、と思ってくれないか。落語の出前もいいなと思った。
    帰ったらちょっと熱っぽい。「歯を抜いた日に寄席にいくなんて、ばか」と娘。

    11月15日 チーズ工場の閉鎖

    石巻旧河北町尾の崎の坂下さんから電話。尾の崎の集落は水に陥没して交通も不便になり、住民はもとに戻れないと思っていま、スレート瓦の素晴らしい家々が解体を始めるところだという。どうにかならないか!とおもえどもわれ無力なり。買っても使えないしなあ。

    社会福祉協議会の安藤さんからのメール。
    「先日お話をうかがった丸森町についての記事で、丸森町でチーズ職人をされている方が、チーズ工房を閉じ、ご実家の横浜に戻られるという記事を読みました(毎日新聞夕刊10月20日)。 売り上げ減の原因が、風評被害であること、工房を閉じることが決まった後、駆け込み需要で売り上げが跳ね上がったことなど、震災の影響が直接の被災者だけにとどまらない、被害の広がりをあらためて感じさせられました」
    新聞記事は見ていないが知っている人だと思う。夢を抱いて農村にきた人々の夢が次々うちこわされていく。

    今日も志ん輔さんの3晩目。幾代餅、文七元結。このまえ仙台文学館で話したばかり。

    11月16日 尊敬する農業者

    山形県長井市の百姓、菅野芳秀さんより野菜や玉子が届く。彼いうに「東京のスーパーなんかで売っている野菜は紙みたいなもんだよ」。長井は9万人の人口の半分を占める都市部の生ゴミをすべてコンポストで肥料化して,農村部で堆肥として使い、有機農作物を育てている。NHKの取材で知り合って以来の友だち。「たまには体を休めに湯治に来てください。いい温泉紹介するから」。

    同じ日、京都綾部の田中ふきこさんからなし、柿、りんご、銀なんなどいただく。田中さんはご主人が農業をやりたいと帰農し、ご主人亡き後も独りで農園を守ってこられた。「豚の子宮に腕を肩までつっこんで赤ちゃんをなんど、取りあげたか」というすごい方。梅棹忠夫先生の妹さんである。東京でも12月にかけ梅棹忠夫展が開かれるという。いかなくちゃ。四手井綱英先生の本を書いたとき「いい本を出して下さいましたな」とおっしゃった声を忘れない。秘書の方の朗読で読んでくださったのだった。

    そこへ島根の百姓佐藤忠吉さんからも電話。「津波で亡くなられた方の気持ちは私も土石流で幼い次男を亡くしているから少しは分かる。うちも3度やられましたけん。じゃが今度のは町全体やられてなくなっとる。大変ですな。なくなられた方には気の毒だが、というかその方たちのためにも今回のことをチャンスに世の中をかえなきゃいけん。もすこししたら米を送ります」

    三人の尊敬する農業者から連絡がきた。TPPなんてとんでもない、というかんじ。今日は中島岳志たちと日本橋の団琢磨暗殺現場へ行った。そしたら東京スカイラインとかいう川下りの舟が来たので乗ってしまう。川から見る東京は不思議な感じ。爽快。

    11月17日 祝島の校長

    上関原発に反対している住民の多い祝島の小学校の山本校長が辞表を出されたという。
    実態を調べれば調べるほど原子力は安全でないことがわかり、安全宣伝の教科書を配布する文科省にも疑問を抱いた。校長会で「原子力・エネルギー教育について県教委の意見をお聞きしたい」と質問したところ、「TPOをわきまえない発言」と注意された。「校長は中立であるべき」ともいわれたらしい。中立でないのは文部省の方だ。山口県の校長会も県教委も最低レベルなことがこれで明らかになった。

    娘によれば福島原発の内部写真公開などはTPPを騒がれずに推進するためのめくらましだという。普天間も八ッ場も原発にそっくりなのに、また事故が起きてからでないと目が覚めないのか。それとも「放射能じゃないから関係ねえよ」というのかな。
    八っ場ダムのパブリックコメントを私も経産省に出した。しかし11月3日に130件だったパブコメが4日に5000件になったというのは、どんだけヤラセ?という意見あり。

    久しぶりにツイッターをのぞいた。南で谷根千のおいしい店談義、西で高山宏ファンの盛り上がり、東はTPP,北は原発と八っ場ダム。多様性というかヘンというか。

    今日は日帰りで千葉へ、地境の確定のため。うらうらするかがやく海を眺め、ビールをのんだらすごくいい気持ちだった。行き帰り、しごと。

    11月18日 反原発の女川町議高野さん2位で当選

    朝から5月に行ったいわき市への炊き出しの画像を見ている。この中から「津波の脅威「「天心六角堂消滅」だけはサトコが編集してくれたが、あとは「いわきモスクの炊き出し」を編集中。ほかのお話を書き起こす。「世界」の連載を書く。

    夕方、東京大学の大学院で講義、さすがにほとんど全員が質問をしてくる。
    「東京駅は空襲で被災した姿が歴史の証言ではなかったか。復元工事は空中権を移転した金で賄われている。そのため景観はむしろ悪くなったのではないか」という疑問はもっともだ。わたしの中でも結論はついていない。しかし東京駅の復元をお願いしたこともないし、それの提灯持ちをしたこともない。保存運動に関わっただけだ。もし反対意見があるならその方たちが復元反対運動を起こし、説得するべきだった、と思う。

    この13日、女川でお会いした町議高野博さんは今回、町議選で567票、2位で当選。共産党が2位、3位となり、得票率の22%を占めるという結果。
    「町民がいかに原発に疑問を持っているかということですね。原発に反対してきた女川漁協の阿部宗悦さんの娘さんも当選し、いっしょに原発を止める活動ができそうです。石巻では初めて共産党の県議が当選しました」。
    息子さんたちはどうしてらっしゃいますか。「女川体育館に11月6日までいたんですが、やっと8ヶ月にわたる避難生活を経て家族が一諸に暮らせるようになりました」。
    あの隣りに立派な3階建ての仮設が立ちますね。「きょう30キロの米を届けに行ったのですが、3階まで上がるとひーひーいって。森さんの作ってくれたビデオは私のブログからも見られるので、静かなブームを呼んでますよ」

    11月19日 丸森では子どもの甲状腺検査

    パシフィコ横浜で視能訓練師の大会。3000人の大ホールで原田病について語る。後半、井上眼科の若倉先生と対談、視力でははかれない、見え方や見えにくさ、疲れやすさ、まぶしさなどについて意見交換。
    午後、コスモス忌にいくつもりだったが、雨が激しくなり、東海道線が遅れ、京浜東北線にまで乗り換える体力がなく結局いかずじまい。

    大ホールで話した後に掛け持ちなどできる体力ではないことを肝に命じなくては。
    人の多いところへはいかない、まぶしいところ、うるさいところには近づかない、確約はしない、疲れたら休む、義理を欠いても。伊藤信吉さんが長生きの秘訣として「よく寝、よく食べ、義理を欠く」と言っていらしたが。でもそう長生きもしたくない。

    帰って2時間ほど寝たら回復した。丸森の耕野と筆甫では宮城県で初めて希望者の子どもに甲状腺の検査を始めるという。実現するまでに味噌作りの太田さんたちがどんなに努力されたことだろう。

    森まゆみ(2011年11月20日)


    ●震災日録11月3日〜13日 森まゆみ

    11月3日 東北大学の貴重書

    東北大学の高校生の作文の阿部次郎賞の選考が昨日夜あり、リッチモンド仙台(9200円)にとまった。このホテルはかなりいい。エコ仕様だし、部屋は広くベッドもダブルで朝食は無料。それも焼きたてのクロワッサン。朝ご飯の場所が昼間はフリースペースとして使える。
    しかしホスピタリティで4年連続日本一というわりにはフロント嬢の笑顔は営業的で、対応もマニュアル通り、「もういっぺんおうかがいしてもよろしいでしょうか」なんて敬語のかわりに「なに?」と聞き返してもいいから人間らしい応対をしてもらいたい。東北大学文学部の場所を聞いたら、全然違う医学部にアカマルをつけて「ここでございます」ときた。

    文化の日の午後はここで講演。丸森からも何人も見えたので恥ずかしかった。

    植物園に行くと、仙台城時代の森が残っているのに驚く。しかしこの前の地震でか、大木がどうと倒れていた。図書館では貴重書の展示をしていてなんと三代将軍家光が竹千代の6歳時の達筆な書簡とか、マルクス自筆の献呈がはいった『資本論』とか、土井晩翠あて千駄木町五十七番地の夏目漱石からの手紙とか、びっくり。漱石の絵で平福百穂の絵に漱石が漢詩を書いたのまであった。

    11月4日 たまに東京

    今日は一日パソコンの前。

    11月5日 飯田屋

    ひるすぎ台東区の合羽橋の図書館ホールで一葉について話す。最近、映像を見せずに話だけでどうみんなの想像がわくか、話す力を試しているところ。というのはやたら凝った映像ばかり見せられるが、あと何も残らない発表をさんざん聞かされたから。

    帰りに本を売りに来てくれたヤマサキに飯田屋のどじょうをおごる。マニュアル通りではない対応に心寛ぐ。「父がいきていた時に連れて来てもらいました」というと、仲居さんは「あらー。おとう様今ここにいらっしゃいますよ」だって。リッチモンドのフロントはこんなこと言えまいな。ヤマサキは気を使わない人とこうやって飲むのが最高だね、といいつつどじょう鍋よりネギをさっと煮て食べている。白木のネギ箱のネギがなくなると仲居さんがまたはこんで来てくれてうれしい。

    そのあとヨコハマのKAATでやなぎみわ『海戦』を観に行き、アフタトークで飛び入り、築地小劇場やそのころのモダンガールについて少し話した。前は一緒に研究会をしていた五十殿利治さんとも一緒で楽しかった。

    11月6日〜9日 普天間基地の騒音

    今日からオキナワへ行く。沖縄の仕事が来るとすぐいきたくなってしまう。今回は宜野湾市にある普天間基地の騒音の取材。

    旅のあいだ中、原発の本を読んでいた。長谷川公一『脱原始力社会へ──電力をグリーンする』、広川隆一『福島 原発と人々』、小出裕章『原発はいらない』。原発と八っ場ダムはそっくりであるが、基地もそっくり。

    話を聞けば聞くほど、住民の本音が見えにくい。親戚が勤めている、地主で地代をもらっている。基地の外だが食堂やタクシー、カラオケ、米軍放出家具やなど基地で生きている人が多い。はっきり名前を出して意見を表明するのは公務員くらいだ。市としては基地反対を表明しているから。
    「いま基地がなくなったらどうして食べて行くんだ」「地主が土地を売って乱開発するだけですよ」「本土のマスコミは反対ばかり取り上げている」「65年に一回ヘリがおっこっただけですよ」。
    かとおもうと「どういう視点で取りあげるのか」「基地は皇居に持っていけ」「東京の連中はぬくぬくしている間にこっちは夜も眠れないんだ」と言い放たれる。
    理解しようとしてわざわざ来た人間をなんで責め立てるのか。気持ちはわかるが、まずいやり方だと思うけど。宜野湾市は基地さえなければ青い海に面した夢のような町なのに。

    鳴門親方急死。相撲協会の委員を離れて久しいが、まだいろいろあるんだなあ。

    11月10日 西周はエピキュリアン?

    島根県立大学に呼ばれていった。きのう羽田から帰ったのにまた羽田へ行く。いままで三田線で大手町で東京駅、日比谷で有楽町、内幸町で新橋まで歩き、浜松町からモノレールという2回乗り換えでいっていたが、このところ三田で京急羽田線に乗り換えることにした。一回乗り換えだし、歩く距離が少ない。
    馴染んだ癖を変えるには時間がかかる。京急では間に合わないのではないか、という不安から2度乗り換えをしていたのだが、計ってみるとどっちもちょうど1時間。急行より快速の方が速いとか、三田と泉岳寺の関係が分からないとか、いろいろあったが、だんだん京急に慣れて来た。その間、御成門で降りて浜松町まで歩くコースも試してみたが、これは帰りに芝当たりのラーメンやに引っかかってしまうのでよくない。

    島根県立大の先生方が夕食会を開いてくださり、政治学や憲法学、環境学の先生方で津和野出身の西周の人となりや業績、福沢諭吉研究の現在、島根あたりの浄土真宗と基督教の普及率、『自主独立農民という仕事』についての感想、大塚久雄のヨーマンリーやエンクロージアについてなど、さまざまな刺激を受けた。なにより副学長の飯田泰三先生はまえに福沢研究会で谷中墓地をご案内したことがあるが、そのときいらした萩原延寿、我が師藤原保信、丸山真男、藤田省三などの諸先生についていろいろお話しできたのが懐かしく嬉しかった。

    11月11日 ひらけ、ゴマ

    グリーンリッチホテル浜田駅前というホテル(6200円)は温泉つきの駅前ホテル。黒っぽいデザイナーズホテル風だが、必ずしもインテリアに成功しているとは思えない。フロントは家族的。しかし9階まであるのにエレベーターが一基しかなく、自動販売機までわざわざ水を買いにいくのがおっくうで水道水を飲んだが結構おいしかった。

    今年も流行語大賞の時期、「まるまるもりもり」などはどうでもいいが、今年はなんと新しい言葉を覚えたことであろう。私の頭にはシーベルト、ベクレル、タービン建屋、溶融、メルトダウン、メルトスルー、天地返し、除染、セシウム、放射線同位体、原子力村、熊取セブン、原子力安全・保安委員会、原子力文化安全機構、エネ特計、もう頭の容量を超えている。

    浜田の駅前をぶらぶらしていたら市場があった。そこでおにぎりと天ぷらを買って食べた。「さむくなったねえ」「もうすぐ紅葉かなあ」なんて。暮らしの声が聞こえる。前のスーパーにはおばあちゃんが入っていった。カートの輪っかってそのためにあったのか。ステッキをさすところなのでした。それで自動ドアに向って「ひらけ、ゴマ!」だって。そこから海沿いの美しい景色を見ながら益田で乗り換え、津和野に。

    6年ぶりか、西周や森鴎外生家をみたが、森鴎外の家は当初と90度むきが違うらしい。なるほど南側に窓も縁側もないのはおかしい。安野光雅美術館をゆっくり見て、館の方たちと夕食。アンノ先生の話で盛り上がった。

    11月12日 疎開の思い出

    朝、ご飯のときにあった同宿者は、浅草の田原小学校出身、おうちは鯨やというラシャ問屋だったが、3月10日の下町の大空襲にあって母方のふるさと津和野に疎開。
    「第二のふるさとですよ。浅草のごみごみしたところで育ったから自然の中の中学の2年間は本当に印象深い。のんびりしていじめもなくみんな優しかった。東京へ帰るのはいやだったな。浅草には戻らずいまは世田谷です。でいまも津和野の友だちとつき合って、時々来ます。きょうは永明寺でコンサートがあるので」と楽しそう。

    乙女峠にお詣りに。ここは浦上のキリシタンが明治維新後、お預けになって拷問の末、多くなくなったところ。森鴎外はそのことに一切触れていない。そのあと永明寺に森鴎外のお墓参り。かえりにヨモギの葉を沢山摘む。オキナワでそばにいっぱいいれていておいしかったから。

    10時から安野先生解説のプラネタリウムを見る。星と暦、天動説など興味深くわくわくした。これを見るだけでも入場料の値打ちがあるし、これを見なかったらもったいない。

    帰ってヒロシと久しぶりに外食。リークック。

    11月13日 志ん輔三夜

    朝からたくさんのたまった仕事。志ん輔三夜の第一夜。国立演芸場。掛け取り漫才で笑わせ、お直しで泣かせた。じつに芸達者。歌舞伎から義太夫、新内、三河漫才までこなす。初めてでしたが、ぜひ来年、円朝の累が淵をやっていただかなければ。

    こどもたちに原子力の安全性を学習するテキストを作ったり、作文の賞を出したりするお金が電気料金の中に含まれているんだって。それで今年も4200万円もかけて作文の賞を出すのを去年と同じ原子力文化なんたら機構とかいう天下り団体が受注したんだって。こんな話ばかり放送でやる時代になった。ほんと官僚はいい度胸している。

    石巻の坂下さんと電話。12月12日月曜日にパリ祭ならぬ牡蠣祭をすることに。

    森まゆみ(2011年11月13日)


    ●震災日録11月1日、2日 森まゆみ

    11月1日 なつかしい鳴子の宿みやま

    10時の新幹線でゆっくり仙台へ。松島の駅で米農家兼ライターの渡辺さんが待っていてくれた。

    「宮城の米はほとんどひとめぼれになっていますが、僕はササニシキ偏愛です。放射線量をきちんとはかりたいので、県だと20ベクレルまではNDと出てしまうので、3万5000円かけて独自の調査をかけました。セシウムも134がたとえ20、135が20とすると両方で40出てしまうわけですからね。まったく出なかったので一安心です。でも子供さんのいる家庭になかなか今年も買ってくださいとはいいにくい」

    石巻市尾野崎の坂下さんのうちはとってもきれいになっていた。長面浦という素晴らしい入江で牡蛎の養殖をしている。
    「隣近所は戻ってくるかどうか迷っているけど、私たちが住むと決めたらすこし考えが変わる人もいると思う」と健さんは相変わらず元気。

    尾野崎は旧河北町、北上川河口の集落、震災では裏のお寺にみんなで逃げてかなりの人が助かった。「大川小学校へ通っていた子供たちがかえってこないけどもなあ」と清子さん。北上大橋が仮ではあるが開通したのが明るい話題だ。しかし大川小学校を右に見て尾野崎までは、左側の田んぼはみんな北上川になってしまっている。右側はまったく何も集落がない。一筋の道だけが復旧した。「いいんだ、日本のモン・サン・ミッシェルをめざす」と意気軒昂だ。ここには「北上いきいきクラブ」があってみんな復興へ向けて前向きである。

    夜、鳴子温泉にみんなで集まった。ここの川渡(かわたび)温泉みやまの板垣さんもみんなと仲良し。きょうは震災以来みんなで顔を合わせ、この8ヶ月の苦労を話し合った。

    11月2日

    みんな朝早くしごとに帰っていった。そこで女川の総合運動場に最後に建てる仮設住宅を観に行った。昨日いっしょになった毎日新聞の記者中島みゆきさんの案内。彼女はボランティアとしてもここに関わっている。神戸の震災のとき坂茂という建築家は鷹取教会をボール紙で再建した。

    坂さんは、今度はユニットを組み合わせてすてきな3階建て仮設を設計した。学生たちはそこに設置す整理棚をどんどん作っている。広い中庭には集会場も作られるようで入居の決まった人々は待ったかいがあったとよろこんでいるという。

    それにしても原発の交付金で小さな町にしてはなんという不必要なほど大きい、広い運動公園を作ったことだろう。そして隣接する最初に作られた仮設住宅は入った人には申しわけないが坂さんの仮設とはなんと差があることだろう。そちらは今冬に対応できないので断熱工事の最中。
    とはいえ坂さんの仮設にしても1人なら6坪、2人で9坪、3〜5人で12坪という国の基準はかなり狭いものである。流されたいえはこの辺ではみな広々としたものであったろうから。

    森まゆみ(2011年11月13日)


    ●震災日録10月24日〜31日 森まゆみ

    10月24日 越後の粟島

    越後の粟島に行く。新潟まで新幹線。稲穂一号で村上へ、乗り合いタクシーで岩船港。

    そこからあわしま丸で一時間半のこの島へ私はなぜいくのか? 脱原発デモも国民投票も大事だと思うけど、反対する以上に、別の未来を提示することが大事だと考えるからだ。原発のいらない、スローで豊かな、小さな楽しい暮らしを。それを谷根千でもして来たつもりだし、でも谷根千では東京電力、東京瓦斯、東京都の下水道、地下鉄やタクシー、人ごみと縁を切ることはできない。

    それにしても人ごみッてスゴイ表現だね。自分以外の人はみんな「混み」。もっといえばゴミ。なんでこんなに並んでいるのよ、とぷんぷんしながら国立博への列の最後尾についたおばさんを見たが、そんな感じ。あんたが並ぶからだよ、とは怖くていえなかった。

    粟島は350人の人口で合併していない。島には小さな発電所、フェリーでも外の車は島内に持ちこまない、じいちゃん、ばあちゃんが田を耕して、魚を釣って静かに暮らす。むかし粟島馬というのがいてその聞き取りを頼まれた。昭和7年に最後の一頭が絶滅したという。

    10月25日 しけの日

    船は揺れた。天気も悪くなってくる。高速船は早々欠航。3日も船が行き来しないとかなり物販が滞る。アイルランドでそんな絶海の孤島があった。世界遺産になっていた。

    私より少し上の方たちは集団就職で東京や大阪に出た。もっと上の人たち、80くらいの人たちは小学校を出ると、女中奉公や製糸工場に出稼ぎに行った。男たちも戦後もずっと出稼ぎに行った時代が長かった。
    昭和50年代に離島ブームが起き、民宿がはじまって島は観光で立ち行くようになった。釣り客、家族連れの海水浴客がリピーターでやってくる。なかには90歳のばあちゃんが一人で客をもてなし、シーツも洗っているところもある。

    釜谷の集落にとまる。松田やさんの煮魚、焼き魚はとってもおいしかった。観光化するのでなく、馬を使った交通やスローカフェなどをつくって金銭に迷わされない人と人のつながりを大切にした島になるといいと思う。

    10月26日 公共土木事業

    海はしけた。きのうはフェリーも欠航。今日午後3時半はどうにか出た。

    夜はお祭り、宵宮である。鳴り物入りでない、しずかな村の祭礼だ。一人一人のお年寄りが純真で、恥ずかしがりで、女性は特に、頭に手ぬぐいやタオルをまきその上に帽子をかぶって顔を隠している。カメラを向けると顔を隠す。竹富島と人口規模や水牛車をやっているところは似ているが、竹富はかなり観光化がすすみ、こんなうぶでかわいらしい感じの人はそうはいない。

    そうはいってもかつて出稼ぎを多く出した村は高齢化し、村の土木工事は島外からの人がきてやっている。防潮堤、崖崩れの修理、住宅工事、夏の観光シーズンが終わったいま、それらの働き手が民宿に泊まっている。

    夜中に太鼓をどんどん鳴らしながら、若者たちが回ってきた。やれかかといって「早く母ちゃんは起きて赤飯を炊け」という合図らしい。きのうばあちゃんにごちそうになった。赤飯もしるこも小豆からばあちゃんが育てたもので絶品だった。民宿たてしまの食事も珍しいものばかり。カメノテとかブリの内蔵のキムチ和えとか。お酒が進む。

    10月27日 夕日が沈む頃

    朝、お宮の祭礼。海岸ベリを御神輿が走りまくる。

    ここのお年寄りは聞き書きをしている間でも手を休めない。小豆の皮を剥いたり、網を繕ったり、本当によく働く。

    かんじのいい小振りな資料館、その上に木の椅子やテーブルの図書室、そしてかつて粟島馬を放牧したまぎを見に行った。馬と人間は共存しつつも、畑を荒す馬を捕まえてマキに追い込む作業は花見時のお祭り気分だったらしい。天気はすっかり回復して、海は青い。

    帰りの船は快適だった。おりる間際にすばらしい夕日が沈んだ。画家のともちゃんと瀬波温泉によって帰った。もう島に帰りたくなる。次はタラ鍋を食べにおいでと島の人がいった。海は荒れるらしいが。

    10月28日 北京原人の意見

    今回の東北の地震で両親ともなくした子供は100人くらいはいるという。中国で唐山地震のときもたくさんの孤児が出た。中国で聞いた話だと、その子たちは係累がないからと政府が連れて行って諜報部隊に入れたというのだが本当かなあ。

    身近な中国人に北京に行ってきたよと話すと、タクシーは来ないし、車の運転のマナーは悪いし、地下鉄は混んでいるうえ、切符の買い方がわからないし、なんでそんなとこいったの? 北京子の私が聞くと、いまいるのはあれ、北京の人じゃないね、という。日本に来る中国人もマナー悪い、居酒屋で靴下脱いでテーブルの上において大騒ぎしているから恥ずかしくて注意したよ、という。世界一早い新幹線ができたじゃないの、というと、あれは天国へ一番速い新幹線だよ、危なくて乗れない、と手を振った。

    彼に聞いたおかゆとシュウマイの店、都一処はおいしかった、とお礼を言うとやっと顔がほころんだ。

    10月29日 福島の子供たち

    寄田くんは福島の子供たちを反原発の運動の先頭に立てるのに反対だという。子供が対国の交渉に参加し、記者会見などをするのが不愉快だという。私もこの間、それを感じてきた。子供はなんにも考えずに元気に遊んでいればいい。大人はそういう生活を守る義務がある。メディアの前に出された子供たちはなかなか落ち着いていいことをいっていたが、それは彼らの意思なのか、運動関係者の子供なのかよくわからなかったし、痛々しい感じもした。大人の運動に子供が自由意志で参加するのはかまわないが、子供を利用するのはよくない。

    私たちは丸ビル保存のためのビル包囲の手つなぎに、忸怩たる思いで、しかし人が足りないので我が子らをかり出したが、ヤマサキマキちゃんが「こんな手がちぎれるくらいならビルを壊した方がましだ」といったのがわすれられない。それでもきたメディアは子供ばかり映そうとした。

    妊産婦や赤ちゃん幼児はできるだけ福島、郡山はじめ線量の高いところから避難してもらいたい。政府がそれを責任を持ってやらないなら、呼びかける運動も必要だ。しかし家族が離ればなれになること、ほかにもいろいろ理由があって出られない人もいる。そこにとどまる家族や子供の生活の質を保障する活動も必要なのである。

    10月29日 私だけ出られない

    福島で高校生をもつお母さんの話。小学生は市外へ避難する子供が多く、教室の人数は減っているが、その高校ではフリーズしたように誰も出ないのだそうだ。誰か一人出てくれば、私も私もとなるかもしれないのに、まず最初のコマが動かないのでジグソーパズルは固まったままほぐれない。だれか最初の一人になってくれとどの親も思っているらしいが、自分がそれになる勇気はない。
    今回、地震以降、コミュニティの力、ご近所の助け合いが強調されているが、むしろコミュニティが抑圧的に機能することが、特に原発については多いように思う。

    別の友人は避難区域の一時帰宅の援助にいったらしいが、許されたみじかい時間のなかで何を持って行こうかと判断するとき、位牌、遺影、過去帳、アルバムなどを持ち出そうとすることに驚いたという。人は家と土地の歴史を大事にしているのだ。その話も寄田くんとすると、そうです、逃げられないのは「郷土愛」のせいです、という。

    人間にもいろいろあって、国際結婚して地球の裏側にすんだり、アメリカ、ヨーロッパの大学を渡り歩いたり、一番ビジネスチャンスのある国に行って働いたりできるノマド(放浪者)のような人もいれば、土地を手塩にかけ、大地にすっくと立って、共同体の中で地産地消(そこで生まれそこで消えてゆく)人もいる。そういう人たちは生活のすべて、自分の存在する意味がその土地の中で完結していて、新たな天地には移れないのかもしれない。
    谷根千という地域雑誌をやっている間中、「土地へこだわる人」と思われて困った。私はあたらし物好きで、旅がこよなく好きで林芙美子ではないが「根っからの放浪者」であって、どこでもやって行ける。だから避難しない人の方がよくわからない。

    10月30日 線量はやや高めか?

    朝9時に南天堂の前に集合、白山上から3台のガイガーカウンターで地上1メートル、地上5センチを1分さらしてはかって行く。いまさらという気もしたが、いままでやっていないことだから。権上さんにはカウンターによって精度も違い、一喜一憂しないように、と釘を刺されたが。

    測ってみて以外に地表近くのが高いということもない、植え込みや土のあるところが高いということもない。しかしフクシマ以前が毎時0.04マイクロシーベルト(μSv/h)、いま東京都が発表しているのが0.07〜0.08、しかし測ったところでは0.14から0.23くらいまで出る。発表の2〜3倍というところか。まんべんなく汚染されている。家の中に入ると0.07くらいに戻るが。私のガイガーくんは従兄弟が進めてくれたチェルノブイリあとのソ連製、鈍重だが頼もしいやつだ。

    10月31日 東大構内、青木誠さんご逝去

    今月もはや晦日。きょうは東京大学内を測る。農学部の畑のあたり、噂の原子力研究所のあたり、浅野地区には放射性物質を扱っているというサインあり。医学部、ここも1988年頃、医療用ラジウムなどを中庭にぽんぽん捨てていたとの新聞報道あり、谷根千でも記事にしたところだ。

    どこも構外とほぼ似た値、一カ所だけ最大0.39が一時的に出たところがあった。

    きのうも中腰やしゃがんで測ったのでふくらはぎがぱんぱんだったが、日に照らされての屋外活動、家に帰ったら爆睡してしまった。4時の目の定期検診に遅れるところだった。

    弥生町のにお住まいの青木誠さんをお訪ねしたら、6月にご逝去されたとのこと。
    青木さんは弥生町町会の役員として、東京大学の原子力研究所が何か放射能漏れや事故をおこしたとき、町はどうなるのかと心配して、東大や文京区、東京都などに文書を送ったり、住民への安全管理の説明を求めていた。
    しかし東大の対応もいまの東電と同じ、安全神話を繰り返すものであった。文京区は東大が安全といっているなら安全でしょうといった権威主義で、相手にならないとずっとおこっていらした。谷根千にも何度も資料など送ってくださったし、記事にもしたのだが、何度も、いつもは要請に応えられずにいた。
    3・11以降になってやっと保坂元議員が青木さんを訪ねて意見を聞いたそうである。しかし青木さんは3・11以降、むしろ口数が少なくなって、頭の具合も少し悪くなったようだと奥様はいう。フクシマの事故は青木さんにどんなに衝撃であったことだろう。私たちも電話をいただくたび青木さんの話をゆっくり聞く暇がなく、まともに答える記事や活動ができなかったことを反省する。あまりにも鈍かった。
    青木さんは炭坑事故のさいガスを報知するカナリアのような、志賀原発反対でみんなに神懸かりだといわれた川辺さんのような、黒澤明『生き物の記録』のビキニ水爆実験におののいた町工場の社長のような、きわめて感受性の強い人であったのだ。

    森まゆみ(2011年11月1日)


    ●震災日録10月15日〜22日 森まゆみ

    10月15日 北京へ

    ある人に聞いた話。
    「東京電力の社員は東大はじめ六大学あたり出ていても給料は10万円台まで下げられ悲惨な状況。何かミスをやると叩かれるから外でもうっかり飲んだり遊んだりできない」
    あんまり東電ばかり悪者にするな、ということらしかった。でも放射能におわれた人々は家を失い、仕事を失い、ふるさとを失い、時には家族が離ればなれになっている。それとどっちが悲惨だというのか?

    成田空港へ。ことしはじめての海外。北京へ。ホテルは竹園賓館。四合院を改造したいい感じのホテルで、大きな池のそばの散歩にいいところにあった。
    8年の歳月は北京を変えた。まさに町は生き物。自転車部隊はなくなり町は渋滞。
    それで魯迅故居についたのは3時半で、社会主義で4時には鍵をがちゃがちゃ持った女性に閉め出された。

    夜、北京在住のライター原口純子さんと胡同の中にある雲南料理を食べに行く。路地奥の隠れ家のような意外性で客は欧米人ばかり。なかなかおいしい。

    10月16日 北京の普通の町

    朝、池のほとりで戸外で理髪師さんが髪を切っていた。梅蘭芳の記念館に行くも月曜日で休み。結局、またフートン巡り。2元でおいしいまんじゅうにありつく。餃子や麺は6元くらい。横町の食堂があるので一人暮らしのおばあちゃんなど食べにくる。

    またなかなかタクシーとまらず、地下鉄は切符の買い方わからず。
    竹下通りのようににぎわっている通りで双声という漫才をみる。みんなが楽しそうに笑っているのをみるとなんだか目頭が熱くなる。北京の人たちが楽しく暮らしているのようなのがうれしい。テレビのニュースはあいかわらず要人の往来ばかりえんえんやっているが。まあバイアスと隠蔽は日本のジャーナリズムも同じ。

    夜は家の近くの北京の食堂で水餃子、サンラータン、マーボー豆腐、ピクルズ。
    燕京ビールは薄くて飲みやすい。餃子一つとってビールを飲んでいる楽しげなおじいさん二人をみてまた涙。北京の老人たちはなんだか日本よりはしあわせそう。

    10月17日 老舎茶館

    三連書房へ表敬訪問。平凡社とここで魯迅の二カ国語版を共同出版した。原研也さんの装丁で美しい。昼はそばの飯店で豆腐や魚をいただく。
    そこから前門、瑠璃厰はものすごい変化。時代劇のセットのようになってしまっている。老舎茶館でカンフーやアクロバットや物まね、漫才などをみた。ここで御茶を飲みながら笑っている人々をみて、福島の流された人たちを思い、涙が止まらなかった。

    10月18日 辛亥革命100年

    毛沢東故居を探しながら鼓楼、鐘楼などの周りを歩く。

    昼過ぎの飛行機で青島へ。桟橋王子飯店からこの町のランドマークの桟橋が見える。
    中山大通りを歩いて春和楼という古い店を見つけ、アワビ、エビ、ホラ貝の炒め物、豆苗などを食べる。青島ビール。
    夜は8時から辛亥革命のドラマをやっており、それぞれそっくりさんの役者が演じている。宮崎滔天が着ている着物が柄物のウールでぶくぶくなのや、孫文の日本の住居の日本間がやたら広くて、障子の桟なども変なのはご愛嬌。いま日本にはいないようなマッチョな男の大時代な演技も面白い。
    結局3晩つづけて2時間ずつみる。字幕がつくので略字はむずかしいがわりあいよくわかる。

    10月19日 ドイツ人の作った町

    朝から町を歩き回る。青島は新しい町。山東省は山東菜っ葉で有名。
    19世紀末にドイツが租借してつくり、モダニズムやハーフティンバーなど様々な洋館が林立する。しかし石を貼ったり構造材を見せたりかなり重くしつこい。白雪姫やヘンゼルが出てきそう。なかにはロシア風もある。しかしドイツは第一次大戦中に手放し、山東出兵した日本がそのあとにはいり、そのまま使った。
    これも観光資源なのできれいに塗り替えたりしているが、かつて一家族が住んでいた家に、配電盤が16付いていたりする。ガス、水道、トイレもない一間に老人が住んで、庭で菜っ葉を作ったりしている。生みの親はいいのになあ、と思うことしきり。老舎の住んだ家、康有為の住居が記念館になっていたのをみられたのは運がよかった。

    昼ご飯はしらエビの唐揚げとホタテのネギ情由で青島ビール。午後はビール工場を見学。またビールを試飲した。

    10月20日 日本人観

    バスに乗って新市街までいくが面白くもなし。土産物は貝細工くらい。昼過ぎに地図にある風景特区にいってみるが変な地下街があるだけ。まっすぐの参道みたいなのがついた子供の天国とかいう公園があった。後で聞いたら日本統治時代につくった植民地神宮の一つの跡。

    今回の東北大震災で、中国のテレビに日本の普通の被災者が写り、泣いたり笑ったりする普通の人々だということがわかって日本人観が修正されたという。日本人といえば残虐な軍国主義者のようなすりこみがされているので、びっくりした人は多かったらしい。とくに石巻の水産加工会社では中国人従業員をすべて逃してついになくなった社長がいた。社員に人望があって中国人女性らが社長社長と嗚咽する姿に日本人観を変えた人もいるらしい。

    中山通りの古い店で海鮮火鍋を食べた。さっぱりしておいしかった。マテ貝、しゃこ、アサリと食べ尽くした。青島ビール。

    10月21日 大鹿村騒動記

    海沿いに魯迅公園や青島などいってみる。また横浜の山手のような日本なら高級住宅地を歩く。プラタナスの街路樹も美しいが、すんでいる人は庶民ばかり。でもこの町の高低差は老人にはきついだろう。

    あっという間に帰る時間になった。午後の飛行機は行きよりずっと大きく、画面で『大鹿村騒動記』で原田芳雄をみる。大楠道代は吉永小百合なんかよりよっぽどうまいのに文化功労者になれないな。三国連太郎、佐藤浩市、岸部一徳、芸達者ばかり。ヤマサキが見ろ見ろという映画をこんな小さな画面でみてまたおこられそう。

    かえって白山の映画館でチベットでの中国の人権弾圧の映画とコンサートあり。こんなことしている国に行ってきたのかと慄然。ヒマラヤを越えて逃げてきた子供たちを育てる施設はダライ・ラマ法王の妹が運営しているらしい。疲れているのにイベントに参加して荒川さんやはてなさんとワインを2本もあけてしまった。

    10月22日 仙台

    今日一日が勝負。朝は中公文庫のゲラを返す。『世界』の長い原稿を書く。どこにも行かず。

    丸森の新米を炊いて食べた。このお米を頼んだとき、ものすごく長いリストが送られてきた。放射線値NDに始まり、残留農薬まですべて。

    仕事終わったのは朝の5時。2時間仮眠を取って仙台へ。新幹線で爆睡。
    文学館で円朝について話し、料理研究家の高橋広子先生の家へ。さすがに食の専門家だけに食べ物のことに造詣が深い。今日はハラコ飯と実だくさんの汁をいただく。
    仙台市内だが3月11日は停電。11時まで水が出たので風呂や薬缶、鍋に水をくみおいた。プロパンガスで調理し、とにかくおむすびを握っては来る人全部に食べさせた。家は避難所状態。仙台で委員会があった娘さんの恩師と大学院生を2日泊めた。大変な経験をたくさん聞いた。
    残念だけど日帰り。

    森まゆみ(2011年10月26日)


    ●震災日録10月6日〜14日 森まゆみ

    10月6日 居住の自由

    谷中コミュニティ・センターのことでいろんな人に会う。なんで町会を通さずに意見を言っていけないのか、民主主義者としてはわからない。

    今回の震災でコミュニティの大切さばかりが強調されているが、むしろコミュニティが抑圧的に働いたことの方が大きかったのではないかと、あまのじゃくの私は考える。
    フクシマの水素爆発、あれは核爆発だという人もいるが、あのときアメリカ大使館などは80キロ圏からアメリカ人を退避させた。日本という国家もそうしていれば、今のようなこと、そして5年後に起こるであろうことは防げたと思う。牛だって馬だって放置せずに山を越えて山形県や新潟県に非難させればよかったのだ。

    福島の人々はそれからも逃げていない。家族がばらばらになるのはいやだ。ふるさとからはなれたくない。まわりの人に逃げたと言われたくない。老母を置いて行くわけにはいかない。これだけ手をかけて改良した農地なのに。
    すべてわかる。よくわかる。しかしそんな愛郷心が子供たちの未来の生活に影を及ぼすとすれば・・・。ノマドとなったほうがいいのかも知れない。
    自分が逃げないことを選んだなら少なくとも逃げた人の悪口は言わないほうがいい。日本国憲法は居住の自由を認めているのだから。

    10月7日 被災地の話

    昼、福祉協議会の人が来る。陸前高田、大槌町、南三陸などに支援に行き、涙なしでは効けない話ばかりだったという。
    この春、学校に上がる女の子がランドセルも何も用意してあったのに津波で流された。なかなか見つからず、やっと見つかったのが上がるはずだった小学校の校庭だったとか。おばあさんが一晩中、高校生におぶわれて高台に逃げ命を拾った。だけどヘリコプターで年齢順に救出されるときに離ればなれになり、そのごお礼を言いたくても言えないでいる、とか。

    10月8日 冬へ向う被災地

    秋の一箱古本市と芸工展を観に行く。団子坂のエスプレッソファクトリーから見る団子坂はいい。道灌山から見る動坂方面もいい。

    被災地はだんだん寒くなってきている。石巻の避難所はようやく閉鎖になったようだ。
    いわきでは仮設住宅には日赤から五点セットも配られたし、炬燵やストーブの配布があるが、一般の斡旋住宅に入った人にはない。これも格差だと思うが、光源寺からは毛布、バスタオル、タオル、炬燵、ほっとカーペットなどを集めて送るという連絡があった。

    10月9日 岡本文弥没後15年祭

    NHKの人からイスラムの被災地支援について番組を作るのだが、初期のころの活動の記録がないので、おにぎり握り隊そのほか貸してくれと言ってきた。ウーム、またかと思ったがマザーテープを貸してあげた。今日、せっかく提供いただいたのですが、レポートが短くなったこともあり、使わなかったとメール。ウーム、またか。

    夜は岡本文弥没後15年祭。上野奏楽堂立錐の余地なし。きのうからテープを聴いて準備万端しただけに最近になくちゃんと話せた。秋草のようなオトコと言われたい、と文弥さんはいっていた。あの夏、わたしは男は文弥1人でいいとさえ思いつめた。
    今日、母は昔のボーイフレンドと来てくれた。そのうえ、永六輔さんや朴京南さんも来てくださって、帰りに根津で永さんにご馳走になった。いいんですか、という私に「上を向いて歩こう、がいま売れてますから」と永さんは仰ったが、もちろん私に気を使わせまいというやさしさ。でも、たしかに震災後、この歌を口ずさむことは多いなあ。

    10月10日 イスラムの人々の被災地支援

    午後、東京大学弥生講堂でムスリムの方たちの被災地支援のシンポジウム。20分の話を頼まれたのに全部で5時間。行ってみてわかった。
    途中、ティーブレイクがあり、ゆっくり話し合う。名刺交換や写真撮影、なかにはお祈りをする人も。それに決められた時間より長く話す人がいる。質問したいひとが多い。それで長くなる。あんまりカメラのフラッシュが炊かれすぎで目が痛くなった。池袋のパキスタン料理店で打ち上げ。

    エジプト国籍のロンドン在住の先生が話すが、日本人とまったく違う断定的な力強い話であった。日本人は遠慮の塊だ。控えめ、謙虚、断定を避ける、どっちがいい悪いではないが、いろいろ考えるところがあった。

    男女席が別別なのでイスラム圏の人と結婚した日本人女性などに話を聞いた。ムスリムは豚を食べないのはどうして?「それは神様が決めたことで理由はありません」。
    お酒があきらめられないからなあ。「天国では大変おいしいお酒の川が流れています。そのときにのめばいいのです」。
    それでも煙草は吸いますね。「本当は煙草もいけないんです」。
    何時も女性は長袖で頭にも被っています。「顔と手先しか見せてはいけないのです」。暑くありませんか。蒸れませんか。「なれればこんなものかと思います」。
    いつも男女別に坐るんですか。「そうです」。
    男性同士は抱き合ったりしますが、女性はあれはできないんでしょうね「そんなことをしたら大変です」。
    イスラム圏の男のひと何か問題は?「時間にルーズということかしら。のんびりしています」。
    いろいろわかった。「森さんはなぜムスリムになりませんか?」まだ知り合ったばかりで誤解を解いている段階です。

    10月11日 神楽坂

    夜、神楽坂で来年、三遊亭円朝の長い作品全段に取り組むという古今亭志ん輔師匠夫妻と平野甲賀・公子夫妻といろいろ話す。なんとも楽しい夜だった。

    10月12日 神戸へ行く

    神戸へ。
    宝塚近くのフルーツ・フラワーパークへ行く。神戸市がつくったハウステンボスのまがい物みたいな施設だが、ホテルのバイキングときたら前代未聞のまずさだった。サービスもひどい。庶民がやっている店の悪口は営業妨害になるので書かないが、税金を使ってこんな食事を出しているところは見たことがない。1時すぎにいったらほとんど何もなし。げっぷがでるような揚げ物が多い。これで神戸市の文化度を測られるとしたら、私が市民なら憤死しちゃうな。バブルの遺産でいまやお荷物なのであろう。

    夕方、絵描きの友だち太田さんと涌井さんと元町の庶民的なカレーライス屋さんに行って口直し。なんだかどっとつかれた。

    10月13日 大安亭商店街

    神戸市のコミスタとか言うところで生涯学習の講演。行ってみると体育館に300人もの方が見えていた。与謝野晶子とシベリア鉄道について話す。

    近くに大安亭商店街といういい感じの通りがある。元になった大安亭という劇場はもうないのだそうな。神戸でも震災にならなかったところはあるんだな。こんな所にすんでみたい。なでしこジャパンの合宿所がちかく選手たちはここで買物をしていたそうだ。

    隣りが賀川豊彦の記念館。徳島でも記念館を見たがずいぶん前。神戸で成人し、大正の震災で東京の中之条、大平あたりで被災者支援や貧民街の改良に取り組んだ。こんなえらい人とは知らなかった。

    10月14日 福島県産の米

    世田谷の放射線量の異常に高いところが見つかったのは、福島原発のせいでなく、そこの屋敷になぜか古い放射性物質があったかららしい。人騒がせな。でもこまめに計ったらこんな場所がたくさんあるのかも知れぬ。こわいねえ。

    福島県知事はきのう県内すべての米は基準値以下だったと胸を張ったが、1キロあたり500ベクレル以下などという大雑把で高い基準をクリアしたからって食べる気にはならぬ。数字を公表すべきだろう。

    うちは丸森の森ガーデンから新米を送ってもらった。セシウムだけでなく、残留農薬はじめ細かい項目が2ページに渡って調査済みであってすべてND(不検出、検出限界値以下)。これでこそ安心して食べられるというものだ。この米、じつにうまい。母、妹、弟のところにも5キロずつ分けた。そしたら山形の長井の菅野さんもお米を送ってくださるというので、嬉しく、こちらは玄米でいただくことに。3人で一日二合ずつ焚くと、だいたい二週間で5キロはなくなるのだ。

    秋深し隣りの米はどこの米

    森まゆみ(2011年10月14日)


    ●震災日録9月27日〜10月5日 森まゆみ

    9月27日 真壁の話

    サントリー地域文化賞の授賞式に行った。今年は「森は海の恋人」の畠山重篤さんや茨城真壁「伝統ともてなしの町づくり」、そして特別賞に陸前高田の「全国太鼓フェスティバル」、福島県川俣町のフォルクローレの祭典「コスキン・エン・ハポン」など、被災地の受賞者が元気よく登壇した。

    真壁の宮司さんに「真壁の桜川地区は伝建になっていますが、その周辺でも地震で蔵がたくさん壊されました。壊す前にお祓いを行くので残すように説得するのですが、子孫に負の遺産は残せないとみなさん言います。蔵を壊すのにも何百万もかかるんですが、土壁を直すのには何千万かかってしまう」

    頭の痛い問題だ。国。県、市町村の指定ならそれなりに補助もでるが、登録文化財や文化財になっていないものには一銭も出ない。かといって重要文化財は壊すわけにもいかないので、高齢の年金暮らしの所有者は下手すると一千万くらいのお金を出さざるをえない。

    時代が変わってもうかっている旧家、旦那などというものはすでに東京一極集中、地方の疲弊のなかではいない。また地震で土壁が落ちるのはよくあることだが、昔はどこの町や村にも腕のいい左官や大工がいたのに、いまでは歴史的建造物専門の業者に頼むしかなく大変高くつく。

    石巻の斉藤家にも蔵がたくさんあるが、2004年2008年の地震でも土壁は落ち、それも直せないままに今度の地震である。蔵王の我妻家は、直したばかりのところへ今回の地震がきた。いま直してもこれからまたくるんじゃないの、という所有者も多い。

    焦らないでゆっくり様子を見ながら直したほうがいいのではなかろうか。その場合、高いところに頼むより、自治体で腕のいい左官を1人公務員で雇ってあちこち直したほうがうんと安くつくという意見もある。といううちにもどんどん蔵も民家も壊されて行くのだが、とりあえずあわてて壊さず、ゆっくりようすを眺めよう。そのうち自分の気が変らないとも限らず、町の再生に必要になるかもしれない。

    真岡市は市が持っている登録文化財の物産館を解体したようだが、仙台市役所が荒巻配水所を早々とこわしたのとおなじく愚挙である。自治体が自分の持ち物すら守れないで個人所有の建造物を守ってくださいと言えるだろうか?

    9月28日 宇野千代さん

    宇野千代についてこの間、書いていた。

    「一つのことだけではなく、たくさんのことが隠されたままで、人の眼にふれないのは、神様の御沢である。そうでなくて、どうして私たちのような弱い人間が生きて行かれるか」

    いいねえ、この言葉。いまはこうなっていない。パソコンやインターネットの普及で、私も新刊の今日の売り上げ部数を知らされてがっくりしたり、「あの人スパイシー」などを見れば、人と人の隠すべきつながりがあからさまにわかってしまったりする。宇野千代さんなら男とのラインが10や20じゃたりないね。自分について誰が何をいっているかもわかる。おそろしい時代になったもんだ。見ないことだね。

    9月29日 久しぶりの京都

    午前中の新幹線で京都へ。午後、3時頃はじめて嵯峨野の寂庵へ。『青鞜』について瀬戸内寂聴先生にお話を聞くのだ。徳島の文学館のときもわざわざ来てくださって聴衆に紹介してくださったり、あとでホテル最上階のレストランでご馳走になったりした。

    うちの伯母近藤富枝と女子大の親友で、私の母はむかし瀬戸内さんの計らいで見合いしたこともあるという。「森さんの伯母さんやお母さんを昔から知っていますが、どうも、お母さんの方が美人ね」などと紹介された。これはホントウのこと。

    先生はいまでもお肉がお好きで、レストランでも海の幸ばかり出て来ると、「いつステーキは出るの?」とおっしゃって面白かった。相変らず手は温かく、肩のこらない雰囲気で話してくださり、帰りに素晴らしい京料理の店で御馳走してくださり(鰻のしゃぶしゃぶ、鮎ご飯、おいしかった)とか、最近町中の町屋をくださった方がいて直したから泊まるといいわ、というので、夢のようなかわいい町家にとめていただいた。明日は岩手の天台寺に行かれるという。私なぞがたまに石巻に行ってふうふういっていてはいけないのだ。

    9月30日 エクストリームリー・ローカル

    朝は京都の町を歩いてイノダコーヒーで素晴らしいモーニングを食べた。

    一日空いたので、編集者の方たちと岩倉へ鶴見俊輔先生をお尋ねした。ご体調もあるのでそうそうに失礼したが、短い時間だけど至福のときだった。

    「森さんはきのう、寂聴さんとこに行ったんですね。あの人とドナルド・キーンは7、8日、私のおねえさん、おにいさんだ」「谷根千はエクストリームリー・ローカルでそこが大事なんだ。国家のことなんか知っちゃあいない、巻き込まれない、それでいいんだ」。ほかにも。これらの言葉をひとつひとつ宝物のように抱きしめていこう、とおもったら涙が出てきた。

    帰りに論楽社の虫賀宗博さんのところに寄る。お茶飲んで、中村哲さんのこととか話して心ほどけた。哲さんもお仕事について「これは国際人道支援ではなくて、地域間協力です』と言っておられた。
    もう疲れたので東急インから一番近い飲み屋でご飯を食べようということになり、行ってみたら有名店ではないが直送京野菜を中心としたおいしいつまみがある店で満足。といってもおばんざいではない。真菰の炭焼きとか、野菜のしおいためとか、かぶのサラダとか、美山地鶏のたたきとか、ほるもんの炙り焼きとか。五條烏丸東横インも朝ご飯は無料サービスだし、とってもいい。

    10月1日 龍谷大学

    京都駅で十時半に待ち合わせしたら、神宮寺高橋和尚が「森サーン、見えてるよ」と携帯。京都駅中グランビルホテルのカフェから眺めて居るのだった。いい待ち合わせ方法だな。コーヒーを飲んでから瀬田の龍谷大学に向った。震災後の新しい生き方を探るシンポジウムだったが、私の生き方なんてまったく変わってない。電気のアンペアを下げたくらいか。

    石井光太さんの話は刺激的であった。震災後すぐ新潟経由でガソリンをトランクにのせて走り、自衛隊、消防団、地域住民の遺体捜索を取材した。最初のメディアの要請は「とにかく遺体を撮れ」ということだったらしい。それが国策だか自主規制だかで見せない方向に変わった。テントと食糧、暖房もあって給料も出ている自衛隊員と、家を流され何もないなかで家族や親戚を捜す被災者である消防団員のすこしずつ開いていく溝。今月、新潮社から『遺体』という本が出るそうだ。しかしこれで取材は終わりで、次ぎのテーマにかかるというノンフィクション作家の石井さんと、後衛であって「細く長い支援」を続けようとする私のあいだにも溝はある。

    この日、先斗町の三福に泊まり、久濶を叙す。若女将のきれいな京都弁に幸せになる。
    鴨川が見渡せ、静かで、親切。片泊まりの宿だがリーズナブルだ。入り口にはご主人が腕を振るう小さな割烹もあり、夕食はこちらで。今年二回めの松茸。おすすめ。

    10月2日 コミセン

    京都で3泊もするなどという贅沢は久しくないこと。朝帰りなので錦市場にいって「えい、親孝行だ」と母の好きな千枚漬け、麩田楽、くみ上げ湯葉、ちりめん山椒、ハモ、アナゴ焼き、ササがレイ、黒豆などいい気になって買っていたらあっという間に一万を超えた。錦は生活市場というより、観光地だ。

    夜、谷中コミュニティセンターの建て替えに関して、あしたの準備。「町会の人たちを中心に10年かけて話し合ってきたのに」という声があるというが、3・11の被災地現場はそれまでの防災対策だけではちゃんと機能しないことがわかった。またいざとなれば行政区など関係なく避難民は動くことも。しかも谷中防災コミセンは谷中の、ではなくいざとなったら区役所バックアップ機能も果たさなければならないというのに、ここで見なおさなくてどうするのか。いざとなれば町会長はじめ高齢者を背負って逃げようという世代が一生懸命、知恵を出し合っているのに、不信をあおり、溝を広げようとするマッチポンプみたいな人も例によっている。今回,広域的、専門的見地からみなで協力しようと言うので、私は長らく区界の地域づくりにかかわった経験から、初めて地域活動をする人たちをカバーし、紹介しようと参加したのだが、なるほど出る釘はうたれるねえ。うたれてもかまわないや。

    10月3日 岸田今日子のクレオパトラ

    朝、台東区役所へ。6月に陳情が採択されたとき、谷中の住民2人とともに文京区側の代表として名前を出した。だからその後4回の意見交換、学習、ワークショップをした結果を報告書にまとめ、提出するまでは責任があった。しかし谷中では他の人の名前を知らないので、主として私がやっているということになっているらしい。これは事実ではなく、汗をかいてがんばっている方々に申しわけなく、そろそろ引っ込むことにする。

    これだけ原発の悲惨さが明らかでも容認派の知事や町長が選挙で勝つというのも、地域活動をやってみるとよくわかる。ホント、長いものにまかれろの世界なのね。挨拶が足りない、根回ししろ、下積みから汗をかけ、おかげさまで生きております。

    午後、町並みコンクールの会合。夜、埼玉芸術劇場に『アントニーとクレオパトラ』を観に行く。衣装が素晴らしく、演出も舞台美術もよかった。しかしクレオパトラ役の女優がただ驕慢なだけで、こんなはすっぱな女のために国を傾ける必要はあるかと思われた。40年ほど前に見た岸田今日子のクレオパトラとは色気も優雅さも教養も比べ物にならない。まあ吉田鋼太郎と池内博之を観に行ったようなものだけど。ううむ。

    シェクスピアの劇ではオクタヴィアヌスのことをシーザーといッているのでややこしい。シーザーはクレオパトラとのあいだに子どももいてアントニウスより先に死んでいるはず。久しぶりに帝王切開やクレオパトラの鼻やナイル川やルビコン川のことを考えなんだか旅に出たくなった。

    10月4日

    東洋文庫に話を聞きにいく。三菱各社が醵金して守ってきた文庫をもっと一般に公開したいというので10月20日オープン。近くにこんな素晴らしいミュージアムができたことを喜びたい。展示は大変わかりやすく、工夫が凝らされている。小岩井牧場のレストランも入るそうな。

    夕方、追分の呑喜に。ロートルとしてはフルコースや食べ放題より、ここのカウンターでお皿にひとつづつがんも、とかしらたきとか、玉子とか、里芋とかのせてぬる燗でちびりちびりがしみじみうれしい。
    今日もご主人から色紙の由来をいろいろ聞かせてもらった。岸信介、前尾繁三郎の色紙もあった。塩谷温のも。戦前は由比ケ浜で夏の間おでん屋を開いていたこともあるとか、追分のその先に貧乏長屋があって『金色夜叉』の金貸しがいたとか。木下順二さん、宇野重吉さん、山本安英さんなどの思い出とか。でも私の記憶力は高村智恵子ではないが「もうじきだめになる」

    10月5日 作文

    朝6時からこどもたちの水に関する作文を読む。『ざぶん賞』。
    小学生の方がずっといい。中学生になるとどうしてこんなに優等生になり、選者に媚びるような文を書くのかなあ。学校教育はおそろしい。なんでも摺り込んで、自分の頭で考えず、メディアがいうことを鵜呑みしてスルーする。うちの息子が時々はっとする意見を言うのは中学と高校にほとんど行っていないからじゃないかと思う。おそろしく生意気だけど。原子力の安全教育というのも摺り込みの最たるものであった。やはり大震災で被災した子どもの作文は迫力がある。このなかからこの国を支えるニンゲンがうまれてほしい。

    このところ林芙美子『浮雲』を再読していたらベトナムのダラットに行きたくなった。それにしても富岡とゆき子はだめ人間の腐れ縁。読んでいるとじれったい。タイピストの堅気の女が戦後はすぐオンリーさんになったりして。それにしてもゆき子が22、3で、富岡の母が50代の老婦人とは。57歳の私は成熟が足りないような気がしてきたのだった。

    中沢新一さんたちが緑の党を立ち上げるという。潮時だね。

    森まゆみ(2011年10月6日)


    ●震災日録9月21日〜25日 森まゆみ

    9月21日 八ッ場ダム

    娘のサトコは原発のほか、前から普天間基地と八っ場ダムに関心をもって通っているが、震災以降、どの集会で八っ場ダムについてビラを配っても受け取りが悪いという。しかしダムと原発はほとん同じ構造どなのである。ダムをつくる主体は国土交通省関東地方整備局。そしていま、八っ場ダムは原発のどさくさに乗じて強行されようとしている。

    1.原発と同じく、大きいことはイイコトだ的高度成長期の巨大土木工事による事業である。
    2.原発と同じく、国策により関連企業にたくさんの役人が天下っている。
    3.原発と同じく、公共工事の名の下で利権が発生しているという噂。
    4.原発と同じく、地元住民に金や温泉旅行を含めたアメがばらまかれているという噂。しかも地元はダムで利益誘導され、ダムがないと生きていけないような気持ちにならされている。そうでなければ地元にダムなんか必要なわけがない。
    5.原発と同じく、賛成派、反対派に分かれ地域を分断し、コミュニティがずたずたになった。
    6.文化財をしずめ、景観をこわし、フェイクばかり作ることになる。
    7.あまりに長い間の計画で住民の人生をめちゃくちゃにした。
    8.自然をねじ伏せ、改変しようと言うニンゲンの傲慢な計画
    9.原発と同じく、推進側は「公開によッてさまざまな憶測を招く」と情報を出さず、説明会もしゃんしゃん大会。
    10.国土庁の水量予測もまったくいいかげん。
    11.今まで相当使ったからあとは作ってしまったほうが安くつくという環境や暮らしを無視した経済重視の考え方。
    12.原発と同じく、ダムにも絶対安全はない。台風12号ではダムが溢れたではないか。
    13.原発と同じく、コンクリ構造物、老朽化、劣化や沈殿、堆積でそのうち使えなくなったらたいへんな瓦礫処理が必要。つくるのも大変、壊すのも大変。
    14.福島第一が東京の人が使う電気をつくるためなら、八っ場ダムは東京、埼玉の水の確保と洪水調節のため、つくられる。しかしこれは口実で、電力が余っているのと同じく、首都圏の水は余っている。洪水調節はまったくならないとは言えないが限定的でごくわずか。

    民主党政権になり前原国土交通相は「八っ場ダム中止」といった。なのに1年後、馬淵国土交通相は「予断なき検証」つまり、やらないともやるとも決めずに検証するよ、といった。しかし検証したのは「原子力ムラ」ならぬ国土交通省の「河川・電力ムラ」や立地自治体、下流県知事など推進側の人たちだった。こんなアンファなのあるか? 反対派の意見は聞かなかった。

    現在、巨大より分散、天下り批判、情報隠しがいわれ、自然に逆らわない謙虚な暮らしを目指そうと社会を転換しているときに、前世紀の遺物、いや自然にとっては異物であるダムを今さらつくるのはバッカじゃなかろうか。

    9月22日 再度・食品の安全性について

    『土と健康』2011年8・9月号にチェルノブイリ救援に当たられている川田昌東さんの有用な話が載っていました。

    チェルノブイリから学んだことは、原発事故による病気はほとんどが内部被曝によるもの。しかも多いのはがんでなく、心臓病、脳血管病、糖尿病、先天異常、免疫力の低下などである。しかしICRPは因果関係を認めていない。
    日本の暫定基準は水について、セシウムでウクライナ基準の100倍、主食で25倍、野菜で12倍と高すぎるうえ、品目も細かくない。
    米については土壌が5000ベクレル以下ならいいとされている。その10%が米に移るという想定だろうが、そんなには移らない。しかし表皮に多くたまるので玄米はだめ。精白して白米にする。玄米を食べたい人は産地を選ぶしかない。
    野菜は生産物を測る結果主義。しかしすべてを測れるわけではない。セシウムがたまりにくい野菜はトマト、なす、胡瓜、カボチャ、ねぎ。汚染されやすいのはカラシナ、クレソン、キャベツ、大根、ジャガイモ、豆、きのこ。カリウムなどによる土壌改良を。
    酢漬けにするとセシウムはかなり取れる。
    肉も500ベクレル以下は出回っていると考えてよい。牛乳はプルシャンブルーによる除染が有効。

    本郷の「大きなかぶ」の内海洋子さんが教えてくれました。たいへん役に立つので一読を勧めます。

    9月23日

    安野光雅さんの神奈川近代文学館の「アンデルセンと旅して」をみにいく。私が『即興詩人のイタリア』を書くために安野画伯と同行したときにとった写真などもたくさん提供した。私がローマで発見したバルベリーニ広場の石版画も提供した。ということで、帰りは中華街でご飯を食べて楽しかった。東京にもおいしいお店は多いのに、中華街にいるというだけでわくわくする。ピータンとザーサイを買って、京浜東北線にゆられて帰った。

    9月24日

    朝、小金井の武蔵国分寺公園で友人の寄田君が馬車を走らすというので観に行く。物すごい人気で町中をはしるコースは完売、カフェスローの吉岡さんが「森さんは馭者席の横がいいよ、タイヤの上に乗れば、馬への負担も軽いから」というので寄田君の隣り、特等席にのせてもらった。親子つれ本当に楽しそう。途中から、歩きでなくトロットになるところが興奮した。
    寄田君はシルクハットにえんび服。吉岡さんはチョッキにカウボーイハット、二人とも決めてました。
    寄田君は書いています。お母さんと一緒でなくお父さんと一緒に馬車に乗った子どもが悲しそうに泣きはじめた。

    まぁとにかく、僕は歌います。
    「お・う・ま・の・おやこ・は・なかよし・こよし」
    僕の大好きな歌です。
    この歌は、馬のリズムにしっかりあいます。
    そして多くの人がこの歌を知っています。

    ゆっくりとしたリズムで、僕が歌い始めたとき、馬車に乗っている大人と呼ばれる人々と合唱が始まりました。
    「いつでも・いっしょに・ぽっくりぽっくり・あるく」
    そのまま2回目のお馬の親子が始まります。
    「おうまの・おやこは・なかよしこよし・いつでもいっしょに・ぽっくりぽっくりあるく・・・」
    この合唱のあいだ、子どもは泣いていました。
    ところが、合唱が終わるとき、子どもは泣き止み、とても静かな深い呼吸をして、まわりの世界の中に落ち着きました。悲しみが消え、喜びが生まれた瞬間でもあります

    馬ッてすごいなあ、と私も思いました。ポニー乗馬も小森さんが乗せていましたが、乗るときは不安そうだった子どもが、乗るとみんな、明るい、輝かしい笑顔を見せるのです。
    ああ、谷根千でも馬車を走らせられないかなあ。

    9月25日 丸森

    きのうのうちに丸森へ来て、なつかしい佐藤岩雄さんや緑山の菊地しのぶさん、ひろしさんと会った。今回は放射線値の話に終始した。やはりいま丸森の方たちが悩んでいるのはその問題で避けて通れない。
    役場前のコンクリートの上で測ると0.14(マイクロシーベルト/時)。これは東京団子坂下で友人杉田望さんがはかっているのと大差ない。しかしある中学校では0.66、ある児童館では0.53、ある地域センターでは1.07といった数字も出ている。
    最後の数字に24時間×30日(ひと月)×12(ヶ月)かけると、この数値のまま戸外にずっといるとすれば、外部被曝だけで年間9ミリシーベルトくらいになる(法令による被曝限度は年間1ミリシーベルト)。みんなほとほと困っているらしい。

    「牛の糞なども堆肥にしかね、おいてはあるがどう処分していいかわからない」「牧草からセシウムが出たので、外国産の草をわざわざ買って与えているが、自分のところの牧草はまいておいておくしかない」「校庭の除染をしてもその土は集めて青いシートをかけておくしかない」「東京電力本社へ持っていけ、なんて言っているひともいる」

    処分に困っているのは使用済み核燃料だけではない。「日本はおわりですよ」
    そう思いたくないけれど、東北へ行くとサルトルではないが出口なし、という感じがする。

    9月26日 ロンゲラップ

    急に秋です。冷えて夜中に毛布をかけました。そろそろ衣替えもせねば。部屋を整理していたら石川逸子さんからいただいた『ロンゲラップの海』の美しい小冊子が出てきました。

    ビキニから180キロ離れた
    ロンゲラップに
    さらさら 雪のように降りつづけた
    白い粉
    死の粉ともしらず その粉を競って集め
    無心に あそんでいた 子どもたち

    退去命令は58時間後だった
    おれたちは人間モルモットにされていたのだ
    いや 3年後
    「安全宣言」されての帰還も
    その一環だったとは!

    ようやく故郷の島にもどって
    はしゃぎ 踊った ひとびとの姿が
    昨日のことのように甦る
    「なんといってもおれらのヤシガニは最高さ」

    あのとき ようやく
    先祖伝来の暮らしにもどれた! と安堵した
    まさか 魚も ヤシの実も
    死の魚 死の実に変わっていようとは!

    体内にとりこんだ放射能によって
    ひとびとは やがて つぎつぎ 死んでいった
    老人の息子 レコジも
    ジョージも 妻のミチュワも 死んでいった

    1985年 ついに ひとびとは
    ロンゲラップを脱出する
    先祖伝来の暮らしを捨て 墓を捨て
    思い出を捨てて

    まるでサーガのような長い詩です。少しだけ引用させていただきました。これと同じことがいま日本でも起こりつつあるのではないでしょうか。

    森まゆみ(2011年9月26日)


    ●震災日録9月14日〜20日 森まゆみ

    9月14日 神宮寺の高橋和尚

    書き残したこと。松本神宮寺の高橋卓史和尚が「記憶の蔵」へ遊びに来た。

    「チェルノブイリ救援で40回近くいった。飯館村は215万ベクレルでチェルノブイリの避難区域の4倍でていた。福島は子どもの集団避難をさせたほうがいいと思う。

    3月14日に南相馬に入って鎌田医師とともに病院を開いた。
    伝手がないとか何とか言っていないで、どんどん入っていって伝手は作るものだ。
    坊さんが傾聴ボランティアとか言っているが、坊さんほど人の話を聞かないのはいないからな。

    三月下旬に、檀家や知り合いの協力で石巻の入釜谷に2メーター4メーターの大きな風呂を作った。そこに小さな診療所も作って時々行っている。

    僕らは気分はどうですか、大丈夫ですかと聞くけど、元長崎大山下氏たちの調査はそのときどこにいましたか、何歳ですか、爆発の時はどんなところにいましたか、といった疫学調査だ。つまり患者のためでなく研究者の業績のため被検者にしているということではないかな。南相馬も疫学調査の草狩り場になっている。(山下氏は福島医大副学長の就任挨拶でこれからは福島医大が被曝研究の先端になると言ったとか)」

    ◎黒沢明『生き物の記録』1955年

    同じ日、夜、蔵で黒澤明『生き物の記録』を見る。

    品川辺りの鋳物工場、中島喜一(35歳の三船敏郎が腰の曲がった70歳を怪演)という社長はビキニ水爆実験に恐怖を抱き、一家を上げてブラジルに移住すると宣言する。「死ぬのは構わんが殺されるのはいやだ」
    妾とその子を含めて14人もいる家族は反対、「工場の中で生まれてこれでじゅうぶん幸せなんです」、喜一を禁治産者にする申し立てを家裁に行う。調停員の歯科医原田(志村喬かっこいい。30年ころの歯医者の治療室も懐かしい)は自分の出した調停に疑問を持つが、中島工場は焼け、火をつけたと言う喜一は精神病院に送られる。
    原田が見舞いにいくと、他の宇宙に脱出したと思っている喜一は太陽を見て「地球が燃えている」と叫ぶ。

    公開時、まったく不入りだったというが、いま切実な環境で見るとすごい!!!

    「死ぬのは構わんが殺されるのはいやだ」そう叫びたい。余裕があるからブラジルへ行けるんでしょう、ここでじゅうぶん幸せなんです、私ら工員の生活はどうなるのか」

    みんなどこかで聞いたようなセリフ。なんという先見性。
    ほかに中村伸郎、千秋実、左ト全、東野英次郎等オールスターキャスト。

    ◎亀井文夫「世界は恐怖する─死の灰の正体」1957年

    『上海』『流血の記録砂川』『戦ふ兵隊』『小林一茶』の監督亀井文夫が、ビキニ水爆実験後の世界は原子力でどう変わるのか、ネズミへの実験、遺伝子への影響、死の灰がふってどんな計測値が出たか、さまざまな研究者と協力して作った映像。
    原爆後に生まれた赤ん坊のホルマリン漬け、ネズミにストロンチウムを投与する映像のすぐあとに赤ん坊に授乳するシーンを繋ぐなど、衝撃的モンタージュ。
    ビキニ水爆時はまだゲンパツはなく、日本は被害国だった。いまは原発推進勢力も多くいる加害国であるとはいえ、このような映画を作る主体はどこにいるのか。
    タイトルロールにはこのときは東京大学教授の名が協力者に並んでいる。原子力ムラが形成される前。そしてビキニ水爆実験のときは、わが親たちだっていまよりもっと子どもへの放射能の影響に敏感だったと思う。

    9月16日 丸森の農作物を売る。

    宮城県応援フェアを上野駅でするといったのですが、行ってみると半分は丸森産品。蜂蜜やタケノコの水煮。桃、なし、イチジクがよく売れる。
    広い改札から出てくる出て来る、その人たちを受けとめて「宮城の復興にお力をお貸しくださーい」「宮城の野菜を買って被災地を応援しましょう」と言ってみたり、「らっしゃいらしゃい!」「今朝取り立てのネギ一本60円!」と言ってみたり。後者の方が気分がいいし、売れるみたいだった。
    『大変だったわねえ』『応援してるわよ」という人もあり。放射性物質に触れた人一人。そのときはNDの話しをする。ところでNDとはなにか?だれかno data だなんて言ってたがこれはまちがい。non delivery(不着)。お米も検査済、ND.

    夕方、谷中コミュニティセンターでこれを建てるときにかかわった建築家永橋さんに話を聞く。使う人の思いを形にするのが設計者。本当だと思う。

    9月17日〜19日 海を眺めて

    編集者の友人たちと千葉の家へ。太平洋を見下ろす崖の上で風に吹かれて宴会。なんだか話さなくても満足な感じ。草むしりをしにきたみたいであったが。しごとははかどる。

    竹富島で聞いた話を起こしていると、矢も盾もなくいますぐ竹富に行きたくなる。
    夕方になったら海にいって、泳いだり、魚を捕まえたりして、台風が来たら家でヤギをつぶしてみんなで泡盛を飲んで、歌ったり踊ったりして。想像を絶する苦難の暮らしはあったはずだが、いまは適度にスローないいしまだ。

    9月20日 生活する店

    上野の美術館に用があっていって、雨の中、自転車で帰ってきた。
    どんどん飲食店とギャラリーが増えている。つまり観光客のための店が増えている。ボタンや、おもちゃや、毛糸や、自転車や、炭や、米や、銭湯、住むための暮らすための店はどんどんなくなっていく。もう町が自分の町ではなくなりつつあるのに気づく。そう考えながら靴下の穴をつくろった。

    アーサー・ビナードさんのラジオでの発言が面白い。
    鉢呂大臣辞任について。「死の灰がふった町を死の町というのは気持ちいい表現ではないが間違ってはいない」「使用済み核燃料というのは不正確でこれから核兵器をつくる原料、これからだぞ死の灰、である」「放射能うつしてやるというというの誰が見たんだ!そんなマゴ引きのひ孫引きのヤシャゴ引きで大臣が辞任する何てあり得る?」
    『ソコトコ』9月15日放送分〈アーサー・ビナード氏の1〉(http://www.youtube.com/watch?v=gkEzjq3x2og)

    さすが詩人。前に商店街について対談したときにアーサーさんに八っ場ダムについて話したら、私が司会する東京大学でのシンポジウムに来てくれた。それからもずっとこのダムについて発言してくれている。

    「なぜこのタイミングなのか。狙っていたに違いない。震災と原発事故のどさくさまぎれでつくっちゃおう。グッドタイミング。原発がだめなら水力とか。マエハラはなにも言う資格がないが、言っていることは間違ってない。こんな大昔の、利権をめぐって計画した不必要な有害で時代遅れなダムなのに。検証とは永田町では『アリバイつくりの茶番劇』のことを言うらしい。建設ありきの評価報告案を間違った想定に基づいてやっている」
    『ソコトコ』9月15日放送分〈アーサー・ビナード氏の3〉(http://www.youtube.com/watch?v=IBK7bcB_424)

    まっとうな意見だと思う。みなさん、東電だけでなく国土交通省も監視してください。
    ほとんど同じ体質、おなじやりかただから。

    森まゆみ(2011年9月21日)


    ●震災日録9月14日、15日 森まゆみ

    9月14日 さよならマクブールさん

    びっくり。東京電力8月分の請求が5316円、9月分は6114円。去年の半分だ。
    夏の2ヶ月は軽く1万円超えていた。クーラーは寝る前の10分くらい、電気を消す、これでこんなに違うのか。反省。
    基本アンペアを60から40に落としたこともあるだろう。これでも高いとヤマサキなどはいうだろう。

    鉢呂大臣の項で「マスゴミ」などと書いたのは不適切でした。真実を追究するために日夜走り回っているジャーナリストと区別するために使ったつもりですが。そういう記者もたくさん知っています。そうでない記者も沢山見てきました。
    それにしても相撲の改革のための委員を引受けていたとき、警察が入ることを当の親方に事前に通報したNHKの記者がいました。これではジャーナリストではなくまったく取材対象のスパイみたいなものです。

    それはともかく。いわきで炊き出しをご一緒した料理人のマクブールさんが、バングラディッシュに帰国しました。ご本人は日本で仕事を続けたかったようですが、就職難で、本国には小さなお子さんもいるということでまあよかったかな。
    いわき市の避難所で出す100食を超える温かい食事を、2週間以上もほとんどひとりで作りつづけてくださったマクブールさんのことを考えると申しわけなくも思うのですが。ご多幸を祈ります。歓送会をもよおし、本駒込の池本さんが音頭をとって数万円のカンパをお渡しすることができました。

    9月15日 宮城県産直フェア 上野駅にて

    なつかしい丸森でお世話になった八島哲郎さんからメールです。

    「さて、今週上野駅で開催される、宮城産直市に出店します。
    JR東日本グループ主催の「地域再発見プロジェクト」の一環です。

    日時 9月15日木曜日〜17日土曜日
       午前11時〜午後8時 最終日のみ午後5時まで
    場所 上野駅中央改札前 グランドコンコース
       中央改札の真っ正面です。

    宮城の観光や物産を宣伝してきます。
    新鮮野菜、桃、梨、リンゴ等の果物、社会福祉法人はらから福祉会のかりんとう、牛タンカレー、油麩丼。マルコー食品の米麺、う米米(うまいまい)麺等等、石塚養蜂園の純粋はちみつや蔵王のハーブも売れ行き絶好調間違いないでしょう。

    うちのたけのこカレーやたけのこごはんの素も売れるといいなぁ。
    とにかく、宮城県の物産を胸を張って販売してきます」

    丸森町は独自に東北大学に依頼して農作物の放射線値を計り、ホームページで公表しています。ND(不検出)か世界で一番厳しいウクライナ値に照らしてもごく微量です。
    丸森町災害対策本部および丸森町からのお知らせ(http://www.town.marumori.miyagi.jp/notice/shinsai/genpatsu-index.htm)
    町議会で高価な放射能測定器を買うことも決めました。

    八島さんからまたまたメール「ブログも拝見しました。私も同感です。まずは実測、そしてウクライナ基準を持って販売が消費者と生産者の双方に良いと思います」

    今回はJRのイベントのため、表記はできないそうですが、気になる方は、放射線量についてははっきり聞けば、各農作物についてちゃんと答えるそうです。
    まあカタログハウスの店にいく客と上野駅を通る客ではタイプが違うだろうから、「ヨウ素・セシウム不検出」などと大書したらかえってひいてしまうかもなあ。
    被災地の農家が生きていけるように、やる気をなくさないように、応援というか一緒にたたかっていきたいです。上野駅を通る方はのぞいてくれれば嬉しいです。

    森まゆみ(2011年9月15日)


    ●震災日録9月12日、13日 森まゆみ

    9月12日 鉢呂退任

    毎日ブログを書くのにこんなに時間を使っていていいのだろうか?
    今年はまだ一冊しか本が出ない。文庫は3冊でて、いま4冊目が進行中。それでどうにか暮らしている。そうだ、作品としては映像で見る谷根千にアップした小さな映像作品を10個ぐらい作りました。

    毎日考えることがいろいろある。原田病患者としては、せっかく適度な明るさになった地下鉄やオフィスが電力制限解除でまたまぶしくなるのではと憂うつ。電燈をつけるのでなくエレベーターの方を先に動かしてほしい。うちのアパートのエントランスにしてもあんなぴかぴかさせる必要があるのか。
    ことし、クーラーも図書館や三田線は効いてない。かと思うと寒すぎるほど効いている喫茶店やタクシーもある。運転手さんにきくと「私はこんなに寒いのはつらいけど暑い外から入ってくるお客さんは気持ちいいというんです」「日陰むきはいいけど、太陽に向って走るときはボンネットの中は地獄みたいにあつい。お尻の下はびっしょりです」

    わたしは夜、外に出るときも遮光レンズのサングラスをかけるようになった。なんだかヘッドライトがまぶしくて、というと運転手さん、「そうなんです。LED電燈にすると青白いつよい光りが眼を射るんです」という。LEDは長持ちして電力をくわないというのでもてはやされているが、電磁波の問題、眼に対する影響は調べられているのだろうか。そのうち日本人はみんな白内障や緑内障にならないか。

    鉢呂大臣の話、ますますマスゴミがはめた話らしくなってきた。

    鉢呂経産相辞任 記者クラブに言葉狩りされて(http://news.livedoor.com/article/detail/5852621)

    無念の経産相、辞任 河野太郎ブログより(http://www.taro.org/2011/09/post-1083.php)

    『死の町』発言は正確にはこのとおり。

    鉢呂経産相発言の詳細

    これで辞任する必要はあるのか?死の町にした東電幹部も辞めないのに?

    福島瑞穂さんのツイートに寄れば、
    @mizuhofukushima: 経済産業省の審議会は、今まで原発について賛成の人が圧倒的に多かったが、鉢呂さんは原発を危険と考える人を半数は入れろとつい最近、指示をだしたばかり。

    記者クラブの記者の品のなさはこのとおり。

    鉢呂経済産業大臣 辞任会見(http://t.co/NAAZkEI)

    9月13日 ふたたび食品問題について

    武田邦彦中部大教授のあおり方は物すごい。テレビで「東北の野菜や牛乳は健康を害するので捨ててもらいたい」。一関市を引き合いに出して「畑には青酸カリが撒かれたようなもの」などと発言。これに反論した勝部一関市長に抗議の集中メールが殺到。その内容は公表されていないのでわからない。

    わが第二のふるさと丸森町は1万5000人の町でもちゃんと町のホームページに農作物や水、大気の放射線量を載せている。これに対し、11万人の都市なのに、一関市は市独自では測定していないらしく、ホームページも見にくい。

    しかしこれをめぐる2チャンネルのかきこみはすさまじい。でもここにもある民衆意識が見られるのである。主な反応。

    安全と言いきるほうがよっぽど怖い*本当のことを言って何が悪い*東北とくくるのはおかしい、静岡まで全滅と言うならわかる*被災地による正論たたきである*本当のこと言っただけじゃないか*市長の気持ちはわかるが事実だから*東日本は農業、漁業、畜産やめてすべて賠償してもらったほうがいい*静岡と岩手じゃ変わらないんじゃない?*同情論で農家を擁護しているやつは自分の子供に東北産を食わせてみろ。*農家の感情は国民の健康より優先されるのか*静岡の茶が飲めないのなら関東だって危ない。

    ほとんどは非科学的、冷静でないあやふやなものの見方のように思われる。
    テレビに出続けで過激な物言いをする武田邦彦氏にも批判は多い。

    産地で判断しない、それぞれの野菜を測定して安全な物だけを売ること。
    危ない野菜を買いたたいて安く市場に流し、それを使った料理を出す外食産業もないとは言えないから、外食にも注意、信頼できる店で食べよう。

    きのうのカタログハウス福島産野菜応援売り場の北沢さんに電話でもう一度いくつかの質問をしてみました。(文責・森)

    ──なんで桃にセシウムが出やすいのですか?

    それはわかりません。出ない桃ももちろんあります。いろんな説があります。梅や桃は産毛にたまるという説もありますが、定かではありません。

    ──プルトニウム、ストロンチウムなどの核種は測らないのですか?

    いまはヨウ素、セシウムに種類だけです。ヨウ素は半減期が8日なので、さすがにいまは出ません。ストロンチウムを測るには何千万もする機械が必要なようです。プルトニウムは重いので遠方や時間がたってからは心配ないという専門家の意見を聞きました。

    ──生産者別にわけてから生産地ごとに測るのはなぜですか?

    生産地ごとの生産者は数が少ないですし、隣接した畑なので生産地ごとに一品目ひとつずつ抜き取りで測ります。それだけでも大変な手間で現地と手分けしています。

    ──海産物はどうでしょうか?

    どこでとれたのがどこで上がるかなど農作物より難しい問題はありますが、前から乾物として取り引きのある三陸のワカメや昆布は取り寄せて測っています。今のところセシウムは出ません。

    ──こういう取り組みをもっと広げて行くことはできないでしょうか?

    いまはモデルケースですので、軌道に乗れば広げて行くこともできます。農協などが視察に見え始めています。ノウハウは独占しようとは思いませんし、いくらでも提供します。とにかく現実を直視して消費者の方々に正確な情報を提供したいと思っています。

    森まゆみ(2011年9月13日)


    ●震災日録9月3日〜11日 森まゆみ

    9月8日 食べるものへの心配

    一日家でしごと。9月になっても暑さ去らず、この夏は本当にクーラーなしで乗り切った。テレビも地デジ化せず見られない。人のうちに行くと見せてもらう。そのくらいでじゅうぶん。

    こんなブログを何人の方がよんでくれているのかわからないが、このおそろしい時代を記録しておくことは意味があるとおもう。しかし自分でもハイになったり,冷静さを欠いたり,断定的になったりしている。正直に書いたことが人を傷つけることもある。丸森で買ってきた野菜をめぐる話は親子の葛藤、食物に関する世代の感じ方の差について書いたつもりだったが、友人からメールが来た。

    自分の第二の故郷、人ごとではないと思っているのだが、地名を書くことで嫌な思いをさせることもある。書き方が不正確でした。
    娘は福島の子どもたちの被曝量を政府が上げたことについてずっと取材していて、わたしより内部被曝についてしっかりしたデータと考えを持っている。私が「一回だけだし」といったのを「毎日食べている」当地のこどもたちのことを心配しろといったのだ。トウモロコシもおいしい、あまいと食べていました。

    9月4日の陸前高田の松の京都でのお焚きあげについても、もっと複雑な事情と意見があるようで、撤回。認識がすすめば前言を訂正することはあり得る。愚かで弱い人間の言としてお許しください。しかし訂正するときはちゃんと断ります。

    東京にいるとどうしても消費者目線になりがちだ。ダイヤモンドの吊り革広告「汚れるコメ」を見て、いやな特集だなあ、と思ったのに。
    きのう仕事できた人は「結婚したばかりでこれから子どももほしいし、外食は避けてます。水もペットボトル、食品は産地を見て買っています」といっていた。その気持ちもわかる。でもこんなことが続くと、生産者と消費者、親と子、情報を持つ人と持たない人、または気にするひととしない人、いろんなところに分断が生まれていく。厳しい中で農業を続けている人があきらめてしまう。それがこわい。

    9月9日 新米を買う

    今日は久しぶりに北里の検診で漢方の薬を貰い、鍼を打ってもらった。そのためか夜、近所の楽しい飲み会に行ったのに、酔いが回って団子坂で倒れそうになった。病人継続中ということも忘れないようにしなくては。

    それこそお米がなくて台所の隅にあった古米を炊いていたのだが、さすがに文句がでて本郷通りのお米屋さんで3キロ買った。その場で精米してくれた。食べたことがないから宮崎の新米。
    やっぱり西の方が売れますか、と聞くと「どこのも安全性は検査済みです。あんまり気にすると食べるものがなくなるよ」とご主人。本当だ。
    次は福島や宮城を試してみよう。石巻からサンマが届いた。これは北海道産だった。三枚におろし、身は刺身にして、骨つきのところは焼いて、大根おろしとすだちで食べる。うまし。

    9月10日 谷中の防災コミュニティセンターは地区住民みんなのものである

    新米はおいしい。いい匂い。このお米、誰が作ってくれたんだろう。野菜を食べてもいつも誰が作ったんだろう,と考えながらいただく。こどもの頃『いただきます」と箸を持って一礼したのは,このことだったんだな。

    夜、谷中コミュニティセンターの建築について,ワークショップあり。
    しかしまだ「谷中のコミュニティセンターのことなのに文京区民が意見を言うのはおかしい」というひともいる。これに反論したい。

    1. 今回の震災を見ても、その場にいた他地区の人が避難するのは当たり前。区界にあるコミセンには、文京区、荒川区、北区,そして谷中への通勤者、通学者、観光客なども一時避難することが考えられる。
    2. それについて23区では、緊急時の避難は相互に受け入れるよう協定がすでにある。
      台東区の区民も行きやすければ(コミセンへの道が塞がれたりすることもある)根津小学校や千駄木小学校でも受け入れます。
    3. 防災コミセンは初音の森防災広場とおなじく、国、都の補助金が使われ、すなわち
      国税、都税をはらっているすべての市民は発言する権利がある。

    ちなみに白山在住の私の避難は、まず小石川植物園が広域避難所、避難生活はわが母校誠之小学校で送ることになるらしい。そこには簡易トイレ、水、食糧、毛布など画備蓄されているという。ちゃんと覚えておかなくては。それぞれ確認しておいたほうがいいよ。

    9月11日 おいしくて安全な野菜を食べてなおかつ福島を応援するためには

    ニューヨークの9・11テロ事件の日。きょうは日比谷公園からデモ。そして経済産業省を人の輪が包囲した。原発推進政策をやめろ、ということである。

    帰って朝刊を取ると鉢呂原発担当大臣辞任。この人は「将来、日本の原発をゼロにすると云った民主党では数少ない脱原発派。いくらおばかな大臣でも「放射能をくっつけてやる」なんていうかなあ。なにか原子力村の力が深部で動いている感じ。

    ヤマサキからもメール来た。
    「軽率だとは思うけど、雑誌ではいくらでも活字になっている「死の町」だと発言したからと大騒ぎしてやめさせるのは、やめさせたほうが都合のいい人の扇動ではないか。
    現実やニュースを追いかけていないわたしには、言う資格なしと思うけど、そんなことでは言えることは皆無になるね」

    「死の町」は許されず「天罰」は許されるのだろうか。
    〈民衆をヒステリーだといいしひと お里が知れる天罰だもの〉

    もう一つ、この間食物について悩んでいることにひとつの光明を見る思いであった。

    デモ解散後、私は新橋駅前カタログハウスの店にいった。ここでは安全な福島の野菜を売っていると聞いた。震災前から福島の研究熱心な農家と米を中心に取り引きがあった。どうにか被災地を応援できないかと考え、福島の集荷センタージェイラップでも出荷野菜のセシウム含有量を生産地単位で抜き取りで測る、生産地が多いために測定できなかったものは新橋の店頭で測るということで、8月26日から「安全な福島の野菜」を売り出した。

    そしてここが凄い。その規制値には日本政府のたとえば1キロあたり500ベクレルといったおおざっぱな暫定規制値でなく、世界で一番厳しいウクライナ規制値を適用する。たとえば野菜はウクライナ値では40ベクレル、果物は出やすいため70ベクレル、主食のパンは20ベクレル,卵は6ベクレル、飲料水は2ベクレル。

    店の方「さいわいひとつも規制値を超える作物は入って来ていません。桃は35ベクレル出ていますが規制値以下。知ってお客さまに判断して買っていただければいい。この規制値ですとふつうに食べ合わせても内部被曝は年間1ミリシーベルトにおさまります」
    この測定機械はいくらですか?「350万円で買いました」。応用光研工業製の「微量放射能測定装置」である。しごと帰りに野菜を買いにくるリピーターも増えた。

    こうすれば私たちは安心して福島の農家を、食べることで応援できる。
    本郷で無農薬野菜や自然食品を長く普及してきた「大きなかぶ」の前主人にデモで会ったが「産地じゃない。同じ県でも地域によって値が違う。生産者によっても違う。とにかく徹底的に測ることです。測定器が高ければ行政に買わせることです」という。

    生産者の方たちもしっかり測って、はっきり表示して、胸を張って出荷してほしいと思います。セシウムの話を避けては通れません。消費者もなんとなくではなく、しっかり表示を見てしっかり判断ししっかり応援しましょう。
    カタログハウスのお店は港区新橋1-11-7新橋センタープレイス、10時から19時まで、水曜休、内幸町から新橋ガードを越えてすぐ左側。お買い物が楽しくて紅花の口紅など買ってしまいました)
    カタログハウスの店・福島産野菜販売(http://www.cataloghouse.co.jp/shop/tokyo/)

    森まゆみ(2011年9月11日)


    ●震災日録9月3日〜7日 森まゆみ

    9月3日 野田侮るべからず

    朝、大相撲場所前の総見に行った。大勢の幕内力士が八百長問題で引退したわけだけど、後を埋める力士は育っているのか?

    その足で野田市での講演会へ。野田はキッコウマン醤油が有名で茂木一族のすばらしい邸宅群などがそのまま残されている。中には市に寄贈され公開されているものもある。興風会館という昭和4年の登録文化財が会場。千秋会館など洋風建築にも見るべきものは多い。駅前は閑散としているのに不思議な町。またゆっくり来たい。

    急いで帰って、映像ドキュメントの研究会に参加。
    ビキニ水爆実験のとき、日本の政府は放射能の影響などについてちゃんとした調査をし、データも出したというのに、今回はなんという不誠実。
    いっぽうビキニのときはこどもたちを放射能から守る活動が行われたとおもう。幼児だったわたしですら『雨の日は面に出ちゃ行けないよ」「牛乳は放射能に汚染されているかも知れないから飲んじゃだめ」と母親にいわれたのを覚えている。
    原爆と水爆実験と原発事故がなかなか結びついていない。
    前の大学の同僚だった前田哲男さんが来てくれた。前田哲男さんは、マーシャル諸島の米核実験被害のルポ『棄民の群島』を著し、今の仲間荒川俊児さんは、『パシフィカ』という月報をだしながら、日本の原発の核廃棄物をマリアナ海溝に投棄することを告発していた。

    9月4日 核汚染物質を県外移転?

    台風12号の爪痕深し。神様、もうそろそろ勘弁してくださいよ。和歌山の息子に電話。無事、でもスゴイ雨だった。

    細野豪志氏が「福島の痛みを日本全体で分かち合う」として、核汚染物質を福島以外に処分場を設けると発言したことについて、冗談じゃないという声しきり。陸前高田の被災木を京都でお焚き上げしなかったというのは行き過ぎだと思うが、これは地域エゴではない。核廃棄物は拡散させてはいけない。普天間基地の問題とは根本的に違うのだ。

    この日、やねせん寄席。落語は1人の素がたり、究極のエコだというのにはナットク。
    であれば出ばやしも生でやってほしいものだ。私の友だちの蓄音機屋さんは手回し蓄音機こそ究極のエコ、買ってくれたひとにエコポイントを出してほしいといっていた。

    帰ってサトコと白山上商店街の盆踊りを観に行く。
    盆踊りとは亡き人を慰めるための踊りなのだから、東京音頭も炭坑節もこんなに明るくリズミカルでマイク音なのはいただけない。生きているひとが楽しむためのものになってしまっている。今年くらいは津波に流された人々をしのんで静かにゆっくりとやってほしかった。しかも西条八十・中山晋平コンビによる東京音頭は、戦争へ向う時代の目くらましになった。ええじゃないか、のようにみんな踊り狂って、何も考えなかった象徴。今と同じだ。

    9月5日 地すべりでできた道

    朝、アーティストのやなぎみわさん、蔵へ。大正のダダイズムなどについてよく調べられていてびっくり。24日に雑司ヶ谷明日館で林芙美子『放浪記』の改造社版を朗読したいので、それを発掘した森さんに挨拶をしてお話もうかがいたいということであった。チャンと筋を通す。大事なことだ。
    最近、谷根千を商標に使う店や医院もあるが、あいさつに来た方はいない。動坂でやねせんうどんなども始まるそうだが当方とは関係ありません。

    地質学者のイトウさんからの「誤解をうんではいけないから」という補足。勝手にブログに載せて失礼しました。

    「自然現象は我々にとって味方にもなれば破壊者にもなります。地震を起こす断層や住居を押しつぶす地辷りというと困ったものだと考えておられる方も多いでしょうが、変動帯に位置する日本列島では、実はそれらのお陰で生活が成り立っていることにも注目しておく必要があるのです。野を越え山を越える直線的な街道は過去の断層運動、つまり地震の結果という例が多いですし、急峻な山地でも生活(住居や畑)ができるのは、地辷りによる緩斜面形成があってこそということがしばしばです。ですから、私達は地震や地辷りをただ憎むのではなく、地球、とりわけ変動帯である日本列島の地質現象をよく調べ、その法則を理解して、上手につきあうことが大切だと思っています。
    この前ご紹介した街道と関連する断層や構造線についてはよく調べられており、不安に陥る必要はないでしょう。ただ、今回の大震災でいやというほど思い知らされたように、自然は計り知れないほど奥深いので、予断をもたず謙虚に研究しなければと肝に銘じています。自然を侮ると、味方はたちどころに私達を押しつぶす破壊者に転じるからです」

    9月6日 重茂の原始共産制

    NHKの漁業の再建を目指す岩手県宮古市重茂の漁協の番組を母と見る。泣けて仕方ない。日本一のわかめ養殖の湾も船は800艘流され、50人の住民も流され、住宅は全壊。そのなかで伊藤隆一業業組合長は立ち上がる。当てにならない政府を当てにせず、中古の船を買い、漁業の共同化を目指す。みんなでわかめ取り、売り上げは公平に参加者で分配。定置網の売り上げは復興に。

    私も三陸の漁業を取材したことがあるが、あわび取り、ウニ取り、いずれも健全な競争が生きていた。重茂でもキャリア、腕に差がある漁師は何となく納得できない。悪平等ではないかと考える人もいる。しかし伊藤さんは災害の後、復興するにはひとり一艘の船を得られるまでは平等分配しかない、前へ行くしかない、とみんなをまとめて引っ張る。みんなもナットク。相互扶助的原始共産制があたたかい。「もう被災者じゃない、復興者とよんでくれ」という誇りに満ちた響き。

    いろいろ試行錯誤のすえ、谷根千でも年齢、キャリア、能力は無関係に、売り上げから経費を除いた残りの千円札をトランプよろしく公平に配ったことを思い出す。それでいいんだ!日本にもまだ惚れられるオトコがいたんだなあ。

    9月7日 不適切テロップ

    東海テレビの不適切テロップに関する陳謝番組を見る。長いわりに退屈。それにしても23秒ッて長い。この間「怪しいお米セシウムさん」が流れていたとは。もともと被災地岩手の米を応援しようという善意から出た企画だったのに。

    さすがに岩手の農業者の声は重い。自分たちもびくびくしながら、しかし生活かかって米を作っているのになんだ!という怒りはもっともだ。
    しかし当事者でもないのに、かさにかかって放送局ばかりを責め立てる視聴者にはあんまり共感できない。くわえて私の考えでは、事前に知っておきながら訂正努力を怠ったタイムキーパーやAD、ダミーを放送したタイムキーパーやよそ見していたディレクターの罪の方が大きいと思うが、下請けの制作者が懲戒免職になっておしまい、という、よくあるとかげのしっぽきリ。しかもこの男性は我が社の社員でもないし、子会社の社員でもありません、という文言の冷たさ。

    なお、だんじて岩手の「ひとめぼれ」のことをさして言うのではないが、政府や県が農作物の安全性についてのしっかりした対応をとらないでいるため、消費者のなかには「お米にセシウムが含まれていないか、今までの農産物に付いての発表は怪しい」という気持ちが醸成されていた。おふざけとはいえ、今回のテロップにはなにがしかの民衆意識の真実は含まれると考える。懲戒免職になるべきなのは下請けのライターでなく、東京電力や政府のなかにいるはずだ。

    東海テレビの社員アンケートを全部公表すべきだ。この会社はドキュメンタリーなどではたくさんの弱いものに寄り添った傑作を作ってきた。『約束』は徳山ダムの住民が行政とした約束を破られる話、『黒と白』は名張ぶどう酒事件は冤罪ではないかという投げかけ、『光と影』は光市母子事件で加害者側の弁護士団の苦闘、ユニークな視点で多くの賞をさらっている。しかしピーカンテレビの二部を見るとどうだ、ほとんどCMとテレビショッピング、そんなのに放送法でいう大事な電波を占有されてたまるかと思う。東海テレビが営利追求、合理化による労働強化でなく、真にジャーナリズムに値する放送局に変身することを望む。

    森まゆみ(2011年9月7日)


    ●震災日録9月2日 森まゆみ

    9月2日 朝日はどうなってんの?

    朝から頭が瞬間湯沸かし器になりました。
    朝日がん大賞に山下俊一さん 被曝医療に貢献(朝日新聞 2011年9月1日)

    朝日新聞が、あの、福島県放射線リスク管理アドバイザー山下俊一氏に「朝日がん征圧大賞」を贈るそうです!
    トンデモ佐藤雄平知事がトンデモなアドバイザーを選んで、元長崎大教授なんていう名前に惑わされちゃいけない、山下氏は当初「100ミリシーベルトまでは妊婦・子どもも大丈夫」といっていた人です。いまは長崎大を休職して福島医大副学長になっています。もちろん福島県民は前から彼の解任署名を5万以上集めていますが(⇒山下俊一氏の解任を求める記者会見)、受賞にかんかん、抗議行動をはじめました。

    【怒!】山下俊一への「朝日がん大賞」を撤回させよう!/杉原浩司(福島原発事故緊急会議/みどりの未来) 
    福島に居座り、日々被ばくによるがんの危険を押し付けている張本人である山下俊一に、「朝日がん大賞」(副賞100万円)が授与されることが決まったそうです。まさにアンビリーバブル!です。まるで、朝日「がんにさせる」大賞です。「被曝させる医療に貢献」したことを称え、権威づける、しかもこのタイミングで。9月11、12日には、山下が仕切る「放射線と健康リスク」に関する「国際専門家会議」が福島で開催されます。

    授賞式は9月2日、いままさに最中だが、今からでも抗議はできる。
    朝日新聞(選考委員には上田俊英科学医療エディター(部長)も。こんなことで朝日の原発関係の記事は信用できるのか?)、日本対ガン協会(事務局は有楽町の朝日マリオン。理事長は武富士リース問題で朝日の社長を引責辞任した箱島信一氏、こういうのッて天下りッていうの?。会長は垣添忠生氏、年上の妻の看取り記はよかったけどな)

    このところ、朝日は有能な記者はつぎつぎやめちゃうし、二世記者が石巻のにせ医者を人の欄で取り上げるわ、どうなっているんだろう。仙台市役所が配水所を壊すときも、朝日は「河北が前に取り上げたから」と動かなかった、と市民運動の人はいっていました。朝日は反体制セレブ化しているのか、もともとエリートの高給とり、被災地の痛みや脱原発をいっても本気かよ、と思うことが多いです。周りでは朝日から東京にかえるひと多し。今回の受賞が読者の信頼を失い、毎日における西山記者事件になって、部数をがた落ちさせるかも知れない。心ある社員、がんばってくれ!

    森まゆみ(2011年9月2日)


    ●震災日録8月27日〜9月1日 森まゆみ

    8月27日 里子をなぜ殺す?

    首相退陣。紳助引退。相撲に暴力団がからんで問題になっていたとき、いつ芸能界に飛び火するのだろうと思っていたが彼1人で終わるわけはない。

    毎日、新聞は虐待の記事が載る。何不自由ない声優がワセダの学位まで取って3歳の里子を虐待死させるとは。わからない。
    「しょせん博士号も里子もアクセサリーにすぎない。アンジェリーナ・ジョリーがたくさんの里子を預かっているので、真似したかったのでは」とYさん。

    三鷹の山本有三記念館に初めて入る。それから西荻窪の駅からすぐのRe;gendoのオープンへ行く。石見銀山群言堂の松場夫妻が古い民家に手を入れて食事の店にした。
    「一人文化庁」と小泉和子先生はおっしゃったそうだが、文化庁は保存しかしないが、これは活用事例だ。中央線沿線に行くときはのぞいてみてください。
    Re;gendo(杉並区松庵3-38-20)http://iwamiginzan.sakura.ne.jp/nishiogi/

    きょうより仙台市水道局配水所壊される。また間に合わなかった。

    8月28日 地質と文学

    伊藤谷生さんより。

    「地質学において巡検(excursion:地質学的に重要な地域や露頭を見学し、参加者で議論する)いうものがあ り、その案内書の一つを今夏も書いたのですが、その際、『即興詩人のイタリア旅行』の地質版を作ろうと思ったものです。旅と地質と文学は大きな関係があります。不勉強な私ですが、いくつか挙げてみましょう。

    泉鏡花『高野聖』:あのルートは跡津川断層という活断層にそった山道です。なんとかという妖艶な美女が住む天生峠には立派な断層露頭があります。今も昔も蛭が多くて大変ですが。
    田宮虎彦『足摺岬』:ここは巨大なかこう岩の貫入場所です。いい教材です。四国や紀伊半島のお札巡りは中央構造線沿いが多いですね。
    北原白秋の『城ヶ島の雨』:彼が桐の花事件で三崎に逃れてきた時、まだ関東大地震の前でしたので、“通り矢”は海峡でした。大震災で三浦半島が相当隆起してしまったのですが、隆起前だったからあの詩が書けたのか も知れません。
    大岡昇平『武蔵野夫人』:恋ヶ窪を含めてハケは国分寺崖線という多摩川の扇状地の南西縁からの湧水。
    金石範『火山島』:これはまさに地質そのものです。
    太宰治の『津軽』にそって歩けば津軽の地質がよくわかりますし、スタインベックの『怒りの葡萄』にあるルート66に沿って車を 走らせれば、北米の地質の概要がつかめます」

    私一人で独占するのはもったいないので、紹介させていただきました。

    夜は光源寺で東北支援復興盆踊り。町会もテントをはっているが、ここが児童遊園でもあり、子育て中のお母さんたちにも場を提供しているためか、すっかり子連れ親子のたまり場になっている。若い世代に支持されているお寺は安泰だと思う。

    8月29日 『悪人』読みました

    津波の怖い夢ばかり見る。

    吉田修一『悪人』という小説を読む。たまたま図書館の棚にあった。泣きはしなかったがずっと心が痛かった。九州の短大を出て博多で保健の外交員をしている若い女性が殺される。彼女はまじめな理髪店の両親をもつのに遊びたくて博多で寮暮らし、出会い系サイトで複数の男と関係していた。一人一人が警察に呼ばれ、語った話で進行して行くが、なんて悲しい暮らしばかりなんだろう。

    かつてみんなが農村や漁村で暮らしていたころは、貧しさ塩漬けではあったが、それなりに祭りもあり、育てるよろこびや獲るよろこびもあり、共同体のあそびもあったし、みんな同じような学歴と職業なのでコンプレックスもなかった。いまや1人で都会に抛りだされ、正規の職業につくこともすくない。秋葉原事件の加藤被告や仮出所後に子どもをさして捕まった氏家被告のことがしきりと憶い出される。

    しかしちょっとステロタイプなんじゃないか? ネタバレになるかも知れないが、この本は何年か前のベストセラーだし、最初に犯人は暗示され、映画化されてもいるからあえて述べる。

    小説で一番の悪役は、金回りもよくモテ系で女の子を引っ掛けては捨てている「由布院の高級旅館の息子の大学生」である。よく知っているから身びいきでいうのではないが、由布院の旅館の息子さんでこんなちゃらい、身勝手なのは見たことがない。旅館のしごとは大変だし、なかなか嫁に来て女将になってくれる人は少ない。老舗であれば重圧もあり、跡を継ぐかも悩んでいる,というのがふつう。
    悪役だが同情を引くのは「母親に捨てられ,祖父母に育てられた、口べたでもてない土木作業員」だろう。しかしこうした描き方は土木作業員への偏見をますのではないか。全国でたくさんの土木作業員が楽しそうに働いていると思うのだが。わが息子も肉体労働なので、外で汗を流すしごとへの偏見がしめされるとつい反応してしまう。スーツ着ての事務しごとよりきついが手応えがあると思う。主人公の労働が一切描かれず、性と遊興の部分だけ拡大されているような。だから救いのない結末になるのだ。

    とはいえ昨日千駄木の中国料理店では、まるで小説に出てくる女の子みたいのが大声で恋愛自慢を長々やっていたし、ウェートレスの中国人女性は何かに怒っているように無愛想だった。別の店の女の子はものすごく悲しそう。みんな何考えているんだろうな。

    8月30日 ドイツの番組

    日本の放送局は何をしているのか。ドイツの放送局の報道が回って来た

    〈おすすめ〉
    ドイツTV記者の細野大臣への質問。福島原発から80km先の福島市水田から3万5000ベクレル高濃度放射性物質が検出された件。大臣のズレた回答に注目。
    ドイツ ZDF-TV記者の質問(http://t.co/3hYddX3)

    通訳された方によれば、細野氏は5000ベクレル以上の土地には作付けを許していないから大丈夫みたいなことを言って、あとで30キロ圏内だったと訂正。つまり80キロだと公式には計測しなくても米でも野菜でも作れる。

    「そのような高濃度に汚染された土で米を作っている農家の思いは気も狂わんばかりだと思います。秋になってから黄金色に実った米を汚染されているから売るな食べるなということはもっと残酷だと思います。放射能は目に見ないし、臭いも色もないので、不正に市場に出回ることを完全に防げるとでも思っているのでしょうか?」と通訳された方からのメールにありました。

    本当だと思います。悔しいながらわが第二の故郷丸森も80キロ圏です。しかし原発からの距離はあまり意味がなく、ホットスポットは栃木にも埼玉にも茨城にも東京にもある。4月時点でわたしは「フクシマ人と自覚してこの事態を引受ける必要がある」、と東京新聞で述べました。うちの方が低い、うちはまだ大丈夫などと一喜一憂している場合ではないということです。

    1.ホットスポットのこどもたちに地場の産物を食べるのはやめてもらわなくては。(地産地消の旗を下ろすのはくやしいが)。
    2.細胞分裂の盛んでなくなった私たちは覚悟して食べても良い。
    3.早急に東京電力に徹底的に農家の補償をさせる。

    8月31日 除染より避難が先

    ドイツのテレビ局はこんな番組も作っています。NHKは3月27日の反原発デモも報道せず、朝のBSニュースでフランスの報道として流していました。また同じことで日本人フリージャーナリストが危険を冒して福島原発に潜入したルポが西ドイツのテレビ局で放映され、それをNHKが紹介する、そんなバカな。ぜひご覧ください。
    福島第一原発労働者の実態を撮影:小原一真(独ZDF)(http://www.youtube.com/watch?v=YNZ3bFUGyq4)

    風評被害とは「根も葉もない噂」であって「根も葉もひどく汚染されている場合」使うべきではないと、通訳の方はいっています。
    外国人ジャーナリストたちは「なぜ誰も刑事被告人にならないのか?」と不思議がっているそうです。私もそう思う。

    28日のNHKのなかではがんばっておられる七澤ディレクターの番組、娘と見て違和感をもちました。除染すれば放射線値は半分になる、というのですが、半分になっても赤ちゃんが住んでいい値とは思えません。除染が先、ではなく疎開(避難)が先ではないでしょうか。

    石巻から魚が届いた。漁業も魚一尾ずつ放射線量を計測しているわけではない。魚はお米のようにじっとしていないしなあ。細胞分裂の終わっている(?)母と私でせっせと食べる。サンマの刺身、ツブ貝にホタテ貝、サンマの塩焼き、ああ、サンマにがいかしょっぱいか。

    9月1日

    関東大震災の日。吉村昭『関東大震災』、鈴木淳『関東大震災』お薦めします。
    地質学者イトウさんより、またまたこわいご指摘。

    ◎日本の高速道路やその基となる街道の少なくない部分は大断層と関連している。まあそうでなければ野を越え山を越える街道はできませんよね。
    ・東北縦貫、奥州街道=盛岡−白河構造線。日本海が拡大した際(1500万年前)、その東の縁。
    ・北陸自動車道のうち賤ヶ岳〜敦賀=柳ヶ瀬断層(活断層、100年前に地震)。これ、北国街道の一部。紫式部が通り、戦国の武将が大軍を率いて走 り抜けた道。
    ・これも中部地方の武将が太平洋岸に進出する際に駆け抜けた秋葉街道=赤石構造線・光明断層
    ・山陽道の一部:山崎断層と一致
    ・徳島道=完全に中央構造線の真上。恐ろしいです。

    おそろしい時代に生きてしまいました。国家とか経済とかの視点でなく、いつも「普通の人の暮らし」を物差しに考えればどうにか間違えないで生きていけそうです。福島の小学生の「私は結婚して子供を生めるのでしょうか?」という疑問に、母は絶句したと言います。うちの娘は「これで20年くらい寿命が縮まったかも知れないけど覚悟してる」という。刃は高度成長に浮かれて何もしてこなかった私たちおとなに突きつけられています。

    森まゆみ(2011年9月1日)


    ●震災日録8月17日〜8月26日 森まゆみ

    8月17日 明和の津波

    竹富島ではなしを聞いていると、東北の津波は人ごとではない、胸が痛かったという。
    ここは最高24メートルのお盆のような島。明和の大津波のときはなぜか竹富に津波は来なかった。なぜなら神様が島ごと持ち上げてくださった、という伝説がある。じつは石垣島のリーフなどが津波の緩衝になったらしい。「でもあれからそうとう埋め立てたからつぎは危ないと思うよ」とおばあがいっていた。

    水の貴重だった島でもいまは水をジャージャー使うし、まばゆいほど朝の光りがあるのに室内の電気をつけ放題。節電の東京から来るとかなり違和感を覚える。さすがに干ばつのため水は不足気味で、節水を呼びかける防災放送がなされた。

    8月18日 活性化でなく沈静化せよ

    東京新聞によると去年8月に戸野広浩司記念劇場を根城に旗揚げした大衆演劇「若姫劇団」が1周年とか。あれ、台東区は所管外といっていた井上圭子さんが記事を書いている。東京新聞を応援する会としてはこういう記事も歓迎。

    しかし「谷根千活性化の仲間として認めてもらえるよう一層がんばりたい」という座長の言にはうーむ。谷根千はもう活性化より沈静化したほうがいいのになあ。座長サン、すでに活性化しているところでなく、どうしてまったく活性化していない町で旗揚げしようとはしないのですか。その方がパイオニアとしての誇りもあるでしょうに。

    同日の読者欄を見ると、経産省の更迭幹部は早期勧奨退職あつかいで1000万円ずつ上積みされるらしい。被災者が家も職もないときに、これら税金泥棒の名前をよく覚えておきましょうね。松永和夫、寺坂信昭、細野哲弘の諸氏。

    「あなた方が失うものは大きすぎて、恐らく二度と取り戻せないことでしょう」と投書した菅野さんはいっておられるがそのとおり、道徳なき政治(ガンジー)に加担した罪は子々孫々に祟るでしょう。納税者は忘れないよ。

    8月19日 竹富はたしかにまぶしい

    朝から世話になった方たちにお礼をかねて挨拶回り。反対に島しょうゆ、竹富ラー油、レモングラスのお茶、泡盛、ゴーヤにオオタニワタリ、クバの葉で出来た手作りの団扇などをいただく。

    11時15分の船で石垣に渡り、本やを見て、辺銀食堂が再開したので昼を食べた。さすがにおいしい。それよりカウンターの青年の礼儀ただしさと忙しい中で客の話を聞くホスピタリティには感銘した。また来よう、という気にさせる店である。

    羽田が豪雨で飛行機は遅れたが、欠航になるよりマシだった。
    ヒロシが白山の駅まで荷物を持ちに来てくれて、ちょっと食事をしておしゃべり。お母さんは竹富みたいな激しい気候のところでは暮らせないよ、たまにいくからいいんだよ、という。一年以上オキナワに暮らした息子の意見。彼はこの夏、沖縄で福島からのこどもたちのキャンプを手伝って来た。たしかにまぶしいしなあ。

    8月20日 エネ特計を文化庁に回せ

    新聞で宮城蔵王の重要文化財我妻家住宅の土蔵のすべての壁が落ちたのを知る。重文だから国や県や町も応分の負担をするであろうが、持ち主負担もかなりの額にのぼるだろう。

    エネ特といって原発立地自治体の懐柔のために税金から何千億も費やされていた。マラソン大会、パソコン導入、県立美術館、病院や保育園、中学生のホームステイ、怒りを通り越してあきれるばかり。
    それにたいし、文化庁は1000億で、文化財の保存、修復、国宝の買い取り、美術、演劇、映画、音楽、バレーやダンスまで全部まかなっている。ああ、エネルギー対策特別会計のほんの10分の1でもあれば。今回の地震で壊れ、傷ついた文化財をみんな直せるのに。なんて言っている間に仙台の文化財水道施設が壊されそうだ。放っておくとみんな瓦礫として処理されてしまう。
    菅直人もやめたあとの楽しい計画なんかいま話していないで、脱ゲンパツでもう一度立候補してくれよ。あとはみんな推進派じゃないか。

    8月21日 震災シミレーション

    コミュニティセンターで防災のワークショップあり。
    地震をわがこととしてしミレーションしてみること、という吉川講師の質問が面白かった。

    「地震3日後。東京が直下型地震にあい、4階に住むマンションはどうにか助かったが、ガスも電気も水道も通っていない。4人家族は無事で集合できた。車は一台ある。さてあなたはマンションから動きますか?」

    *まるで私のことみたい。でも車は持っていないよ。東京では車を持っている人はごく少数ではないか? 車がなくても便利に暮らせるし、駐車場代は高いし。
    *10階でエレベーターが止まったら考えるなあ、でも4階ならまあ上り下りはできる。
    *カセット式コンロもある。電池で聞けるラジオも必携、懐中電灯も。携帯トイレもある。小はトイレにして少量の水を流す。風呂の水は貯めておく。
    *このまちに家族親族みんなおり、特技やしごともさまざまな友人がいる。遠くに家族で行くよりも、ここで住民の組織を作り、助け合って生きていきたい。そのためには日頃から起動する谷根千住民協議会が必要だ。

    8月22日 懐かしい未来へ

    今日は日帰りで小諸に藤村記念文学賞授賞式へ。満州引き上げの冬、学生時代の北海道の牧場のアルバイト、牛の労働からトラクターへと変わった農村、おじいちゃんと食べた自動販売機のうどんの思い出。懐かしいと言うより、いままさに3・11以降、このような暮らしにシフトするべきだ、とおもった。まさに「懐かしい未来」。

    きのうの吉川さんの質問、もうひとつ。

    「地震から3週間。避難所に避難者以外の地域で働く人や学生がきました。彼らにも炊き出しの配食をしますか」

    *震災当日だったら出すが、3週間もたっているなら、よそへ行ってくれという。
    *当日なら見学客も来るはず。町にお金を落としてくれるひとを無碍に断るいわれはない。
    *町会に入っている人は少数派、なのに行政はいうことを聞く町会だけを住民の正式な代表と認め、避難所を町会単位ですすめようとしている。地域には勤労者や通学者もいる。避難所のトップは町会長でなく学校長だということをはっきりしないと混乱する。
    *おなかがすいたひとに食事を出すのは当たり前。
    *そうすると数が足りなくなる。*じゃあカレーや煮物など、数をゆうずうできるものにすれば?
    正解を見つけるのではなく、こうしたディスカッションを引き出すための質問らしい。

    8月23日 石巻のイートイン

    千駄木在住の作家杉田望さんと仙台へ。元朝日新聞石巻市局長の高成田亨さんの案内で、まず東松島の木工作家遠藤さんのところへ。

    今回の津波で渡波小学校で英語を教えていたテーラー・アンダーソンさんという若い女性が亡くなった。そのおとうさんが被災地の小学校に本を送りたいと10万ドル送ってくれたとか。
    「ドル高なら1000万が今だと700万。そのお金で本を入れるすてきな本棚を遠藤さんに頼んでいるのです」。書くに忍びないことだが遠藤さんは子供さんたちを津波で流され、アンダーソンさんに英語を教わっていたとか。

    石巻市内では、まるか水産さんが水の入った一階店舗を店をひらけない飲食店に提供して、一種の屋台村になっていた。行政を頼らず、工事の手配もして5月中に開店。鰻、寿司、焼き肉、中華,そしてまるかの刺身や魚。
    「ここで食べてもいいし、持ち帰りもできる。2万、3万と買っていくおばあちゃんもいた。避難所にいる知人に配るんだと言って。売るよろこび、買うよろこびッてあるんだね。入っているお店は私の行きつけの私の食べたい店だから味は保証します」と社長の佐々木さん。
    5000円で「おやじパック」があると言うのでさっそく申し込む。送料はクールで850円と安い。何でも食べたいもの書いといて、というのでずうずうしいと思ったが「毛ガニ、ウニ、ホタテ、ツブなど貝類」と書いておいた。社長それを見て,「当日入ったらね」とにやり。さて何が送られてきますか、たのしみ。

    夜はNPOのみなさんと「汐たまり」で飲む。のみたりずスナック2軒はしご。

    8月24日 有壁宿本陣

    北上川河口で茅葺きを業とする熊谷産業は社屋も自宅も流され、遡ったところにプレハブ小屋をたて再起した。その広い土地には河口を見はらす露天風呂を作り、小屋のあいだにはよしずがけの野外食堂、そしてモンゴル人の助っ人用のゲルが数棟、そこに私の紹介した馬の

    寄田君が馬を連れてきたので、ちょっとしたテーマパークになっている。
    この前は白洲正子邸の造園をした人が来ていたが、今回は黒沢さんという建築家がきていた。キャップのうえにパナマ帽をかぶり、極彩色のスポーツウェアを着てもうすごいお洒落。80すぎで、私は乞食と名乗るその人は「人間生まれた時はハダカ。死ぬ時もあの世へは金も物も持っていけん。何あくせく働くのか」と一言。「本来無一物」である。それで被災地へ来ているらしい。

    「国産木材・在来工法・地元の工務店にお金が落ちる仮設でない復興住宅」という熊谷さんの夢は着々と進行中。一関市近くの有壁宿本陣を観に行く。
    当主夫人「史跡なので1億かかるという修復費のうち、7割が国、あとの3割を県と市と私どもで負担すると言うので。もう歳を取っていますので息子が今回は出すと。主人は古いものに囲まれて本を読むのが一番の楽しみなのですが。余震のたびにざざーっと土壁が落ちる音が聞こえて、身がすくみます。扉も歪んだのか開かなくて。旧家には嫁ぐまいと思ったのですが、こうして来てしまって」とのこと。たしかに土蔵の壁ががたんと落ちている。

    今日は追分温泉泊。ご主人、寄田君と若い女性たちといろいろ話す。人気温泉宿を避難所に変えてがんばっている穏やかな宗さんが「日本人はおとなしいですねえ。包丁にぎって東電にいきたくなりますねえ」「お、サンマをさばいた刃でお前たちもさばいてやる!ってか」、いやいやうかつな冗談は言えません。しかしいろんな人に会えば会うほど怒りが蓄積しているのを感じる。

    8月24日 仙台市荒巻配水所

    熊谷さんの車で、尾の崎の坂本健さん清子さんを訪ねる。

    「2人なくなった、3人流された、くらいではふうんというくらい私たち慣れてきている。一家で7人とかもっとなくなった家があるんだもの。合同慰霊祭のあとも各家でご葬儀をするのでお葬式ばかり。ここの集落はすぐ裏のお寺に逃げてほとんど助かった。助からなかったのが大川小学校へ通っていたこどもたちだから本当につらいの」

    清子さんたちはインドのポンディシェリで漁師の妻たちがつくった「ツナミカ」を造りはじめていた。坂下家は瓦礫を掃除して昼間は使いはじめ、ピースボートのボランティアたちの休憩場所になっている。

    しかしよく気のつく清子さんはちょっと疲れている感じ。健さんはことしも牡蛎を育てる、11月には東京で販売できないかな、と前向きだ。

    「ここは長面浦に面して360度、山が見える。森の養分が流れ込んで他で3年かかる牡蠣が1年で育つし、全国一おいしい牡蠣だと信じている」

    しかし陥没してしまった尾の崎地区に戻るという住民は少ない。スレート瓦の町並みは国の伝建になってもよさそうなのに。

    北上から石巻の斎藤氏庭園を見る。山形の本間家とならぶ大地主。ここも国の名勝だが土蔵の壁の崩れがひどい、管理人さんは「この前きた人は直すのに10億かかるって」と当惑気味。

    石巻のロシア正教のたてものは無事、山下りんのイコンは別の場所に保管されていた。蔵王町の我妻家も白壁が落ちている。

    仙台市役所の持つ荒巻配水所も国の登録文化財だが、移築途中で被災し、倒壊する危険があるとして7月11日、解体が決まった。町遺産ネット仙台を中心にどうにか保存できないかと言う署名や保存の提案があったが、市は枕木のしたに入って作業する安全性が確保できない、として解体を決めたもの。しかしそれこそ「日本の科学技術を持ってすれば」保全する道もあったのではないか。最後の悪あがきで仙台市長奥村恵美子さんに私信を送った。

    夜はなつかしい丸森の菊地さん宅で泊。

    8月25日

    聞いた話。
    「墓地の墓石がひっくり返り、どこが自分のうちかわからない。このあたりかなあ、と花を供えたら、隣りの人はじゃあ、うちはこの辺かな、と。最初間違うとみんな間違うねと笑った」
    「合同慰霊祭にも香典は出したし。みんな大変だからとお葬式はお香典をなしにすることに申し合わせをした」
    「釣はあきらめた。行方不明のひとが漂っている海だし」
    「ラブホは家族つれで満員。避難所はお酒禁止で9時消灯。子どもに思い切りテレビマンガを見せてやり、おとなは飲みながらカラオケするのが家族団らん」

    丸森のIターン組は出て行ったとも聞いたが、筆甫の味噌づくりの太田さん夫妻は残って、地区の除染の先頭に建っているらしい。原発を勉強する学習会なども始めていると言う。「ああいう人たちが丸森に来てくれてよかったわ」と菊地しのぶさんはいっていた。ヒッポ味噌はおいしいです。一年もの二年ものありますので食べたい方はドウゾ。
    東京から丸森町筆甫にIターンして新規就農し、味噌造りに取り組んで10年余(http://www.a-will.jp/will/backnumber07/b_070214.html)

    管総理が退陣なので上野駅で共同通信のインタビューを受ける。いろいろ話したが、原稿にはほとんど活かされなかった。以下のようなこと。

    *ぶるぶるふるえる豆腐のような日本列島にゲンパツは無理。
    *チェルノブイリのときの決死隊のような命令で危険地域にいく軍隊のない国に原発は無理。
    *私は1970年以前の生活水準に戻ってけっこう。
    *家庭はいいが製造業に電気が使えないと日本な三等国になる、といわれたら、すでに三等国だと答えよう。太平洋にこんなに核物質を垂れ流して何が一等国なものか。
    *エネルギーのない国で製造業をするのは無理。産業構造を徹底的に変える。
    *農林水産業はふえてもいい。職人など手仕事をふやす。水ビジネスなどボトルに詰めるだけで電気を食わない産業はいい。つましく暮らし、友だちとあそび、自由時間に好きなことをする。まさに竹富はそんな島だった。できるよ!

    8月26日 丸森の問題

    きのう見た丸森斎理屋敷も国の登録文化財だが、かなりいたんでいた。佐藤館長がしっかり直しますよ、と頬笑んでいたので、丸森は山間部でそれほど被害がないし、とほっとしたら町役場の旧知の加藤あけみさんから、「丸森も地震でめちゃくちゃになった道路工事、放射能の除染などに膨大な予算がかかり、大変です」という趣旨のメールがきた。

    行政も個人ももう負担の限界だ。かといって貧者の一灯ですむわけがなく、大企業に一棟ずつボンと寄付してもらって、「このたてものは東日本大震災で被災しましたがソニー(たとえば)の寄付により修復できました」とか、プレートをつけた方がいいと思う。

    斎理屋敷の前に新しい直売場があって「買っていってね」といわれたので、どっさり買って重い思いをしてかえったら娘に叱られた。「ホットスポットの農作物の安全性を確かめず、そこでディスカッションもしないで買ってくるのはおかしい」というのである。

    たしかに丸森の人はのんびりしているし、風評被害で売れないといっていたし、役場の検査では「人体に影響ない」程度しかセシウムなども検出されてはいない。そうでなくても放射線量が高くて打ちひしがれている町の人に議論などするきになれず、私は50過ぎているし一回くらいいいか、と5年住んだ町に義理立てして買ってきたのである。しかし娘は「国の許容基準は国際的に見ても高すぎ、内部被曝を考えたら丸森町民と土壌汚染についてもっとはなしあうべきだった。そして農産物被害については東電に対して一緒にたたかうべきだ」とゆずらない。
    結局、ガスパッチョ、サンラータンスープ、野菜カレーなどはみんな私のおなかにおさまりそう。これ難しい問題だなあ。
    放射能は目に見えない。こんなにおいしいのになあ。

    森まゆみ(2011年8月26日)


    ●震災日録8月1日〜8月15日 森まゆみ

    8月1日 海を前に本を読む

    千葉なみはな荘で鈴木淳『関東大震災』、林えり子『東京っ子言葉』、平山盧江『東京おぼえ帳』などを読む。御宿の海岸は例年より少ないと海の家のおじさんが嘆いていた。波大きく、サーファーはまだしもジェットつきの乗り物で我が物顔に走り回る男あり、監視員が注意してもやめない。音だけでも腹が立つし幼児もぷかぷかやっているのに。逮捕する法律はないのかとおもう。

    8月3日 谷中防災コミュニティセンター

    コミュニティセンターにて第2回防災センターを考える会。詳細は震災字報にて。計画についてよくわからないし、話し合いの会も誘われない、という人がこんなに多い以上、形式的手続は踏んでいると言っても強行するとあとに禍根を残すのでは。
    谷根千震災字報(http://311.yanesen.org/)

    8月4日 またやりましょう

    湯島でゼミの旧友交換会。ケンブリッジから帰った法政の奥武則さんを囲んで、明学の原武史さんやみすずの守田さんや。東北大震災後の第三セクターの鉄道路線の話などに花が咲く。

    8月6日 鎌倉文士の家

    鎌倉の西御門サローネなるところで『町の文脈』に付いて鼎談。里見怩フ邸宅だったっものを現在は建築事務所が借りてサロンにしている。なかなか涼しくて小ぶりないい建物だった。しかし大正から昭和にかけて作家はこんないい家に住むことができたのだなあ。打ち上げのワインパーティが楽しかった。

    8月9日 使いやすいタンス

    あたらしい箪笥が来た。結婚したときに買った箪笥は旭川木工の無垢材のいいものだったが、北海道の乾いた気候に合ったもので、アパートの湿気と上に載せた本の重みで、引き出しが開かなくなり、やがて壊れてもう十数年、しかし箪笥を買えるためには部屋全部の掃除と本をどかさなくてはならず長らくあきらめていたが、一念発起して、スライド式の箪笥に変えた。二段分は着物が治まり、服はすべて収納。起立木工というメーカーの食器棚を前に通販生活で買ったが、これがとても使いよいので、同じメーカーのを買った。こんなことがうれしくて、娘に開け閉めしてみせたりする。

    8月10日 24年前の竹富

    沖縄へ。竹富島のおじい、おばあの話を聞くのを手伝ってくれないかと家中・狩俣両先生から依頼あり、島の若者や後継者が聞き書きする態勢をつくるためにとりあえずいくことに。

    この島には24年前、町並みが国の伝統建造物保存地区になったときに町並み保存ゼミが開かれて、そのとき一歳の次男を預けていった。それは初めての沖縄だった。珊瑚礁の石垣の続く、砂の道を歩いて日夜、おたがいの民宿を訪ね合い、ヨッピて語り合った思い出がある。

    とめてもらった沖縄そばの竹の子は代が替わって大変な人気店になっていた。あのときはカウンター3、4席のうすぐらい店だったが、ピーヤシー(島こしょう)を振りかけたそばは台湾そばのようでもあり大変おいしかった。かべにはおじいが叙勲されて皇居まで出向いたときの和服盛装の写真がかかっており、こんなに遠いのにあれだけ日本国にひどい目になったのに天皇制が人々の心に根を張っていることに驚いた。

    竹富を土地の言葉でテードゥンと呼ぶ。今回は中辻部落のヴィラ竹富にとめてもらう。若い頃は相部屋の民宿も楽しいものだが、この年になるとバストイレ付き、クーラーの効いた部屋に一人でいるのは快適。

    夜は呼んでくださった狩俣先生の実家、前にお世話になった民宿内盛荘のすみさんなどに挨拶。スミさんは踊りや歌の名手であり、伝統的な織物の名手でもある人だが、85歳のいまも気分は18歳で、民宿のヘルパーの女の子にもスミちゃんと呼ばれている。
    夜、お盆の芸能の練習をみてからたるりやで家中先生、泉屋の上勢頭篤さんたちと飲む。

    8月11日 水の一滴は血の一滴と同じ

    朝、内盛スミさんに話を聞く。すみさんの兄弟も9人、夫正玄さんの兄弟も9人、スミさんはうらの東里家から嫁いできた。
    「そのころ鶏がよその庭で卵を産むことがあるとおれのものだ、いやうちの庭で生んだのだからうちのだ、とけんかしたものだけど、嫁にとる気があったのか内盛と東里は仲良くして産んだところのもの、というルールを決めたのよ。だってそのころ卵は貴重品でソーメン3束に交換できたのだものね」

    お姉さんが台湾で働いたので、自分もいきたかったが戦争は激しく、台湾行きの船も出なくなっていた。スミさんは竹富守備隊の兵隊の炊事などに徴用された。
    「弟が20年の5月8日に産まれて3日目に空襲があった。それとあいやる浜に米軍機が落ちて、乗っていた米兵が連れてこられた。背が高くて石垣からぬっと首が出ていたのでこわごわみてたの。ナージフルか、と思ったよ」
    白地に藍の模様のミンサー帯を織っているところ。

    昼過ぎ、古堅セツさんの話を聞く。重要文化財与那国家のトーラでくらし、与那国家のに輪や建物を管理している。ガーナー(島名前)がマーチなのでマッチャんおばさんと親しまれている。旦那さんをとうになくし、学校の用務員や給食の手伝いをして子供たちを育てた。

    「竹富は水の一滴は血の一滴、井戸はあったけど干ばつも多かった。戦後、アメリカが船で水を持ってきてくれたときはうれしかった。リアカーにのせて各戸に配ったよ。石垣島から海底送水で水道が引けたのは昭和51年10月1日。そのときのうれしさといったら」

    当時の石垣市長さんありがとう、と歌い込まれたお祝いの歌を歌ってみせてくれた。フーチバー(よもぎ)は熱冷まし、シロハナセンダンソウ、アキノノゲシ、など「野山が食べてくれと私を呼ぶよ」とセツさんはいって、手製のハイビスカスジュースを冷やしてくれた。

    夕方になるとコンドイ浜で少し泳いで、夜はヴィラ別邸で内盛ショウセイさんたちと飲む。名前はすごいが、値段は実にリーズナブルなおいしいレストラン兼飲むところ。

    8月12日 昔は茅葺きだった。

    今日からお盆でどこの家も仏壇にご先祖をまつり、好物などで飾る。男の人は意外に手すきなので、午前中、狩俣恵一さんのおとうさん、狩俣正三郎さんの話を聞く。宮古のウミンチュを父に持ち、寄留民として苦しかった。

    「父は魚を捕ってくる、それを売りにいきました。それは父の酒代になる。だから僕は漁師じゃなくて農業をめざした。学校を出てから神戸の川崎製鋼の養成校に行って3年学びながら働きました。そのとき1000人の仲間を統率した経験が戦後島で生きました。字を書けない人のための補修学校をやったり」

    いっぽう人の2倍は働いて、その働き者なのと、体の健康さを見込んで前の大家から嫁が来た。昭和40年代に押されて町議になり4期務めた。

    「昔のことは思い出したくないね。でもウミウリ(3月3日、海下り)の日にソーメンチャンプルーなんか作ってみんなで楽しんだのは忘れられないね」うちの前を素通りするなよ、話がまだあるかもしれないからまた来てください、と奥さん手製のおいしいスバをごちそうしてくれた。

    午後は狩俣夫人初さんの実家、大家のはるえさんに話を聞く。嘉手川という中筋の長老がお父さん、「竹富は5寸掘れば珊瑚礁、米はできん。だから西表や由布島にいって田んぼを作った。田小屋をつくっていったら泊まりきりで田植えをしたり、田草をとったり。食べ物は粟を炊いたり、サツマイモの団子くらいだった。大変だったさ」

    西表はマラリアが猖獗(しょうけつ)。「パパイアの芯をつないで、芭蕉の葉の上に寝かせて、上から夜中水をかけて冷やした。水も貴重だったのにね」
    そのころは今のような赤瓦でなく茅葺きだった。専門の大工はいなくて家でもなんでもゆいまーるで協力して作ったという。
    「昔の方が人が温かくて仲良かったような気がするよ」とはるえさんはいった。

    この日、アンガマーを拝見。あの世の芸能者が顔を隠し、クバの笠をかぶり、クバの扇を持って行列する。ヒヤラクとかいうかけ声に意味はないらしいが、うらごえなのはこの世のものではないから。今日は内盛荘と民宿マキ荘で。青年会のエイサーもみる。

    8月13日 アンガマーに月がかかる

    お盆の2日目。あちこち話を聞いたり、前から知っている家に『御霊前』と書いた袋のなにがしかのお金を包んで、お参りして歩く。うずたかく積まれているが、おたがいやったりとったりだ。石垣や那覇の親戚も帰ってきたり、お参りに来たり。

    面白いのはここの人はもちろん、私たちのことを本土の人、ヤマトンチュ、というが、『沖縄の人』という表現も使う。那覇は沖縄で、沖縄県のうちではあるが竹富は八重山人なのである。

    今日は松竹荘の松竹昇助さんに話を聞く。アダン、月桃、クバ、芭蕉などを使って蓑笠、枕、バッグ、うちわなどの手工芸品を作る名手。昭和4年生まれで戦争中は護郷隊にいた。
    面白かったのはヤブ医者の話で、というか奥さんの実家が近代西洋医学を学んだわけではない医者の家系で、漢方の知識を多く持っていて見立ては確実、よく直ったのだそうだ。そのあと来た本当の医者もその人によく聞いたそうで、ヤブといいながらも昇助さんの語りには愛情がこもっていた。

    午後は島仲家へ。はじめて船主となった家、当主ヨシノブさんは藍染めを仕事とし、カマンガーをつとめる。妻由美子さんは島の織物を担う人だが、何年か前、空白だった中筋の神司になった。神司は島の神事を司り、各集落の御嶽(うたき、オン)の神様に氏子の健康や幸せを祈る。「大変な仕事ですが、神様からの知らせがあって、引き受けないわけにはいかないのです。私は元々西集落(いんのた)のうまれで筋ではないんですけど」。先輩司たちに支えてもらいながらつとめているということだ。

    この日、東(アイノタ)集落のアンガマーは高那旅館、イナシャという家。家にはそれぞれ屋号がついており、イナシャはすばらしい赤瓦の家で、それを開け放つとイヌマキの柱が鈍く銀色に光り、まるで能舞台のように見えた。

    8月14日 同世代の苦労

    お盆の最終日。狩俣恵一さんは沖縄大学教授で、『芸能や神事から島の未来を考える』ことをライフワークとしている。私より3つ年上だが、島から大学までいくのは並大抵ではなかった。

    「30までに目鼻がつけばいい、くらいでまず東京に出て2年、新聞配達などで働き、お金を貯めて国学院大学に行きました。生活費どころか、授業料も自分で払った。だからバイトするより勉強して授業料免除にした方が得だという結論になった。卒業してからも1年バイトして大学院に進みました」

    親に授業料を払ってもらって自宅から通った私は少し恥ずかしい。奥さんの志穂さんも竹富育ち、両親とも先生で「そんなうちからお嫁をもらうのは恐れ多い」とお母さんのハツさんは不安があったが、今みていると人もうらやむ嫁姑だ。

    狩俣さんは那覇からかよって竹富島のいろいろな問題に社会学の家中先生とともにアドバイスしている。今日、まずは竹富島入門編。歴史、歌謡、芸能、神事、工芸、衣食住、ことばその他、何でも聞いてみた。

    お昼ご飯は冬瓜と豚の汁においしいご飯、チャンプルー。
    午後は長堂さんの母堂のところへ行く。神奈川の海老名から娘さんがお盆で帰り、天ぷらをたくさんあげながらおばあの話を聞いて笑いをこらえている。本島の糸満育ちのおばあは戦前に台湾で竹富島の人と知り合った。ウミンチュなので言葉がはっきりしている。「あんたみたい若い人にいってもわからんだろな」という。

    そのあと町並み調整委員会委員長の大山さん宅により、この頃起こっている島の問題について話を聞いた。国の重要伝統的建造物群保存地区になってから「売らない、貸さない、けがさない、そして活かす」というすばらしい竹富憲章を作ったのに。この国は自由主義経済の国で知らない間に売買され、そこで観光目的の商売をする人が後を絶たない。島の文化、風習、ユンタク(おしゃべり)、ユイマール(協力共生)などに理解がない住民が増えつつあるという。

    お盆の最後の日、公民館館長を務め、前からよく町並み保存ゼミなどでお目にかかる上勢戸芳徳さんの赤瓦の家でまたすばらしいアンガマーをみた。東集落が着物もそれぞれで本土の盆踊りなどを取り入れて気楽で楽しい感じなのに対し、西は芳徳夫人、同子さんが踊りの師匠として若い子に教えているので、衣装も伝統的な紺地の着物、たもとはあついので筒袖、お端折もなくつっ丈で短く着る。帯は幅が狭く前で結ぶ。アンガマー最高潮で雲の上に明るい月が出た。なくなった父のことを思う。東京でお盆に迎え火をたかなくなったのはいつからだろうか。

    8月15日 お盆の終わった日

    みんな疲れた顔をしている。昨日のよるまでアンガマーで朝は早くからお墓で先祖を送る。

    和泉屋の上勢頭たつこさんに話を聞く。戦後の青年たちが解放感溢れる頃、登さんと結婚したのだが、どんなにかわゆくいらしただろう。その後、子を産み育てながら民宿を経営してきた。なくなったご主人を『やさしい人でしたよ』と回想する。島を守ることに駆け回っていた登さんは24年前の町並みゼミで実行委員長をつとめていらしたと記憶するが、オートバイ事故で亡くなられた。しかし彼の活動は今も島で継承されている。神司を引退された富本定子さん、踊りの師匠上勢頭同子さんにも宇宙を感じるような壮大な話を聞いた。さすがに疲れてぐっすり眠る。

    森まゆみ(2011年8月21日)


    ●震災日録7月23日〜8月1日 森まゆみ

    7月23日 蔵の映画祭

    「核とわたしと原子力」を蔵で見る。

    『あしたが消える』。原発で働いていた父が骨ガンで亡くなった。主婦のモノローグで被曝労働や原発事故について明らかにして行く。1989年に「原発を考える映画人の会」というのがあって、こんな映画を撮っていたとは。

    夕方の部は土本典昭『原発切り抜き帖』。1982年といえばチェルノブイリ以前である。水俣に心を寄せた土本さんの感受性、小沢昭一さんの語りで、スクラップブックだけで一本の映画ができてしまう。
    同じ年、カナダ政府は医学博士へレン・カルディコットの講演を映像で撮った。クールな語り口で核兵器のこわさを語り尽くす。
    ほかにも原発がいかに導入されたか、解体はいかに難しいかなどの映像あり。

    それにしても荒川俊児さんや吉川繋さんは本当に昔から核や原子力の危険を訴えていたんだなあ。あらためて尊敬。『ドキュメント・チェルノブイリ』高木仁三郎さん解説は、DVD発売中。1200円。
    http://www.eizoudocument.com/0618DVD002.html

    7月24日 今日も蔵で映画ざんまい

    一日に4本も5本も重たいテーマの映像作品を見るので疲れる。「物理は13点しかとれない私が何でこんなこと理解しなけりゃならないの」と弱音を吐くと、サトコは「未来のこどもたちが同じことで悩まないですむためにだよ」という。

    きょう『24000年の方舟』を見て、やっと「濃縮ウラン」「劣化ウラン」「核燃料リサイクル」「プルサーマル運転」ということの意味がわかった。そしてすべてのしわ寄せが弱者に行くこともわかった。

    今回のフクシマの農家・漁業者もそうだが、ビキニの核実験では第五福龍丸ほか漁船に乗っていた人々やロンゲラップ島の人に、チェルノブイリでは2000キロ離れたラップランドの遊牧民に、ネバダの核実験ではナバホインディアンが被曝して苦しんだのだ。こんなことはもうやめなければいけない。

    7月25日

    若い人の意見。「僕は40歳以上の人は信じない。彼らは既得権益者だから。あなたは国民年金はもらえるでしょう。でも僕の年代はもらえない。だからはらっていない。税金をはらうほど収入はない。NHKなんか払ったことはない。テレビはあるけど見るにたる番組はないから。けっこうこたえるのはガスと水道、電気。まるで資本主義社会の外に暮らそうというのは無理。でもできるだけそうしたいと思っている」
    こんなひとがふえているような。
    「うちなんかチャンと就職する気がなくて、フリーターみたいなもんだから」「でも働く気があるだけマシよ。うちなんか引きこもって部屋から出てこない、羨ましいわ」という会話も増えてきたような。

    7月26日

    「おたがいさま」という本をポプラ社から出しました。宣伝させてください。この10年くらいに書いた提言型のエッセイを集めました。町で楽しく暮らすためのアイテム、銭湯、居酒屋、子育て、介護、折々に感じたこと、時々怒ったこと、千駄木在住の倉沢紀久子さんが編集してくれました。

    タイトルは「おたがいさま」。これは去年のうちから決まっていた。こどものころから毎日きかされていたのは「おたがいさま」と「もったいない」。でも後者はノーベル平和賞受賞者マータイさんが自分の名前の発音にも似ていると広めてくれたから、私は「おたがいさま』をはやらせたい。
    そしたら3・11がおこり、今出すにはタイムリーすぎる題だな、とおもいましたが。意外に「きずな」「たすけあい」「がんばれ」「つながる」などは多用されたが、「おたがいさま」は聞かれなかった。

    きのう水道橋のエレベーターでの会話。「押すなよ」と50代くらいの男性。「俺も押されてんだよ。おたがいさまなんだから、そうおこらないでよ」と70代くらいの男性。周りにいた女性陣、にこにこ。
    この前は人数オーバーで降りた若い女性におじいさんが「ごめんねごめんね、次ぎのに乗ってね」と声をかけ、みんなにこにこ。死んだふりして押し合うよりは声をかけると、そこに「おたがいさま」の共同体が生まれる。そう、おもいませんか?
    往来堂書店はじめ地域の書店で、絶賛されずに発売中。1400円。

    7月27日 はじめての信濃境

    初めての信濃境。そこの広い家を借り切って毎夏、ヤマサキを中心に谷根千夏合宿のようなことをしているのだが、10年来、行ったことがなかった。小島政二郎が「眼中の人」に書いているように、下町育ちは気い使いなので、人の多いところに行くと気ばかりつかって疲れるから。この件、四半世紀、ヤマサキをうらやましがってきたこと。
    彼女は気を使わず体を使って、結局は人が気を使わなくてすむ空間を作ってしまうのだ。最初の日は十人くらいで静かだった。ゆっくり話せた。

    7月28日

    信濃境、小淵沢あたりにはくわしくない。きょうはサントリーの白州工場を見学して、ただでウイスキーの試飲をさせてもらい、ソーセージ屋さんでランチを食べ、近くの温泉に行って、道の駅で買物して夜に来る人に備えた。
    夜遅く、中村さんがおいしいビールを持ってやってきた。この仲間はパンを焼くひと、珈琲を入れるひと、大勢の料理を作るひとがいていい。何もしない人もいていい。

    八ヶ岳の山が青い。夕闇近くそれが黒くなる。今日は行ったお湯は「高濃度天然温泉」だそうで、含まれているのはストロンチウム、そのほか。高濃度に反応してしまう自分。「飛び散る」も嫌なイメージになった。明治メルティってチョコレートがあったがメルトはもうごめん。

    7月29日

    今日は中村さんの運転で、最初、富士見町の百合の里にいったら、なんとロープウェイこみ1700円もかかるのでやめる。信州はこういうバカ高い観光施設やわけのわからない美術館が多いとこ。それで白樺湖へはしる。
    昔通りのちまちました偽スイスみたいな建物の多い景色。湖畔でそばを食べる。これまた信州そばとの幟に引かれたものの、いっぺんに6玉ゆでたのだろう、粉っぽくて歯ごたえもなく、つゆの味もいまいち。
    温泉は「眼下に白樺湖が見える」はずだったが、女湯はのぞき防止か、窓ガラスにフィルムがはってあり、露天の方も木枠で見えないようにしてあった、がっかり。東北でたちより湯300円に慣れているので、信州の700円は高いと思う。
    しかし霧ヶ峰まであがったら日光キスゲの大群落をタダで見せてくれたのでうれしい。反対側には何もないので、これも人為的に植えているのかと思ったら、そうではなく、ないところのはみんな鹿が食べちゃったのだそうな。道理で妙な線が張ってあると思った。立ち入り禁止ではなく、電気入りの鹿防止冊なのだった。
    むかしなつかしいコロボックルヒュッテ、さらに八島湿原ちかくのクヌルプもまだやっているようだった。出ていらした御主人はわが20代の頃すでに50くらいだったからかなりのお年になられたであろう。それこそヘッセかシュトルムの小説にでてくるように深く遠くを見るまなざしなのであった。

    7月30日

    かなり人も増えてきたので、昼過ぎの特急で帰る。八ヶ岳と南アルプスを久しぶりに見た。

    聞いた話、3・11のとき、文京区のある小学校に近隣の会社の人や学生が一時避難したら、「ここは町会の避難所なので、町会に入っていない人はいれない」と追い出されたとか。ひどい話だ。町会単位の避難所という考え方はすでに加入率がこれだけ少ないいま、崩壊している。町会を中心とした、ならまだわかるが。災害のときは町会も何もない。もしかして町会員じゃなければ乾パンは配らない、水も飲ませない、毛布も分けないなんてことにならないか。いまから心配。地域の小権力というものは厄介だ。

    合宿先で27日、東大アイソトープセンター長児玉龍彦さんが厚生労働委員会で参考人として発言したのを聞けなかった。かえって東京新聞ですら7月28日付でのせていないのを知る。彼は医師で内部被曝の専門家で、内閣の抗体医薬品の責任者も務めている人だ。何度もユーチューブで見た。まとめるとこういうことだ。

    3月15日に100キロ圏の東海村で5マイクロシーベルトを観測して驚愕した。枝野官房長官が「さしあたり健康に問題はない」と言ったが大変なことになると思った。200キロ圏で0・5マイクロシーベルト、足柄から静岡のお茶まで汚染された。

    しかし政府は放射線の総量をまったく報告していない。我々が計算すると、広島原爆の29・6個分の熱量、ウラン換算では20個分が出ている。しかもおそるべきことに放射線の残存量は、原爆は一年後に1000分の1になるが、原発は10分の1にしかならない。つまり今回のフクシマは、原爆数十個分にあたり、ずっと大量の残存物を出した。

    稲わらについて農林省が通達を出した3月19日には、食糧も水もガソリンもつきかけた時点で、そんな通達一枚出したって情報は農家に届かないし、何もできない。それでも農家は外国から飼料を買って、のませる水も地下水に変えている。

    測量が細かくできなくてはいけないのに、南相馬には一台しかなかった。米軍から20台来たけれど、市役所の教育委員会では英文の説明書がわからなかった。そんな状態。食品検査を含めてなぜなぜ測定器を全国に行き渡らせるためにお金を使わないのか。なったく行われていないことに私は満身の怒りを表明します。

    私の仕事は、抗体医薬品にアイソトープをつけて人体に埋め込みガン治療をする。だから内部被曝については必死に研究している。DNAは二重らせんで安定しているが、細胞分裂するときは一本になり、そこに放射線が当たると切れガンに変異しやすい。胎児や幼児、成長期の増殖のさかんな細胞に対して大変な危険がある。おとなにおいては髪の毛、貧血、腸管上皮など増殖の盛んな細胞に影響する。

    プルトニウムを飲んでも大丈夫と言う東大教授がいると聞いてびっくりした。α線は最も危険で、トロトラストと言って肝臓に集まり肝臓がんをおこす。セシウムは尿管上皮、膀胱へ集まる。ヨウ素はよく知られているように甲状腺に集まり、がんを引き起こす。
    しかしウクライナで甲状腺がんが多発したときにも、日本やアメリカの研究者は『ネイチャー』誌に1986年以前のデータがないので統計的に有為ではないから因果関係はわからない、と投稿している。20年経ってようやく1986年からのピークが消えたためにエビデンスになった。疫学的な証明は難しい。

    つまり子どもを守るためには別のやり方が必要だ。すでに福島の母親の母乳から2〜13ベクレル検出されていて、これにも愕然とした。20キロ圏とか30キロ圏とかいう区分けはまったく意味がない。

    南相馬の海側は比較的線量は低いが、ここから飯館村に近いほうに子供たちがスクールバスで毎日移動させられている。こんな事態は一刻も早くやめさせてください。海江田経産相と東電の清水前社長は強制避難でないと補償しないといったが、これと子どもの安全の問題はただちにわけて考えてください。

    緊急避難的除染は、我々も早くからやってきた。それと恒久的除染は分けるべきだ。すべり台の下はすべり台から雨水が落ちて濃縮する。10マイクロシーベルトでてしまう。
    雨樋の下に苔が生えているところなども、高圧洗浄機で苔をはらうと2マイクロシーベルトが0・5まで下がる。しかし0.5マイクロシーベルト以下にするのは非常に難しい。

    カドミウム汚染地区3000ヘクタールの半分を除染するのに8000億円かかっている。この1000倍の土地の除染となれば、どのくらいの国費が必要か。

    1.最新鋭の機器をつかって食品、土壌、水の汚染を改善すること。
    2.子どもの被曝を減少させるために新しい法律をつくること。このままでは研究機関は法律で手足を縛られ何もできない。今われわれのやっていることはみな法律違反。
    3.東レ、栗田、千代田テクノ、アトックス、竹中、それぞれの専門とノウハウを持つ民間の力を結集して、国策として土壌除染を進めること。このままでいくと利権がらみの公共事業になりかねない。
    7万人のひとが自宅を離れて彷徨っているときに国会は何をしているのですか?

    東大にもまともな研究者がいた、という驚きから「涙」「感動」といった反響が多いが、人に感動している場合ではない。いっている中身をきちんと把握しなければ。
    放射線治療で髪の毛が抜ける理由がよくわかった。またきのう母と「どうして原爆が落ちた後の放射線にまみれた町がこんなに復興できたんだろうね」と話し合ったのだが、児玉氏によればゲンパツの方が原爆よりはるかに放射性物質の残存率が高いのだ。
    しかし福島をすべて除染する費用は天文学的であろうし、除染が先か、避難が先かという問題は残っている。

    編注)衆議院厚生労働委員会での児玉龍彦さんの発言
       ⇒証言(http://savechild.net/archives/6135.html)
       ⇒質疑応答(http://savechild.net/archives/6151.html)

    8月1日 千葉のダッシュ村

    朝、一仕事終え、千葉の新倹見川へ。ここに保育園のおや仲間から発祥した「おとなのダッシュ村」。

    ここをつくったメンバーの一人佐々木夫妻とは、モンゴルやタイの奥地を旅した仲で混ぜてもらった。まず冬に仕込んだおみそを返し、畑の雑草を取りながらトマトをいくつも食べた。いよいよ葡萄棚のしたで誰かがお土産に買ってきたジンギス汗鍋。そうか先に野菜をのせ、その上でラムを蒸し焼きすれば焦げないか。ビールを飲み、焼酎に替え、なんだかイタリア映画の農家みたいだ。

    ここの方たちはみな機械や道具、建築や配管につよい。口より体の動く人たち。飲んでいない二人が運転して二台でわが大原の家まで行った。築30年の保存のため引き継いだ家だが、壁のしみ、換気、タイルのざらざら、伸びすぎた木、そのほかいろいろ直すべきことをアドバイスしてもらい、このつぎみんなで来てくれるとか。
    わたしは魚やでヒラメやタコをかってカルパッチョでも作ってワインとチーズを出せばいいらしい。もう50すぎばかりだからいいんだ。海を眺めながらベランダで飲みましょうね。

    森まゆみ(2011年8月2日)


    ●震災日録7月16日〜7月22日 森まゆみ

    7月16日 千葉・図書館フレンドの会

    千葉市に図書館建設を要求し、実現した以降もサポーターとしてがんばっておられる方たちから再度まねかれた。前回もたくさんの方にお目にかかり、その後、病気で記憶力がなくなったため、覚えていなかったりして失礼しました。
    実によい読者で、図書館で借りてもよむが身銭を切って買うことも大事にし、持って行った本は完売。うれしい。官僚の会で話すことがなんどかあったが、本はただでもらうものだと思っているらしく、有償なことがわかると本を置いてそそくさと帰っていくばかり。ほんとうに立場で癖がつくものだな。

    なかに石巻出身の方がいて話を聞いた。
    「ふるさとには父と母と二人。父は仙台の病院にいまして、母は前の石巻水産高校にみなさんの助けもあって3階までのぼって助かりました。自宅の1階は波が来て、新幹線も通ってないし、夫がバイクでみて来てくれました。地震保険をかけておいたのがラッキーでした。半壊だと半分しかでないのですが、全壊と認められ全額でたお金で、妹の住んでいる塩竈の高台のホームに二人で入居することができました。仙台の父は家が被災したことがなかなか納得できないので写真をいっぱい撮ってみせました」。
    被災者の中では、言い方は変だが娘さんたちの支えもあり恵まれたケースだと思うが、それでも晩年になって住み慣れた家を失った事実に変わりはない。

    会津出身の方も二人おられ、会津は今風評被害で観光客が激減して困っていると聞いた。世界遺産になった平泉には人は押し掛けているが、週刊現代の記事ではホットスポットがあるそうな。週刊現代の記者のうち、千駄木の寮にいる人がいるらしく、千駄木駅前の放射線量も高いことが記事に出ている。

    7月17日 サンドさん志保子さんと再会

    きょうは2時から本郷の共生センターで、文京区の映像をみる会。ヤマサキやオオギたちが区から委託されている仕事。

    第一幼稚園の松下和正くんのお母さんが撮った8ミリ。懐かしい山村園長先生。今思えばいまの私よりお若かったのかも知れない。懐かしいスモックのこどもたち。お誕生日会には男の子は蝶ネクタイを付け、お母さん達はみな着物。

    もう一本は湯島三組坂上、伊勢利というおおきな味噌やさんのフィルム。旦那、職人、丁稚、それぞれの恰好。マンサード屋根の大きな倉庫。関東大震災に焼け、ようやく昭和6年頃,すばらしい再建をしたのに1年後。B29の空襲でまた焼ける運命だとはだれが予想しようか。

    かえり、保存運動の仲間と来日中のサンドさん夫妻とスペインのバールで暑気払い。

    今日聞いた話。「いわき市の避難所はだんだん少なくなって、残った避難者はなんども移動を繰り返させられている。行政としては早く避難所運営をおわりにしたい。まるで掃き集められるように移動させられている」「文京区ではついに保育所の待機児童がいなくなった。小さな子を持つ親が関西や九州に避難したためらしい」

    東京新聞で俵万智さんが仙台から沖縄へ子供と避難したエッセイを書いていた。自分はどこでもやれる仕事、母親だけで身軽なので沖縄に来られた、とのこと。前海でのもずく拾いに小学生の息子さんは熱中し、おかあさんは集落での濃い付き合いやゲートボールに新鮮な暮らし。
    本当は子育てとはみんながこうできるべきではないかと思う。都会で出勤時間とにらめっこしながら弁当を作り、保育園に送り届けたりする日常はつらい。うちの末っ子も13歳で沖縄にいってずっと帰ってこなかったが、「どうしてお母さんは東京なんかで子供を育てようと思ったの」と何度、なじられたことか。見に行ったら、牧場を自分たちでつくり、犬とかけっこし、馬と泳いでいた。

    7月18日 なでしこジャパン

    きのう、本郷鳳明館にとまるというみんなについて、部屋で宴会のつづき。
    東向きのまぶしい光りに目が覚めてニュースを見ようとしたらワールドカップの中継中。なんとラッキー。後半戦、同点ゴールのところからみて、延長戦。絶対負けると思ってハラハラしていたら、あらららら、PK戦で優勝。突然、選手達が親しいものとなるのはメディアの魔術、ゴールキーパー海堀の少年のような笑顔、PK最後の熊谷選手の祈るようなかわいい顔、魚やのおかみさんになっても似合いそうな澤キャプテンの庶民的なガッツ。いいね。
    みんなのコメントはにたりよったり。みなさんのおかげで、夢のよう、声援ありがとうございます。無理に震災のことを言わないのはよかった。ひとりだけ丸山選手が「自分たちがはげました」といわず「大変ななかをがんばっている方たちに励まされて」といったのもよかった。どっちみちめったにない明るいニュースだ。
    それにしてもNHKのアナウンサーは中立ではなく、日本びいき過ぎてしらけた。相手のプレーも誉めなくちゃ。それに「アナログ放送終了まであと6日」が画面を占有してみにくかった。余計なお世話だ。

    7月19日 ロゴスなき国

    北上町に五感を研ぎ澄まし、自分で身を守れる子供を育てる学校をつくりたい、といったらH先生は即座に「無理ですね」という。

    教えられる先生なんていまの日本にいませんよ。なんせキッシンジャーに日本人に論理は分からない、といわれたくらいですから。大学でわたしが論理の話をしていたら、女性の教授が「論理以上に大切なものもある」なんていいだしてね。あなた、学問はロゴスでしょう、ソシオロジーとかバイオロジーとか、いったい何教えているのといいたくなりました。

    西洋にしてもキリスト教を布教するときにはロジックがいる。それで研ぎすまされて来たんです。イスラムもしかり、中国だって中原を制するにはそれなりのロジックがいりますよ。だから開国したってこんなロゴスの通じない国と外交が通商だと向うは相当苦労したでしょうよ。オバマだって旧約聖書に誓った。日本は共通の規範がないからみんな違う基準で原発でも生命倫理でも討論して、結局どこまで行っても結論は出ません。

    問答無用、以心伝心、切り捨てごめんなんてなにも論理ないじゃないですか。武士道とは死ぬ事と見つけたり、わかったようなわかんないような。でもすくなくともサムライまでは責任をとって腹かっさばいたじゃないですか。いまはそれすらしないでしょう。太平洋戦争でも東京裁判ではさばかれましたが、自分たちで自分たちの責任を追及しなかった。あれは勝者による裁判だなんて文句言いますが、なら敗者は敗者でちゃんと責任を追及すべきだった。いまは責任を追及している場合じゃない、なんていつもごまかす。住専だって年金だって、そうやってうやむやになりました。みてて御覧なさい、いまは戦犯探しはやめようなんて言ってるうちに原発だって誰も責任取らないから。

    7月20日 本をよむ

    3人以上で飲むとはなしが割れ、二つの会話が混ざるともう何も聞こえなくなる。特に女性の高い声は頭に触る。BGMがあれば最悪。食器や鍋の音もひびく。電気はまぶしい、クーラーの音もつらい。もう外では飲めないからだ。だから家で本を読む。クーラーは足が冷えるから、保冷材をタオルにくるんで頭寒足熱。桐野夏生『ナニカアル』。ホラーやミステリーは恐いのでよまないが、『東京島』はおもしろかった。

    この小説は林芙美子が従軍作家として南方を旅するうちに船員と切羽詰まった不倫をしたり、年下の記者と恋をして子供を宿したり、「ほんまかいな」と思うが、あってもおかしくない。林芙美子は実子を持たず泰ちゃんという養子をかわいがって育てた。小説は実はそれは芙美子が人知れず産み落とした子だという。「ありえない」と宣伝をみて敬遠していたが、図書館にたまたまあったので。
    小説はその辺が主なのではない。軍に協力し、軍に監視されながらも、戦場を観ずばおかじ、かかずばいられない作家の業。それを責める恋人の記者だって戦争協力する新聞社から給料と取材費が出て、南方で芙美子と会っている。出口なしの自虐。筆力のある小説に引きずり込まれた。

    「ヤノマミ」も本でも読んだ。清潔で若々しい筆。ノンフィクション作家の臭みがない。しかし何か故意に隠されていることがあるような。セスナ機はどこにおりたのか。そこから集落までは何でどう行ったのか。つらくなると逃げ出す保健所までは歩いて行ったのか。車はないのか。映像では毎日狩りにいっているように見えるが、本では男たちはナマケモノで、昼寝ばかりして、いよいよ食べるものが底をつくとようやく狩りに向う。映像と本はこんなに印象が違うものか、驚いた。

    7月21日 原発近くの声

    ようやく谷根千ねっとの方にも3本アップした。3月27日の反原発デモは全体を荒川俊児さんが撮り、私はデモの中に入って後ろ向きに歩きながらインタビュー、警官に危ないですからやめて下さい、と言われたが、中に入らなければ撮れないことも多かった。

    その後、ゲンパツのある近くに行って住民の声を取ってこい、との映像ドキュメント桜井均隊長の指令により、まず被災地に絵本とマンガを持って行ったさい、女川町のアリーナに同行者早川真理さんの友人を訪ねると、そのおとうさまが女川町議会でたった一人(いまは二人)40年間原発に反対しておられる高野博さんだと聞いた。高野町議も家を流され、避難所に生活しながら石巻の共産党仮事務所で精力的に活動されている。それゆけ、とその足で訪ね、追分温泉には7時に行かないと夕食がなくなるので、ぎりぎり40分話を聞いた。

    5月には七尾のでかやまのお祭りをみにいったので能登の志賀原発に反対するお二人、友禅作家の志田弘子さん、町議の堂下茂健一さんのお話を聞いた。
    といっても事前に志賀原発について調べていったわけでもないので、初対面だしとんちんかんな質問ばかりしてしまった。補償が出るのは漁業者だけで、原発ができたってそれ以外の住民には何も出るわけではない。それでも温泉旅行などアメがくばられ、反対すると村八分と言うムチが来る。
    「絶対安全だって国も大学の先生も言ってる」「原発がくれば雇用がうまれる」『地元自治体には電源立地の交付金が入る」などでみんなのこころの外濠うめられ内濠うめられ。そのときから反対して来た方たちは強い!

    ほかにも4月末には浜岡原発を、6月末には上関原発計画に反対する方たちの声をとって来た。私は眼の病後なので自分では編集できず、若い木崎さんの力を借りているが、ゆっくりアップしていきます。いままで作ったものは映像谷根千でご覧ください。じっくり集中すればどの方もすごいこと言ってます。⇒映像谷根千(http://yanesen.eizoudocument.com/)
    まず電源立地三法をなくすこと。安全だと一回でもいった学者は、学者の名前に値しないから大学を去ること。広瀬隆さんたちが、東電会長や原子力保安院の班目委員長らを刑事告発しはじめた。広瀬さんの「あおる」語調は好きになれないが、だれかがこれをしなければならないから見守りたい。

    7月22日 防災の専門家

    北里病院へ行って、谷井さんと広尾で話をして、よる、久しぶりに会った友人の防災技術者と話す。

    「ブログを見て森さん、よくやっているなとは思ったけど、海の近くに住むのはやめるという意見には反対。行政がどこに住むかを決めることはない。高台だって海が見えるほうがいい。危ないからやめろというのでは谷中や根津に住むなというのと同じ」
    「そうね。ただ20メートルの防波堤を作って海際に住めというのには反対。たしかに直後は漁師さんたちも今回だけは駄目だ、と海を怖がっていた。でも復興会議がだしたタイプ別町のプランなんかはよくないとおもう。ときとともに被災者の考えも変わるしね。根津辺りのおじいさんは百年に一回あるかどうかの地震のために鉄筋にする、暮らしを変える気はない。いざとなれば焼け死ぬからいいッていってる」
    「でもそういう人でもしっかり逃げるよ。今回だって津波の浸水地域の死亡率はせいぜい3〜5%、一番多い陸前高田で十数%、つまりあとの人はじょうずに逃げたということだ」
    「なんだかちっとも再建計画がすすんでいないみたいね」
    「阪神淡路のときは関西の連中は、どんどん勝手にやりはじめた。個人には出ないけど,共同でやれば金はついてくる。東北の人はおとなしいというか、自発的な活動が足りない気がするな。そうすると計画は上からふってくる。それに阪神のときは後藤田と下河辺がいてスピード感もあったし官僚の使い方も心得ていた。いまは政治主導と言って官僚に何もやらせないのに、自分たちにはアイディアも胆力もない」
    「復興を手伝わないの。行ってみたけど人がいない。それじゃ復興はできない。みんな行政がしてくれるのを待ってる。政府は補償するだけ,金の問題になってる。いっぽう一都市あたり調査に5000万、計画に5000万といった馬鹿げた金をコンサルなんかにばらまいている。土地の人が自分でやる気を出さなきゃどうしようもないぜ」
    「谷中でもコミュニティを防災センターに建て替える計画があって」
    「本気でやれば備蓄でも貯水槽でも自家発電でも、ものすごいお金がかかる。でもいざ災害のときにどれだけ有効かはわからない。それより森さんたちのやってきた井戸の水質調査とか、関東大震災の聞き書きとか,食べられる植物の調査とか、日常の研究とそれを通じたネットワークの方が効くんじゃないかな」

    みすずの守田さんも来てくれたので3時まで飲んでしまった。

    森まゆみ(2011年7月23日)


    ●震災日録7月10日〜7月15日 森まゆみ

    7月10日 ヤノマミ

    57歳の誕生日、朝和歌山のユタカから電話。多宝塔の解体修理も大詰め、震災や原発のことはほとんど意識にない毎日という。ヒロシがプレゼントにチョコレートケーキを買って来てくれる。サトコは手ぬぐいと無化調ラーメンの本くれる。ほんとラーメンずきはこまる。集英社の横山さんは毎年お花を贈ってくれる。

    昨日に続きほおずき千成市へ、ほうろうのみかさんのチキンライスは一年に1回ここでしか食べられない。相変らずうまし。

    3時から蔵で「ヤノマミ」を見て、制作者国分拓さんをみんなで質問ぜめにする。

    ヤマノミはアマゾンにいる原住民。シャボノといわれる円形の住居に共同で住む。真ん中は広い運動場。そこでお祭りや綱引きをする。原則一夫一婦制。採集経済で少し耕す。
    ほとんどハダカ。ことに女は保守的で何も付けない。赤い糸みたいな装飾、においのするくさや花を体に飾り、体に色でお化粧、縄文の石器の模様みたいな波や丸の模様を描く。
    食事はサルの頭とか野ぶたのこげたのをかじる。みんなで獲ったものはみんなで分ける。一日500カロリーくらいだそうだ。

    圧巻は14歳の少女が妊娠し産む。しかし自分で育てるかどうか決め,育てないと判断した場合は首をしめ、バナナの葉にくるんでシロアリの塚にいれ食わせてしまう。女が性の自己決定権を持っているわけだ。もういい悪いとは言えない世界。中絶技術は持っていないらしい。

    尊敬する佐藤忠吉さんは『生産力を人口が上回ったら戦争や間引きは避けられない。それは人類愛の究極の姿」と言っておられたのを思い出す。勇気ある発言だが。
    優れたドキュメンタリー作家は原一男にしても池谷薫にしてもどこかワルな匂いがする。国分さんもどこかそんな感じのひと。撮るときは撮るんだもんね。どんなに嫌がられても。
    それにしても自分が近代という視点から何でも考えているのを省みる。
    ヤノマミも貨幣経済や近代に侵されているところはきれいにトリミングされていた。台湾や中国、タイ奥地、インドネシアカリマンタンなどの村は言ったことがあるが、まさかアマゾンでは住めまいなあ。

    7月11日 夜のピクニック

    一日仕事。夜、アンノ画伯を囲んで食事。たのしい。
    丸森の友人から電話。「次ぎはいつくるんですか? 船は直してますが、いまこのへんの魚はちょっとどうでしょうか。もう3年くらいは無理でしょうかね」
    石巻の友人から電話。「月末に韓国にいこうよ。被災地だけにいちゃいけない。新しい発想がわかないもの。不登校児を集めた学校を観に行くんです。足が痛いならおぶってあげますよ」。ちょっとその気になる。
    恩田陸『夜のピクニックを読む』名著。なぜこれまで読まなかったのか。

    7月12日 ガイガー君と散歩

    伯母近藤富枝のところへ行く。しきりと「原発を止めなくてはいけない」「これからの子が可哀想だ」という。
    日本橋に生まれ、母方は神田で、田端に育った話を5時間聞く。しらないことがいっぱいあった。
    「うちは母方も父方も江戸からいるから江戸っ子ッてわけ。あんたは森家の宮城の血が入っているから江戸っ子じゃなくて東京人だね」と伯母はいう。

    従兄弟にガイガーカウンターをわけてもらった。旧ソ連製の武骨なヤツだが性能はいいという。まあ東欧ものマニアがほしがりそう。家の中は0.06〜0.07くらい。さっそくヒロシはガイガー君と夜の散歩に行った。

    7月13日、14日 味村治を忘れない

    一日家でしごと。菅総理が脱ゲンパツ発言をしたって。信じる気になれず。しかし丸山真男は『戦後民主主義の虚妄に賭ける」といったからなあ。虚妄でも菅に賭けてみるか?

    ヤマサキはいわきに行ってきて、話す元気もないらしい。避難所の職員に対して避難者たちの話し方が横柄だと書いていた。私もそう思った。

    松本元防災大臣が自殺未遂、と夕刊紙に出ていたがガセネタのよう。それにしても「水平運動の父」を祖父に持つ人がこれだけの財産を作るには何をしたんだろう。
    枝野さんは家族をシンガポールに逃がした、というのは根も葉もなく、名誉毀損で訴えるとか言ってるらしいが、誰を?
    「ただちに影響はありません」と言っている人が、実はというところが都市伝説のおもしろさで、目くじら建てることもないのではないか。ただ行ってませんでした、というデータを出すのがスマート。
    そんなこといったら皇室に関する流布している伝説の数々、いちいち名誉毀損で訴えてたら皇室の方々は身が持たないだろう。あの人たちは耐えているんだ。皇室の若い人たちだって財界の娘息子だってかなり国外に行ったんではないか、と思うが、それは悪いことではない。

    それより佐賀県知事や玄海町長と九州電力の関係のほうが騒ぐ価値がある。もと電力出身とか、弟の会社が電力からしごと受けてるとか。「なじらない」「あおらない」のは大事なことだけど、責任追及しないから日本はこんなことになった。裁判官で電力会社に天下りした人の名は元最高裁判事、味村治。覚えておきましょうね(東京新聞)。

    7月15日 立ち上がる気になるまで

    仙台の結城さんから電話。

    「復興構想会議だなんて、まだ何千人も海の中にいるんだし、百か日も過ぎないうちからがたがた騒ぎやがって、うるせえッて感じだな。何にも現地を知らないもんが、ちょっとした思いつきを上からいってるだけ。森さん、わかるでしょう。町づくりだって本当にやる気のひとがそこにいなくちゃ外から何言っても駄目だよね。立ち上がる気になるまで辛抱強くまつしかない。
    あいつら漁業のことなんかなんにもわかんねえんだ。だいたい900万くらい平均の売り上げはあるが、船だオイルだ網だ船小屋だと経費に700万かかって200万しか残らないのがいまの漁業、それでもやってんだよ。何のためか、考えてほしいな」

    農家も平均収入130万とかだが、漁業のばあい板子一枚下は海、命がけで年収200万はつらい。酪農の売り上げは4000万とかあっても3000万が飼料代、3人雇ってぱあ、と前に新聞に出ていた。鉛筆と紙、じゃなかった、いまはパソコン一台あれば仕事ができる私には申しわけない気ばかりする。キリンの工場再開、トヨタが東北を生産拠点にするとのニュースにちょっとうるっとする。

    森まゆみ(2011年7月15日)


    ●震災日録7月6日〜7月9日 森まゆみ

    7月6日 節電キャンペーン

    歯の治療。母の作る団扇はほおずき市を待たずして安田邸で売れているとか。自分自身、何をしても無力な感じ。もの言えば唇寒し、というか。それで前回そっけないブログになった。

    地下鉄のマンション広告は長い間、オール電化をうたっていたが、最近、免震構造になった。同じマンションなのに。節電も。東電と政府のオール日本「贅沢は敵だ」キャンペーンであって、電気はあまっているのだという噂も。さんざんウソのデータと隠蔽が続いただけに何も信じられない感じ。だいたい本日の供給に対する使用料は94%という地下鉄の表示も、私なんか「あと6%もあるじゃない」と楽天的になってしまうが、電力は危機感を煽っている。

    7月7日 復興でもうけるコンサルタント

    松本大臣の言動をみたら辞任も当然と思うが、だからといって「一生懸命やっている被災地の知事に失礼」とも思わない。
    ある人いわく、宮城県の村井知事は復興計画に地元住民をほとんど入れずに野村総合研究所かなんかに丸投げしたという。
    岩手はどうなんだ。元岩手県知事増田さんは野村総研の顧問かなんかやっている。コンサルタントの友達に言わせると、被災地はしごとの取り合い、でもほとんど大手に持っていかれるとのこと。
    別のある人いわく、「菅をおろせと言ったって、ゴミ箱の中からこれしかないかあって拾ったような総理だもの。またゴミ箱からだれか拾うのかなあ」。そんなかんじに政治不信も極まれり。
    ユーチューブなどで政治家をよく見られるので資質や品性はよくわかるようになった。いまのところ見てて好感持ったのは河野太郎かな。

    イギリスで最大の新聞が盗聴によって廃刊。

    玄海原発について7人しか住民のいない説明会というのも目を疑ったが、やらせメールまでして企業としての信頼はもうないんだから九電もいったん解体したら。東海村などでも死亡事故が起きているのに役員を業務上過失致死などで逮捕しないのは法治国家とは思えない。
    東電だってこれだけの被害と避難を引き起こしたら司法が動いて当然ではないか。北海道の鉄道事故ではすぐ捕まえたじゃないか。もちろん国策としての原発を推進したのは官僚だ、東電ばかり叩いても仕様がない、とみんな言う。といって結局マスコミも長年、官僚の天下りひとつやめさせられないのだから。

    7月8日 日本は旧ソ連以下

    信頼するH先生と話す。
    福島の子どもたちを集団疎開させないといけない。しかし行政もなにもしない。日教組も昔は「教え子をふたたび戦場に送るな」と言ったりしたのに今回存在感なし。帝国憲法化の戦時日本だって、次代を担う子どもは集団疎開させたのに。旧ソ連だって何千台もバスを仕立ててこどもたちを避難させたのに。いまの日本政府は旧ソ連以下、旧大日本帝国以下、いくらだって予算を使うべきなのはこどもたちの疎開ではなかろうか、と先生は言う。
    育児手当をつけたってこれから子供を生む人は少なくなるだろう。

    丸森の友人にようやく電話。
    「人によって温度差がある。気にしない人は気にしない。子連れでも出たいけど遠くに親戚もないし、長逗留できるほどの友人もいないし、第一お金もないし、ここで我慢するしかないということになるのよ。牧場では草の放射線値が高いから牧草をほかから買っている。そのお金はいつかは補償されるのかも知れないけど、いますぐ金がいるんだ、とおこってる。うちは福島方面からお客さまが増えた。丸森の方がずっと福島や梁川より低いから。福島の果物はおいしいんだけどねえ。いまはちょっとねえ」

    夜、谷中コミュニティで3・11を踏まえて建て替えを考える会。住民60人以上集まる。台東区から課長3人、係長ひとり、聞きにきてくれる。文京区では考えられないこと。住民も拍手で迎えた。何かが変わる兆し。
    南三陸町でユニセフスタッフとしてながく避難所のしごとをなさった建築家松下朋子さんの話。阪神淡路のときの看護師橋詰まり子さんの話。お寺には井戸もあるし、広い本堂もあるし、境内も広いし、そのネットワークを災害時使えないかという話。
    たしかに関東大震災時には向ヶ丘光源寺にも何百人も2ヶ月避難生活をしていたと住職に聞いた。この回の震災でもかなりの寺が避難所になった。
    寺は宗教施設で檀家のものであり、ひとを救う施設だからこそ税金をはらわなくていい、ということを思い起こす必要がある。

    7月9日

    昨日のことをつらつら考える。町会というシステムは戦争協力をしたというのでGHQに解散させられた組織だ。それが戦後、復活して自治団体というより行政の下請け化してきた。
    町会にも町会長や役員にもよるが、ヤマサキは30年前、町会の会合に出席の返事をしたら役員揃ってでないように説得にきたということだ。谷中のNさんは最近こして来たのに同じようなことがあったと言う。「来ても役員ばかりでつまらないから来ないように」といわれたらしい。幹部だけで決めたい、ということか。それが嵩ずると私物化が始まるのではなかろうか。
    谷根千を発行する間にも、もちろん個人的にはいい方が多かったが、組織としては形骸化している感は否めない。町会に入っていない人も多いし、町会だけが町の正式な代表というのはどんなものか。

    きのうの会で元気な子連れのお母さんが「冒険遊び場を作りたい」と発言し、年配のお母さんが「初音の森は歴史的な場所として保存したのだから荒らしてはいけない」と答え、いろいろ考えた。
    私たちも25年前に世田谷みたいに木登りもできる、火も水も使える冒険遊び場をやりたかったのにできなかったから、若い母親を応援したい気持ち。でも「きのう今日来た人たちが歴史を踏まえず勝手なことを言い出すのは困る」という気持ちも正直言って少しある。

    谷中や根津のような古い町は、焼けなかっただけに何代も続く住民が我が物顔になりがちで、戦後来た三崎坂の野池さんなんかもいまでこそ連合町会長だが、さんざん新参者と言われて苦労なさったらしい。私のうちも親が二人とも下町と山の手の空襲で焼け出されて動坂に来たわけだが、それは親のせいではない。戦争のせいなのだ。何代も続く住民もきのう来たばかりのひとも同じ権利、同じ発言権がある。これは当たり前のこと。ただ昔からいる人の見てきたこと、知っていることは尊重すべきこともある。谷中たねっこなどのお母さんたちも子育てセンパイである我々に何か聞いてくれればなあと思う。

    ともかく原発によってふるさとを失った人たちが行った先で「よそもの」「しんざんもの」などといわれないように私たちはがんばらなくては。

    いっぽう昔を訪ねれば、谷根千は北條時代は同じ人の地行地であり、あとから行政が引いた線で、文京区だ台東区だとおたがい批判しあい、区民じゃないから口を出すな、というような考えにも首を傾げる。
    台東区民も森鴎外図書館でよく見かけるが、税金はらっていないから使うな、などという人はいない。谷中コミュニティセンターも文京区の人が使っている。そりゃ小日向の施設へ行くよりよりよほど近いのだもの。
    今回の震災の経験を見ればわかるように、人はより近くて安全なところに向う。私も化学薬品や実験用動物が多く、ビルだらけの東大に逃げる気にはなれない。谷中墓地方面に向うと思う。とはいえ防災センターについて意識の低い文京区にも区民として働きかける必要はある。

    森まゆみ(2011年7月13日)


    ●震災日録6月28日〜7月5日 森まゆみ

    6月28日 冷房なしの夏

    久しぶりに家にいて原稿書き。昔の夏を憶い出す。お風呂に入ったあとに扇風機の前で涼んでシッカロールをつけてもらったこと。そういえば冷蔵庫もなくて、黄色い木の箱の上の段に氷を入れてそれで冷やした。毎朝、のこぎりで氷屋さんが家の前で氷を切っていた。冷蔵庫はなくても蠅帳があって網戸の茶箪笥もあって朝の残りは昼過ぎまでは大丈夫だった。首に保冷剤を手ぬぐいに包んでまくと涼しい。

    6月29日 鳥取大学

    鳥取大学へいく。半分くらいは谷根千の活動について。残りは3・11以降のこと。

    3月27日の反原発デモの映像を見せると、「これほどのデモが東京で起こっているとはしらなかった」「テレビや新聞で見るより現状についてリアル」だという意見は多かった。しかし東京電力に対する若者たちの『社長はでてこい』『東電あやまれ』といったシュプレヒコールについて、失礼だとか、こんなこと言っていいのか、自分だって電気を使って暮らしているから同罪ではないか、といった意見もあった。

    いまの若い人は大衆行動の経験がなく、ひとに対してやさしいけど傷つくのをおそれている、といわれるが、怒りや権利を表明することに慣れていないようである。電気を使うことと原発を推進してもうけることとの区別もつかないのには少しびっくりした。

    6月30日 木次の農園

    智頭の石谷家を見学し、出雲の佐藤忠吉さんに会いにいく。「この世の浄土を島根に作る」「迷った時には歴史に遊べ」。いいことばだなあ。

    7月1日 石見銀山

    夕方、石見銀山群言堂の松場登美さんとツナミカの相談。
    島根で太陽光発電を屋根に載せたらその上に雪が積もり、それが凍ってかちかちになり、雪下ろしもままならず、その重みでソーラーごと瓦がずれ、雨漏りがして大変だったとのこと。自然エネルギーもまだまだ研究開発中。島根の海岸沿いにはたくさんの風車が見える。

    7月2日 青鞜の冒険 

    車で広島にでて新幹線で帰京。平凡社「こころ」の青鞜に関する原稿を書く。

    最近、匿名の非難が震災字報のコメントなどにも来るが、よくブログをチェックしているなあと感心。正確に述べると『保身が目立つ』と来る。建築関係者のようだし、文体や内容からも一人のひとの仕業にちがいないが匿名は卑怯だ。読んだ友人はみんなだれだろうといっているが反論のしようがない。
    田中正造も平塚らいてうも南方熊楠も、どんなにバッシングにあっても自分が正しいと信ずることを行った。その強さに学びたいと思う。

    7月3〜5日 軽井沢へ

    昭和4年の建物を入手して修復された方の家を見せていただく。軽井沢は湿気が強く、あまり使われない別荘は、旧軽でも傷んでいるのを散見する。
    帰って来て新刊「おたがいさま」ができたので編集者の倉沢さんとビール。今朝の新聞によれば松本大臣辞任。

    森まゆみ(2011年7月5日)


    ●震災日録6月24日〜6月27日 森まゆみ

    6月24日 由布院記録文化映画祭

    ほんとうに麻は涼しい。そして風呂桶に水を貯めておけば熱い時ざぶんと入れる。緊急時によいし、洗濯にも使える。今日はこれから由布院の記録・文科映画祭。昼ころ、大分に着く。由布院までバス。
    夜まで何をしようか。まずトリ塩ラーメン、そして乙丸温泉。そしたらくぬぎやさんでリコーダーの演奏会があると知り行ってみる。緑の葉が揺れるのを見ながらの透き通る響き。

    夜は松川八洲雄『みちのおく』。何度目だろう。インタビューは使わず、映像とコメント。頭の中で活字がテロップになって流れる名文だ。今のドキュメンタリーでこれだけ緊迫したコメントを書ける監督はいるだろうか。でも私はそれが不満だ。なぜ人々の声をもっと使わないのかと。何度見ても一番頭に残るシーンはハンディのある人たちがパンをこねるシーン。「みちのおく」といっても岩手中心。みちのくは差別用語だと言う人がいるが、音感はきれいだと思う。

    三角やさんに泊まる。

    6月25日 松川賞

    あさから土本典昭『原発切り抜き帖』。切り抜いた記事だけでこれだけの映画ができてしまう。小沢昭一のナレーションもすごい。それに先駆的、今もちっとも変わらない。松川賞受賞作は4本のうち、3本がテレビ番組、一本も文化映画はなかった。

    『ばっちゃん引退』は、広島の基町で活動する保護司のおばちゃんの話。導入はNHKらしからぬ斬新さ。でもモザイクや音声変換は説得によって避けられなかったのか。不良とか更生といった言葉への違和感。いかにも人がよさそうなディレクターの存在、やっぱりNHK的だという感じ。

    『原爆投下を阻止せよ』は、終戦の3ヶ月前に戦後の日米貿易などを見越してビジネスと天皇制を温存しようとしたグルーら東部出身のエリートたちとと、あくまで原爆投下にこだわった南部出身のバーンズらの対立を分析。
    力作だし、いいもん悪いもんに分けないのはいいが、挿入される学者やジャーナリストのコメントがいかにも具合よくちりばめられているうえに、その内容にも疑問が多く残った。全体にエヌスペの定型を出ていない。あとできいたら広島局の独自番組で、予算もそうなかったとのこと。でもこういう番組は放送文化基金賞に応募すればいいのではないか?

    『キューバ・センチメンタル』は、人類学者が留学先の国で出会った友人たちの鬱屈を撮る。マイケル・ムーア『シッコ』などでは、アメリカと違って教育も医療もタダの夢のような国として描かれていた。ここで描かれているのはみんなで貧乏なら恐くない、とでもいうべき国。
    世界遺産の文化財担当者や医師といった専門職でも1ヶ月15ドル、20ドルといったものすごい低い給料で、政治的自由もない。それでつぎつぎ友人たちは国を出て、アメリカ、オーストラリア、チリ、バルセロナへ。残された若者の淋しさ、出て行った若者の寄る辺なさ。
    「やっと夢の部隊がアリゾナになったわ」「稼がなくても、納得のいくしごとをして、たたかうべき時にはたたかう」「僕らの乗ってきた船は焼けてしまった」と印象的な言葉がたくさんあって胸が焼けるような思い。それでも資本主義社会や浅い付き合いに違和感を感じ、かつての本質的な会話ができた仲間たちがなつかしい。

    『むかしむかしこの島で』。米軍撮影の沖縄戦の古いフィルム、それに写っていた人々の表情。初めて捕虜になった老夫婦は、敵に情報を教えたかどで日本軍に「適当に始末され」る。地域の肖像権をとらえたいい番組だが、すでにあちこちの賞に応募しており、5年前の番組というのもちょっと困った。アナウンサー、平良とみ、ディレクターと三種のナレーションが入るのもやや煩わしい。

    結局コメンテーターの3人が「キューバ」にいれ、1人が「むかしむかし」に、観客賞は「ばっちゃん」にと、票はばらけた。まあ応募する以上、どんな感想や意見にも耐えなくてはならない。しかしそのあとに見た『カンタ・ティモール』が今年のベスト作品だ。これを見ただけできたかいがあったというような。30そこそこのたおやかな女性が撮った骨太の作品。監督のトークも素晴らしかった。チモールで起きていたことへの無知を恥じるしかない。きょうはいよとみ荘にお世話になる。

    6月26日 スミコさんに乾杯!

    朝一番の『死んどる暇はない』の増永スミコさん、大正12年生まれにぶっ飛ぶ。
    高等小学校を出て看護婦の資格を取り、助産婦として働き、職場に労働組合を作り、退職後はずっと一人で憲法9条を守る闘いを続けている。三菱重工爆破事件の死刑囚と養子縁組する。駅頭での署名が2人しかなくても「バス停で背中で聞いている人がいればいい」という。娘さんは医者となって未婚で2人の子供を生み、母を支えている。母のために就職口がなくなっても。母と娘は同志。

    ツカレタのでこれで紹介終わり。あとの4本もよかったですよう。今晩は、わらび野にお世話になる。部屋に露天風呂つきという贅沢。ぬるめの湯に一時間つかりいろいろ考える。

    6月27日 日出生台演習場

    由布院は憧れの温泉地と皆は思っていて、由布院に行くというと「いいわねえ」とため息をつく人が多いが、実は近くに自衛隊の駐屯地があり、その奥に日出生台という自衛隊の4900ヘクタールの広大な演習場がある。すごくきれいな里山だ。ワラビやタケノコの宝庫でもある。話はよく聞くが現地をみたのは初めて、しかもよく理解していなかった。
    演習場ができたのは戦後ではなく、日清戦争後から。百戸の農家と田畑を立ちのきさせて作り、小倉の師団などが演習した。
    戦後は400戸の開拓農民が入ったが、まもなくGHQが占領。農民はまた追い出され、米軍が駐屯して1万6000人の米兵、4000人の韓国兵、700人の売春婦が常駐、由布院でも米兵による暴力事件が相次いだ。
    占領解除となってからは自衛隊の演習場に。そして1996年、米軍はキャンプハンセンで行っていた実弾演習をここほか本土5カ所で行うことに決めた。私はこのとき、由布院のみなさんに呼ばれてなぜか樋口一葉の話をしている。
    演習場の中には県道104号が通っており、周辺には農家もあり、事故が起こらないのが不思議。自衛隊は1年に300日以上演習をしており、米軍も使っている。演習による山火事もふえているという。

    そこから、杵築の女性たちに脱原発の活動についてお話を聞きにいった。「できた原発については運動は盛り上がらない」ということで、主に祝島の上関原発の反対運動に参加している。このことについてはそのうち映像で。

    森まゆみ(2011年6月28日)


    ●震災日録6月16日〜6月20日 森まゆみ

    6月16日 東京駅屋根のスレート、最終報告です。

    3ヶ月した頃が一番疲れが出るという。石巻から気仙沼、その様子を見てきただけで疲れがどっと出て歯が浮き、腫れて来た。被災地のみなさんのつかれも思いやられる。

    東京駅のスレートについても、出る釘はうたれるのたとえ通り、ブログに対する誤読や批判の匿名のメールが来るようになり、心は重い。この国では何かを率先してやろうとする人の足を引っ張ることになっている。まあ、それは谷根千で経験済み。

    この話自体、被災地の小さな企業が困っていることの実情をたった17人の人に回したメールがきっかけだった。それが要望書に発展し、あっというまに5000人の賛同者が集まったことにも驚いたが、ネット社会の恐さも感じた。またそれぞれの新たなコメントが付けられて伝言ゲームのようになってしまう。
    とにかく被災スレートは使えるだけは使っていただけることになったので、ほかにもしなくてはならない仕事は山ほどあり、私は東京駅のスレートについてはこれで終わりとする。現況については「赤煉瓦を愛する市民の会」のホームページでご覧ください。

    *「スペイン産瓦を元々7割も使う予定だった」ことについては私たちは知るわけもありませんでした。4月にJRから聞いてあたらしくわかったことはその後、賛同者の方たちへは報告してあります。

    *賛同者のなかに塩害を心配されている方がいたので、独自に調べてみようとスレートのかけらを持ってきましたが、それは道路などに散乱していて瓦礫として片付けられるべきものを熊谷さん、木村さんの許可を得て「どっちみち使えないものだからどうぞ」というのでいただいてきたものです。塩害はまったく心配ないようです。

    *いっぽう「雄勝のスレート産業を復興する会」の口座には現在、おおくの支援金をいただいております。この場を借りてお礼申し上げます。代表者がないと口座が開けないので、いちおう私の名で作りましたが、「東京駅を愛する市民の会」へ通帳はお渡ししました。これはJR東日本とはまったく関係ありません。これから洋館を葺く国産材スレートを確保するため、地場産業を育成するためのものです。

    6月17日 アンペアを減らす

    東京電力に電話をして「節電に協力したいのでアンペア数を減らしたい」というと翌日、作業の人が来てくれた。ここに引っ越して以来、アンペア数はこんなにいらないんじゃないか、と思いながら忙しさにかまけて変えなかった。60アンペアあったが、うちの電気の使用量では40あれば充分のようだ。エアコン一台で最大18アンペア、それと同時に電子レンジを付けると14、15アンペア、照明用電気は一個2アンペア、何時もついている冷蔵庫が2アンペア、パソコンを入れても30で大丈夫そうだが、余裕を見て40にした。これで基本料金は1638円から1092円に。1年で6000円、15年で9万円も東京電力に余分にはらっていたことになる。バカな私。

    6月18日 東京のバックヤードとしての東北

    歯がますます晴れてきた。毎日眠りの質も良くない。夢を見る。
    なぜか田舎で私は馬を飼っていて、茅葺きの小屋に暮らしている。小屋をたたんで東京に帰るので、父と母が見に来た。夕鶴のよひょうみたいなおじさんが送別会をやってくれ「あとは馬の世話はしてやっから」というのだが、母が手招きして呼ぶので行くと、「さっき馬の世話代だと言って50万円払わされた」という。大好きだった田舎に裏切られた気もちになって泣きながら東京へ帰る、という夢である。
    寄田君が南相馬に被曝馬救出に行ったら持ち主にお金を要求されたという話を聞いたせいか。ユングが聞いたらなんていうだろう。

    2時から記憶の蔵で、「東京のバックヤードとしての東北』を見る。

    「和賀郡和賀町」

    岩手の内陸部の町、8月のお盆にはみんなが帰ってくる。仕事がないので東京に出稼ぎにいった人たち。成人式、運動会、戦死者の慰霊祭も行われる。体育館で酒を飲みかわす未亡人たち、皆和服で大きな髷を付け、金歯が光る。男たちはそれぞれの戦争体験を語る。人肉を食べた話、捕虜にきんぴらごぼうを食べさせたら「木の根を削って食べさせた」としてBC級裁判で長い判決を受けた話。町長は、列車の車掌をしていて学生が横文字の読んでいるのを見て発奮して二高から帝大に進み、内務省で戦時の徴用令を書いたという。いろんな人の人生、そして第三次構造調整で農家の集約化が始まり、二男三男は東京の傾斜生産方式による高度成長を支えるための労働力となっていく。

    たしかに。東北道を走っても、常磐道を走っても、倉庫、石油タンク、火力発電所、すべて東京を支えるためのバックヤードだと感じることが多い。東京にもいくつもの面があり、私たち谷根千の町のように、大企業に勤めないで好きなことしてどうにか暮らしている人が多い生活都市東京もあるのだが。

    「富ヶ谷国民学校」

    NHK近くの富ヶ谷で集団疎開のころの貴重なフィルムが見つかった。とったのは井上医師。こどもたちは次世代の戦力温存のため、まずは静岡へ、それから青森へ集団疎開する。食べ物は大根飯に大根の味噌汁、南瓜の煮付け、でもみんな縄跳びやチャンバラごっこで発散、シラミはうようよいた。中には広島へ縁故で移転、原爆で死んだ子もいる。戦後に十数年経って、かつての仲間が集まる。もう憶い出したくない、という人も。なつかしい、と言う人も。子どもだけでも安全な田舎に逃れさせほっとした表情の両親。

    フクシマの子供たちも、集団疎開させた方がいい日が来るのではなかろうか。共同体がうまく機能している面もあれば、避難する意志を鈍らせている面もある。お上意識の強い東北では、まず知事がその先頭に立ってよびかけないとだめかも。そういえば日教組は何をしているんだろう。影うすいな。

    6月19日 ちゃ太郎らいぶ

    我らがウーロン亭ちゃ太郎さんが、ブリックワンへ帰って来た。着物に羽織のオペラ落語が、こんどは真っ赤なジャケットでオペラとファド。あいかわらずのわかりやす〜い独自の解釈で湧かせる。それにしてもみんなで歌うっていいなあ。

    「くらいはしけ」は原題は「黒い船」
    波にのまれる恋人の船。

    〜愛するあなたは死んだんじゃない、いつも私と一緒とみんなが言うわ〜

    ちゃ太さんの名訳。ああ、石巻で歌ってほしいな。もうすこししたら。
    北上で聞いた話を思い出す。押し寄せる津波に、船を守ろうと海の男は津波に向って船を出した。なんてバカな。無謀なことをするの。高台で知り合いのおんなたちはみんな泣いてた。でも男はみごと波を乗り切って安全な沖にでて、無事に帰ってきましたとさ。家へ帰ってからもユーチューブでファド漬け。

    フクシマ2号機、換気。南風。(http://www.dwd.de/wundk/spezial/Sonderbericht_loop.gif)

    6月20日 巨大情報サーバービル

    とうとう静岡のお茶からもセシウムが出てしまいました。5月末に静岡に行ったときは箱根の山でさえぎられて静岡は大丈夫と言っていましたが。海江田経産相の再稼働の発言に、原発のある県の知事は反発しています。

    <東電も政府・財界いかにせむ、まされるたから子にしかめやも>

    「いのち」の観点からすべてを考えればとてもシンプル。
    町であう赤ちゃんや子どもがかわいくて嬉しくてありがたくてしかたがない。
    鎌田慧さん澤地久枝さんたちが、原発是か非か国民投票をしようと呼びかけておられる。
    趣旨には賛成だが、いまの日本ではイタリアと同じ結果になるかどうか。
    イタリアとドイツと日本で脱原発三国同盟を作ろうという案もある。おもしろいけど
    他にも入りたい国があるんじゃないの?
    薮下で蛙のぺちゃんこになった死体を見る。薮下の景観はすっかり変わった。30年前を知っていると、谷根千も建て込んで、つまらない町になった。

    <いまごろになって谷根千いいという人が多くてわれ鼻白む>

    千駄木駅前のNTTは、地域住民の反対を押し切って工事を着工。こんな下町の商店街の真ん中に、巨大な窓もないような情報サーバービルを造ろうなんて常軌を逸しているが、よみせ通り商店街は反対したのかな。地域振興には何も寄与しないビルだ。これが既存建物の増築だとは、ばかも休み休み言ってほしい。許可した都、責任のがれの区はなにを考えているのだろう。ぜったい、近隣住民の役に立つどころか、景観上も生活の質を下げるうっとおしいビルになる。東電とおなじくNTTは大スポンサーなのでメディアも東京新聞をのぞいては書かない。電磁波、低周波、換気扇の熱風や騒音の被害が予想され、東電とおなじく住民に健康被害があってからでは遅い。

    6月21日 谷中コミュニティセンター

    同センターをせっかく防災に力を入れて建て替えるなら、3・11以降の知見・教訓をいれたものに、ということで、台東区に意見交換に行く。地域住民への説明会は開かれているが、まだ参加者も少ないし、いまなら関心も高いのでざっくばらんに話し合う会をしたいということで、合意。7月8日夜に行われる予定。

    6月22日、23日 小諸へ

    島崎藤村や木村熊二のことでずいぶん昔たずねた中棚荘で藤村文学賞の選考。これは一般市民、高校生、中学生などのエッセイを対象とするもの。高田宏さんはじめ選考委員も気の会う人ばかりで楽しみである。選考いがいでも今回の地震や原発事故についていろいろ教えられる会話があった。
    「災害は人間の値打ちのリトマス試験紙」という高田さんの言葉がわすれられない。伊勢湾台風から取材をしてこられた高田さんは、遺体から金歯を抜き取るような人もいれば、新妻を流れている家の屋根に押し上げ「お腹の子をよろしく」といって力つきた夫もいた、という話をされた。まるで映画『タイタニック』のようなはなしだ。伊勢湾台風のあと、高田さんはあまりに凄絶な現場を見、泥のなかを漕ぎ回ったせいか体調を崩したという。またチェルノブイリの事故の後、3日で野間宏、針生一郎と3人で反核声明を出したという。そんなことがあったとは知らなかった。

    森まゆみ(2011年6月23日)


    ●震災日録6月12日〜6月15日 森まゆみ

    6月12日 睦奥宗光とちりめん本

    日曜日、根岸小学校に明治10年代の洋館、睦奥宗光邸とそこがちりめん本の版元となった興味深い話を聞きにいく。かえりに「そら塾」路地の奥の長屋にある那須の野菜をふんだんに使ったおいしいお店だが、店主の夏澄さんがふるさと那須に帰るので8月いっぱいで閉店とか。子供を通わせていた保育園が、給食の材料の産地などを開示しないのでついに退園届けを出したというツイッターを見る。

    6月13日 追分温泉にて

    朝早くの新幹線で寄田勝彦さんと石巻へ。JR東日本は新幹線使ってどこまでも一日1万円キャンペーンをしており、見舞やボランティアで大変な混雑。仙台で東北本線に乗り換え、松島へ。そこから車で石巻へ。
    松島は思ったより津波の被害がひどくないように感じた。波の当たる角度とかもあるのだろう。

    熊谷産業へついて昼ご飯。ちいさなプレハブの社屋には来客引きも切らず、事務の女性たちもその喧噪の中で仕事を続けている。1時に坂下清子さんが現れ、ツナミカの手仕事について相談。そのあと熊谷秋雄さんの案内で、なくなった本社のあと、北上町役場のあと、秋丸の信じられないような美しい宇宙、アカマツの林をはしっていると雉子のつがいが飛び出してきた。「わあ、きれい」というと熊谷さん「うまそう」という。ここでなにができるか。

    ゆうがた、被災した田んぼの見える露天風呂に入る。夜はまた追分温泉にお世話になる。避難者は4月より増えているのみならず、工事会社の人たちもいて少し雰囲気が違う。4月のときかわいかったさくちゃんが心なしか大きくなっている。みんなのアイドル。

    ここで働いているSさんの話。

    「地震の時は家にいました、夜勤明けの長男とのんきに大自然の驚異だねえ、などと釜谷のほうを眺めていました。まさかこんなに北上川を津波がさかのぼってくるなんて。見てるばあいでない、と長男がいって、軽トラに乗って逃げました。となりの小父さんも地震のあとで戸板を直していましたので、早く逃げらいとこえをかけました。とちゅうで孫を二人連れたおばあちゃんも引っ張り上げて、橋のところへ来たらもう車が流れてきた。左折して長尾の友だちのところへ行ったらそこは高いので大丈夫だった。
    雪がふってきて、何も上衣を着ていないのに気がつきました。外で火をたいてあったまっていると、誰か来て「追分温泉に行けばいい」というので車で行きました。ここはその日から布団に寝られてありがたかった。よそでは毛布一枚で震えてたって。

    お父さんはデイサービスに行ってたので、そことも連絡がつかなかったけど、高台だからきっと大丈夫だって、信じるしかなかった。一週間後、行ったけど動けないからごめんね、ここにいてね、といったの。それで息子とここで過ごしています。
    お父さんが倒れてから田んぼはひとにお願いして、私がここで働いてどうにかやってきました。二男も熊谷さんとこで働いていますし。お父さんがどうしても帰りたいというので、一度連れて行きました。変わり果てた我家を見て言葉に障害があるのであーあーとしか声が出ません。が、いま帰れないことがわかったみたい。

    そうですね。なくしたもので残念なのは、お父さんがリハビリで塗った絵がたくさんあったのにね。あれがあればねえ、せっかく塗ったのに。あと息子が南の島を旅したときにたまたまインタビューされた新聞の記事とかね。預金通帳? たまたま持って逃げたバッグにはいっていたけど赤字だからそれはどうでもよかった」

    20年世話した夫にこんなやさしい目を注げるなんて素晴らしい方だと思いました。

    6月14日 大川小学校

    2年後にはゴミとなり、プレハブ業界だけがもうかる仮設住宅。政府が予算をつけたのでそのパイの取りあいになっている。そうではなく「国産材による、地元に雇用が落ちる、本建築の復興村」を目指す熊谷さんの話を聞く。防災都市研究家の佐藤隆雄さんもすでに一年以上前のシンポジウムで住民を追い出さない、地元主体の自主建設の重要さを訴えておられた。といっても土地の手当、造成、家の造作その他、たいへんな手間がかかる。きょうは福住さんという白州正子邸などを手がけた庭づくりの方が応援に来ていた。建設予定地を観に行く。仮設に入ったお年寄りの中から阪神淡路では多くの孤独死が発生した。南三陸町だったか、木造のグループホームを一人暮らしの老人のために提案している。それもいいと思う。これからは肩を寄せあって生きていけば。それを行政がサポートしていけば。

    建築関係のKさんの話。

    「うちは高台なのでここから見てました。海がせり上がっていってここまで来るかと思いました。空の様子も変だった。黒くなって風がふいた。電気は切れましたがガスもあるし、あるものを食べてどうにか暮らしました。
    それから1週間、遺体の収集を手伝って、運んだり、シートをかぶせたりした。あんなにたくさんのなくなった人を見たのは最初で最後でしょう。なんだか食欲もなくなって、うんとやせました。
    寝たきりの老人、障害を持った子どもなどの巡回ケアもまったくないですね。そういう家族がいると避難所にも行けません。病院や施設で預かってもらえば別ですが。もともと通所施設とかそういうのも遅れている地域なんです。もうここを離れていっそ外国へ行って暮らそうかと思う」

    どうしても児童が7割近く亡くなった大川小学校へ行ってみたく、寄田勝彦さんの運転で、橋が落ちているのでものすごく遠回りして目指す。すぐ後に芝生のような丘があり、そこにのぼれば絶対助かったのに。何で津波が来るまで40分以上もあったのに、校庭で点呼などとっていたのだろう。きょうを第一歩にしなくては。
    普通に地域の学校に行かせればいい、と長らく考えてきたが、いまの公立の教師に子供を守る力はあるのだろうか。学校の教師の第一義は勉強を教えることではなく、コドモの命を守ることではないだろうか。今回、とっさの判断や勘で助かったという話をいくつもきくが、そういう五感の鋭い,生活力のある子どもを育てる別の学校もつくれればいい。
    また先生は遺族にもこれから先ずっと手厚い年金がでるそうで、未来を断たれた子どもには一時金しか出ないという。命の値段が違う。この話も聞いてなんだかすっきりしない。

    対岸の吉浜小学校でも7人の子どもが亡くなったことはほとんど取り上げられていない。小学校では先生と生徒は屋上に上がって助かったが、一度帰宅した子どもたちは避難所である北上支所に逃げてなくなった。
    その場合は下校後なので一時金も出ないという。しかし指定された避難所に逃げて、お年寄りも含めこれだけの人が亡くなったなら、行政は責任をとるべきではないか。新聞によると津波対策は高い堤防ではなく、ソフトの訓練や教育を大事にするという方針に替わった。

    6月15日 南三陸・気仙沼

    朝、お風呂で。「仮設が当たったので、今日引っ越しするの」という嬉しそうな人に会う。私より2歳若い。どんなところか聞いてみると、単身者用で1DK。

    「布団が2組もらえるので寒くなったらかけられるでしょ。といっても仮設は夏は暑くて冬は寒いらしいわ。家電六点セットももらえる。洗濯機、冷蔵庫、炊飯器、電子レンジ、電気ポット、テレビかな。お米は5キロもらえる。カップヌードルとボンカレーも一箱もらえるらしい。でも何かと現金がいるみたいだから、節約して暮らそうと思っているの。仮設からは午前と午後にスーパ−までバスが出るらしい。助かるわ」。

    やっぱりなあ。ここは日本一すばらしい避難所だとは思うけど、自分の空間にはやく落ち着きたいのもたしか。

    「でも仕事がないからこれから年金は払えないと思う。年金受給までまだ10年以上もあるんだもの。私も長くはないわね。結婚したことないし、子どももいないから、頼る人いないし。年金もらっていた頼みの両親は今回流されてしまったの。まわり見ていても長生きしているのは子供のいるひとだわよ」。

    過酷な状況に胸が痛む。そんなこといわないで、まだわかいんだから、これからいいことあるかもしれませんよ。困ったらお友達に必ず相談してくださいね、と体を洗いながら言った。あんまり友だちもいないからね、話を聞いてもらえてよかったわ、といっていた。

    食堂のまえで坐っていたおばあちゃんは血色もいい。

    「わたしは5人子がいるんだけど。孫は東京で小学校の担任をやってるの。浜の方で津波に会って最初は小学校に避難してた。4月で学校が始まるんで、娘のところへ15日厄介になったけど、こどもたちもスーパーへ勤めたり、看護婦してたり、忙しいから、私はここにいる方がいいの。ただだもの。お風呂も入れるし、自分の部屋もあるし。
    お父さんはずっとまえに脳梗塞でなくなっちゃった。少しはお役に立ちたいと拭き掃除なんか手伝っているんだけど、浜の方では5時に起きて6時には朝ご飯だったでしょ。だから7時半まで待ち遠しいの」

    9時出発。南三陸町へ入る。町長ほか何人かが辛くも助かった防災庁舎は、本当に小さかった。チリ津波がここまできたという警報の看板がひしゃげていたが、その何倍も波は高かったのであろう。ガソリンスタンドと病院をのぞいて、海辺の町がまったく消えていた。町づくりでがんばっていた視察も多い町だったのに。

    まえに「じぶんの宿」というJTBの取材でお世話になった民宿高倉荘へ。「高台だから大丈夫だと思っていましたが」とご無沙汰を詫びると覚えていてくれた。
    「民宿で残ったのは3軒だけです。うちもボイラーが壊れてしまったり、主人が地区の長をしているのでそちらへ詰めきりで。きょうも瓦礫の撤去にいっているんですよ」。
    バスを待っている大きな風呂敷を持った方をここまでお乗せして案内してもらった。「その日は70、80の年寄も山を越えて一時間もかけて逃げたんだよ」

    気仙沼。ここも8年ほどまえ、一人旅で訪れた町。活気のある港に大きなマグロ漁船が停泊し、たくさんの船乗りに話を聞いた。かっこいい海の男が多かった。出稼ぎのインドネシアの青年たちも。そして浮き御堂を見たり、旅館でおいしいご飯を食べていたら台風が来た。それは凄い嵐だった。台風一過、女川から金華山まで小さな船でまるでトビウオのように海をホッピングしていった。

    そういえば女川に高村光太郎の碑があったのを思い出す。調べてみるとその大きな石の碑も津波で倒れたらしい。またそれを建てるのに尽力された貝廣さんという絵描きさんが行方不明だとインターネットに出ている。たしか碑には「人間は海から生まれ,海に帰っていく」といったことが刻まれていたような。

    尾形家という茅葺き民家は、茅葺きを修復し、国の登録文化財になる直前に被災。昔は網元だった200年前の民家だ。卒論以来ここに関わっている田上裕子さんの案内で向った。
    津波の経験は言い伝えられ、「逃げる時は雨戸を閉めるように、そうしないと中のものが全部流されるから」というのでそのとおりにして高台に避難したという。

    「もうそのときのことは覚えていません。自分の家が流されていくとき、あー、と叫んでしまったようです。瓦礫として処理されるまえにと思っていろいろ拾い集めています。きょうはお位牌がひとつ見つかったの。息子の七五三の写真もでてきたのですが、こんなに泥で汚れていたらどうしたらいいのかしら」。

    旧家尾形家当主は、気仙沼市市議をつとめ被災住民とともに、ずっと避難所に詰めきりで帰ってこないという。こんな市議さんもいるんだな。奥さまは茅を葺き終わったし、大島への乗り場へ行く途中なので、ここで茶店でもやって観光客のお休み所を作りたい、という希望を持っておられたようだ。小屋組みはじめ部材もかなり残っているので、どうにか復元してもらえれば。
    気仙沼の市指定文化財もかなり流されてしまったというし。登録文化財、蔵元男山本店の看板建築も3階部分だけが斜めに残っていた。惨状に呆然とする。

    森まゆみ(2011年6月18日)


    ●震災日録6月8日〜6月11日 森まゆみ

    6月8日 節電の方法、逃げてはいけない人

    地下鉄三田線は間引き運転で昼なおラッシュアワーなみの混雑。エスカレーターも止まり、宣伝のパネルの電気は消え、照明も暗いので出勤中本が読めないと遠距離通勤者は嘆いていた。それなのに駅には東京電力の出力の75%しか使っていないと書いてある。25%は夏のクーラーなどに貯めておけるのか、それが知りたい。貯めておけないなら、エスカレーターを動かしてほしい。
    節電というなら、すべてのお手洗いの音姫を撤去。電話のうるさくてしつこいお待たせ音楽も撤去。バスや電車の不必要なアナウンスもやめる。レストランのBGMもやめる。すべて原田病の患者(わたし)からいわせれば頭痛とめまいのもと。

    いわき市で「まず連絡がつかなくなったのが市議と坊主」と誰かがいっていた。「中央から派遣されていた裁判官と医者もさーっといなくなった」とも聞いた。原発が恐いから逃げるのはいいが、逃げてはいけない人をはっきりさせよう。それは税金から給料をもらい、住民を守るためにいる議員と公務員である。
    丸森町の小さな子供さんもいる女性公務員は「何が起きても立場上、私が町を出るのは最後になるとおもいます」と書いてきた。エラいと思ったが、これが正しい考えだ。

    いっぽう今回、老人施設の寝たきりのお年寄りを助けるため若い職員がなくなっている。老人は戦争も生き延び、じゅうぶん長い命を享受したのだから、いのちをつなぐために20代、30代の職員は「老人をおいて避難してもよい」という法律を作ったらどうだろう。(とはいっても責任感の強い職員は老人を置いて逃げられないだろうなあ)

    3月11日、東京電力の勝俣会長は外遊、清水社長は妻と観光、国会議員や命がかかわる電力、航空、鉄道の役員は任期中、「妻と遊ぶ」なんていう覚悟のない人にはやってほしくない。
    原子力安全・保安院は原子力危険管理院と名を変え、この前議会で意見陳述した小出裕幸、後藤政志、孫正義、石橋克彦氏などを起用したらどうか。

    今月の自殺者は去年よりずっと増えて1ヶ月で3200人、このままでは4万人を超えるかも。福島が特段増えている。東京でも人身事故がよくある。

    いまの国会議員などみんなやめても惜しくはないような。消費税を20%!なんかにする前に国会議員を100人に、地方議会の定員もうんと減らす。神楽坂辺りには建築ナンタラいう天下り団体がたくさんある。各省庁の天下り先のそういう法人もみんな潰す。しかるのちなら消費税増税をかんがえてもよい。しかし消費税とは導入時に論議があったように大衆課税で、金持ちにも貧乏人にも同じように払えというのだから、結局は貧困層いじめなのだ。

    6月9日 ガイガーカウンター

    原発20キロまで走ったとき、ガイガーカウンターがあれば、と切に思った。自分でもほしくなって探しているが、品薄、それに5万円以上するらしい。東大の院生のはなしでは「あんなの、材料費は5000円もしないで自分でつくれますよ」とのことだから、安く作って安く売ってほしいな。そうしてすべての保育園・幼稚園・学校に配布すべきだ。

    東京では新宿百人町での調査を毎日は発表していたが、これは地上18メートルでのこと。地上1メートルほどの生活圏での数値も知りたいし、幼児を持つ親は砂場や芝生の数値も知りたいのは当たり前。
    ホットスポットという言葉もうっかりつかえない。「柏や我孫子もホットスポットなんですってねえ」「僕の家は柏です」絶句。
    「小さなお子さんがいらっしゃると大変ねえ」も気を付けないと「自分ちはこどもがもう大きいと思って人ごとみたいに」ととられかねない。「はやく収束するといいですね」とつぶやくしかない。

    若いころ、生きている実感が持てなくて、この公害や核がある地球がいつまで保つのかも予想がつかなくて、戦争を体験し、生き延びて以降、高度成長の中で結婚し、子どもも生まれて普通の市民生活をしている両親を羨んだことがあった。そのとき私は20代で、両親は50代。いまこどもたちが同じような目をしてわたしを見る。「お母さんがオレたちの運までみんな食っちゃってるんだよな」「そう、このヒト、運が強いからね」

    若者たちの未来への閉塞感、申しわけない。東京駅のドーム姿を現す。屋根は登米産、北上の熊谷産業が被災前に送ってあったスレートで葺かれている。これからドームのスカートの一部は津波を生き延びたスレートで葺かれることになる。

    6月10日 城南信用金庫

    北里病院へ。久しぶりに主治医津田篤太郎先生にあって、なんだかほっとする。信頼し尊敬する方がいるというだけで落ち着く。鳥取大から家中茂さんが見えたので谷中や根津をぶらぶら、はいりたい店多々あれど海上海で紹興酒。

    財界のソフトバンク孫社長、楽天の三木谷社長、城南信用金庫の吉原理事長などは、脱ゲンパツを言いはじめている。他の財界人はどうしたのか。私も4月に「原発は地域振興に馴染まない」という吉原さんの胸をすく発言に感銘をうけた。しょっちゅう電話をかけてきて保険型貯金や投資信託などを勧めるメガバンクにはうんざりだ。すぐ城南に口座を開こうとして神保町で探したのだが見つけ損なった。専修大の近くだそうだ。城南は五反田が本店。うちの近くには支店はないが、そもそも銀行なんて年に何度も行かないのだから。

    それにしてもメインバンクにしているみずほ銀行、動坂支店に子どものとき作った口座を今も使っているが、長年ひどい目にあってばかり。極貧時に「お姉さん,ボーナスちょっとはいれてよ」なんて馴れ馴れしい口をきいた窓口の男もいた。ローンの繰り上げ返済に行ったら「組み直しにまたお金がかかるからやめたほうがとく」と相手にしてもらえなかった。昨年はローンの借り換えをすすめておきながら、忙しい年末に住民票だの課税証明だのそろえて持って行くと、一週間後「あなたの年収では組み直しは無理」ときた。その後、システム障害は起こすし、一番近い白山上のATMを「節電対策」に便乗して閉鎖。ほんと腹が立つ。だんだん城南に乗り換えていくつもり。城南信用金庫はリスクのある預金もすすめないし、変なところに貸さないので不良債権もないそうだ。

    吉原毅理事長の話を映像で見た。「信用金庫は18世紀のイギリスで生まれた協同組合に発し、もともと地域を守りよくするためのものである」「企業にも理想や魂がある」「誇りのある職場で働きたいとみな願っている」「今までの国民の無関心が福島の方々に迷惑をかけてしまった」「安全安心という政府や東電のいっていることはことごとくはずれ原発は一歩間違えれば取り返しのつかない危険があるということがよくわかった」「閉鎖しなければならなかった福島の信用金庫の方々の思いは人ごとではない」「新しい省力の空調設備と扇風機を組み合わせたり、LED電気に変えたりと企業努力で3割り節電は可能」「自分のうちでも4けたの消費電力計を見るのが楽しみになってきた」「お金は時に麻薬になる。お金の暴走を止めるのが金融マンの仕事」。自前の言葉を持っている素晴らしい経営者だと思う。

    4月に即、言及したかったのだが書きそこねた。でも言葉は余り紹介されていないと思うので書き留めておく。城南信金は一億円を義捐金として贈り、理事長自ら石巻などへ経済支援におもむき、従業員らも炊き出しなどを続け、縮小を余儀なくされた福島あぶくま信用金庫、宮古信用金庫などの従業員を採用、救済している。これもすばらしい。

    6月11日 池上本門寺へ

    大森町づくりカフェのお招きで池上会館へ。一時間でつくだろうと思ったが、甘かった。三田、泉岳寺、五反田で乗り換え、一時間半。池上線の沿線には駅ごとに城南信用金庫の支店や看板があり羨ましかった。女川では原発のある場所が高台で安心だと、原発に避難してきている人がいるという。これは週刊金曜日にも載っていた。

    夕方、本郷中央教会で「紅葉狩り」ほか草創期の日本映画を弁士つきで見る。
    佐藤忠吉さんへ電話したら相変わらず泰然自若。「お米を贈りましょうか。もう食糧を手当てし、必要なひとに贈るような時代に入ってきた」「東北の農家は大変です。われわれ老人は多少、ヨウ素やセシウムが出た野菜でも食べればいいんじゃ」やっぱり、忠吉さんに言ってもらわないと!

    森まゆみ(2011年6月15日)


    ●震災日録6月6日〜6月7日 森まゆみ

    6月6日

    今日は夕方、北上次郎さん、岡崎武志さんと新潮社「よむよむ」の「小説で旅する日本」の鼎談。震災の話のでない数時間を過ごし、ほっとした。北上さんは「本の雑誌」の発行人目黒孝二さんでもある。小さな直販雑誌の経営と配達の苦労話に花が咲いた。
    山本玲子さんから聞いたところでは、桐生の三角屋根の工場にも被害が出ているとのこと。宮城県村田町の蔵の町並みでも10棟以上が解体を決めたとか。そのほか福島市のヴォーリズ設計の教会も解体。
    もちろん人命救助、避難所の生活支援、ライフラインの復旧、医療や福祉、精神的ケアが優先されるだろうが、誰かが専門でやらないと、どんどん文化財も壊されてゆく。
    国登録文化財谷中花重も瓦が落ちて困っている模様。こうした各地の被害状況でわかっていることがあれば、お知らせください。

    6月7日

    JR東日本へ行って来た。結論から言うと、石巻市で被災した登米、雄勝のスレートを調査した結果、塩害も心配なく、使えるものは使うことに決定した、という。技術者担当者は、枚数やどこに何を使うかまで説明してくれた。とにかくここまでこれてよかった。

    いっぽうJRはこちらのサイトやブログまで細かくチェックしているらしく、表現が「信頼性を失わせ、そのようなことが続くとこういう場も持てなくなります」との注意を広報担当者から受けた。公式の場でいわなかったことは書かないでほしい、とのこと。「スレート屋根募金はJR側の意向で難しそう」などとはいったことはないとのこと。お詫びして訂正します。「ならばこの場でお願いすればやってくださるのですか?」ときいてみたが返事はなかった。

    「使わせる」とどこかにうっかり書いたのがよくないともいわれた。「使っていただく」にお詫びして訂正します。

    しかし国鉄時代は、駅はもちろん国民のものだった。私企業になったとしても駅は公共財であり、ニューヨークでも、ペンシルヴァニア・ステーションが壊されたことにショックを受けた市民が立ち上がって、セントラル・ステーションを保存した。
    公共財の利用者は意見を言う権利がある。まして保存運動によッて残った駅だし、鉄道や航空会社は命を預かる事業である。東京電力だって私企業であるが、国民の監視がたりないとあのように暴走する。また広報担当者には「表現の自由」ということをどのように考えているのか、聞きたかった。

    とにかく「使っていただける」ことが分かったので、私は自分の時間をほかの大事なことに使うことにする。
    それにしてもスレート募金、駅を閉鎖し、御手洗いも水場も使わせず帰宅難民を出して大きな批判を知事たちからも受けているJR東日本には、イメージを上げるいいチャンスだったのになあ。あ、また余計なお世話といわれそう。

    森まゆみ(2011年6月8日)


    ●震災日録5月30日〜6月5日 森まゆみ

    5月30日 奄美で休息

    私は沖縄より奄美の方が静かで好き。でカケロマでのんびりしよう、という誘いに乗って出かけた。
    台風で飛行機が飛ぶか心配だったが、東京は雨、ついた奄美は台風一過の快晴。
    ばしゃ山村でリーフの海を眺めながら鶏飯を食べ、南海岸沿いに南下する。途中、台風により道は折れ枝だらけ、あちこちで崖崩れ。
    古仁屋から生間へ、でいご丸で渡る。寅さんシリーズに登場する船長だった。船の中に田中邦衛さんや山田洋次監督の色紙が貼ってある。

    前にきた時は夕方の海上タクシーで「マリンブルーかけろま」にとまった。暮れ行く海をいつまでも眺めつづけて大満足だったが、翌朝、帰らなくてはならず、バイトの大阪人の兄ちゃんが「着てすぐ帰るなら来るんやない」と言ったのがはらがたった。人にはそれぞれの都合と事情があるんだから、十数時間の充実した滞在をけなすこともないのに。

    今日の宿は同行のスズキさんの友人嘉野仁さんが経営する野見山、これで「のみしゃん」とよむ。お母さんのちえちゃんと二人、まさに「飲みしゃん」。
    仁さんは前の海で穫れたトコブシやシッタカ、トビンニャという不思議な貝を出してくれ、貝好きの私はこれでビール。そのうち山で穫った猪の肉を炭火で焼いてくれた。
    家も自力建設。二階はまさにバラック(兵舎)のようだが、海が見え、なんとも気持ちいい。お風呂も自分でこさえた五右衛門風呂だった。一階にはカウンターの居酒屋もあり、カラオケもできるのだ。「昔は前の堤防がなかったんでもっと景色が良かった。堤防かくしのためにアダンを植えたの」それがいい景色だ。

    5月31日 西阿室・南龍にて

    昨日にもまして快晴。秋徳小中学校にいって、スズキさんの息子誠さんが石巻で地震と津波に合った話をする。缶詰会社に勤めていて、とにかく50人の社員は高台に徒歩で逃げて無事。全員なくなった会社もあるとか。ついて来た仁さん「焼酎がっこうを出たんだからねえ」とにやにや。今は8人の学校に先生はそれ以上いる。

    「男はつらいよ」のロケ地となった西阿室へ行く。スズキさんは郵便局で1000円積み立て。日本中の郵便局名の入った通帳を持っている。そのそばに相撲の土俵があった。朝汐関は奄美の出身だそうだ。眉が濃く背中に毛が生えて、色白の柏戸と対照的な力士だった。ガジュマルの大樹の下でうとうと。こういうのをブリーズというのだな。それから実久海岸のすばらしい青いビーチで泳いだ。他の人はかき氷を食べて居眠りしていたのだけど。

    今日の宿は南龍。おじさんは奄美のひと、ながらく大阪で中華料理と喫茶店と雀荘までやっていたとか。「よおくもうかったのよ。それ島にきて全部なくなった。子どもがいないからね、親戚の子供を大学出したりしてね」「海岸も変わったのよ。こんなにコンクリートで固めて世界遺産なんて目指せるのかね。ばしゃ山村の社長さんは一生懸命反対して自分とこの前のビーチは手をつけさせん。えらいもんだねー」
    夜はグルクンの唐揚げ、きはだまぐろの刺身など。

    6月1日 磯あそび

    私一人のみしゃんに落してもらい、仁さんと磯あそびにいく。長靴はいて岩場を行くのはものすごく疲れる。でもシッタカやトコブシもとれるので張り切る。岩からはがしたアワビの表面をナイフでこすり、身をえぐりだし、塩で洗って食べる。そのこりこりとおいしいこと。と思ったらウニを踏んでそのとげが長靴を突き抜けて足に刺さりいたい。海には毒を出す生物もいるそうで「ビーチサンダルはいて泳いだ方がええよ」と仁さん。「世界遺産になったらこんなふうに自由に獲れなくなるかもよ」と心配している。

    おばあのちえちゃんは大正生まれ、86歳なのに大きな病気したことない、奇麗好きでよく働く。「子供の頃は何でも家で作ったし、大島紬も織った。16歳のときにおじさんに連れられて東京にいって、ミシン踏んで兵隊さんの慰問袋に入れる褌を縫っていたの。空襲は恐かったよー。終戦後、奄美はアメリカの軍政になって、日本でなくなったら帰れないとあわてて帰って来たの。それから結婚したんだけど仕事がなくて、沖縄に夫婦で出稼ぎにいって土方やってた。こんどは奄美が復帰になったら帰れなくなるとまた急いで帰って来たのよ」。ほっそりしてにこにこしているけど、大変な人生である。トコブシは台所を借りてバタ焼きにしてみた。夜、姪のタカラちゃんが三線を弾いて歌いに来てくれた。みんな遅くまでカラオケをやっていて病人継続中の私はそれを聞きながら寝た。

    6月2日 名瀬で再会

    夜中じゅう豪雨。トタン板によくまあと思うほどの雨が当たる。ふれば土砂降り、林芙美子「浮雲」を思い出す。することがないのでみんな花札をやる。私が混じると5連勝。「こういうのビギナーズラックというのよね」とユカさん。

    私は船で先に古仁屋にわたる。バスをまつ間、首相不信任案の投票を待合所のみんなと見る。そんなことやってる場合か。小沢一郎、岩手出身のくせになにも被災地のためにがんばらないで、菅首相が浜岡とめると財界を代弁して菅つぶしにかかるんだからな。友だちの裕美ちゃんが三田佳子のコンサートに行ったら小泉元首相が来ていて「自分も来ているくせにいまごろこんなとこに来てと思っちゃった」といってた。正しい、一般人と元首相はちがう。裕美ちゃんは女社長だが「東電幹部は避難民にみないえを明け渡せ」と言っている。
    それにしても菅の辞任表明と不信任案が同じ日に出るなんて、まるで大政奉還と倒幕の密勅が同じ日に出た幕末みたいだ。まるで政府も国会もマスコミも信じられん。維新じゃなくてこれはまさに国家の瓦解だ。

    名瀬までのバスは私一人。運転手さんに「奄美の主要産業は何ですか』と聞くと、即座に「公共事業です」と返った。去年十月の大雨で崩れたところも直して仕事になったという。今回の台風でほくほくしている土建屋さんもいるのかも。国税からの補助金で奄美の自然がどんどん傷つけられているのを知ったら「離島振興法」の生みの親宮本常一も泉下で嘆くだろう。タコが自分の足食っているような。

    夜、7年前の取材でお世話になったもと笠利町の学芸員、宇宿貝塚の番人だった中山清美さんとお仲間にあう。今朝の新聞にも万屋遺跡の撹乱について中山さんのコメントが載っていた。「文化財指定以前の遺跡ですが、ちょっと対応に追われて遅れました」と恥ずかしそうにいう。きらきらした目はそのままだが、熊本大学で博士号を取られ、この3月に退職して、余生は奄美と琉球弧の自然文化の保全をするつもり。こういう地方公務員もいることを大書しておきたい。

    「大学で教えないんですか」と聞くと、「本土には私くらいの研究者はたくさんいます。奄美には大学がないので,私は奄美にいてこそ、こどもたちや大人たち、外から来る人に奄美の歴史や文化を伝えていける。むしろ一緒に掘り起こして行きたい。禁止や管理優先でない、みんなで掘り起こしゆるやかにつながって行く形の世界遺産はできないかと思っているんですよ」。

    奄美は独自の王権がなかった。あるときは琉球王朝に支配され、近世からは薩摩の支配を受けた。維新以降は薩長藩閥政府の支配、そして国の都合でアメリカ軍政下に。

    「だから奄美独自のゆたかな文化を島人が自覚し、自信を持つことは大事なんです。森さんたちのように自分の足元を掘って記録した試みは勉強になります。島尾敏雄や田中一村はそんな奄美をかきのこしてくれましたからそれも大事、でもどのように描いたかより、彼らに描かせた奄美とはなにか、というほうに関心があります」

    奄美のいたづらな妖怪けんむんがおすすめする「けんむん認定」をはじめている。「ザシキワラシみたいなものですか」と聞くと、「いや河童に似てるかな」。
    ケンムンは本来穏やかな性格だが、自分の悪口を言ったりバカにする人は容赦しない。ガジュマルの木に住み、魚や貝が好きで、ときに魚の目玉だけとって食べる。相撲も大好き、通りすがりのひとに勝負を挑んだりする。
    占領軍がきて刑務所を建てるとき島人はケンムンの祟りをおそれて「マッカーサーの命令だ」と叫びながらガジュマルの木を切った。そのご、ケンムンがすくなくなったのは住処の樹を失ったためとも、マッカーサーに祟りに行ったからとも。

    6月3日 田平の滝

    昨晩遅くなって土盛海岸のブルーエンジェルに到着、朝になってみると一枚ガラスの向うに素晴らしい海が広がっていた。宿の主人は朗らかで上品な女性。大阪で会社を経営していた夫君が奄美が大好きで、ここに建てた保養所を終の住処にしてしまったという。なくなられたあとも一人でお住まいだ。
    「空港から3分ですし65歳以上は日本のどこでも1万2000円で行けますのよ。冬はお休みでのんびりやっています。台風のときはさすがに心細いですが、婿がガラスを厚いのに替えてくれたので雨も吹き込みませんし安心です。晴れた日も雨の日も海はいろんな表情でいいものですよ」

    8時に中山さんが「奄美で一番きれいな滝を観に行きましょう」と迎えに来た。「だって雨ですよ」「だから水量が多くてきょうはいいはずです」。名瀬からそんなに遠くない。「初心者コースです。沢登りもありますが」という話だったが、台風のあと、道はかなり崩れていた。崖を落ちないようにそろそろと進むと「もう難所は過ぎました」と中山さん。その一言でほっとする。川を渡るとすぐ長靴に水がはいった。「最初に濡れてしまうと気が楽ですよ」となんだか見透かされているみたいだ。
    沢をどんどんいくとまるでボルネオの森のようだ、木の根やつるにつかまりつついくとこんどは「ハブが枝やつるに化けてますから気を付けて」にぎょっとする。現れた滝はたしかにどうどうたるもので、ものすごい水量、最上部は太い一本なのが、途中から岩に当たって「われてくだけてさけてちるかも」なのであった。

    1時に空港へ。2時半に鹿児島へ。空港近くで前から泊まってみたかった妙見温泉石原荘へ。もてなし、建築や置いてあるもののセンス、行き届き方、食事、かけ流しの泉質、そしてお値段。これまたキュレーターとして全世界の宿を知っているユカさんと「ベストファイブを書き換えなくちゃね」といいつつ黒麹の焼酎を飲んだ。

    6月4日 霧島神宮

    あさ、熊襲の穴というのを観に行った。ここは古事記の大和武尊が、河上武を女装して撃ったという伝説のあるところだ。いかにヤマトタケルが美男子だとしても、こういう卑怯な手は許せない。しかも殺される間際のカワカミタケルが「この方は天皇の御子なるぞ」といって手下を制し、タケルの一字を献上したというのも古事記史観で眉つばだ。それにしてもヤマトタケルも九州からわが吾妻までよく移動するものよ。最後が杖により白鳥になって死ぬところは悲しくていいけどね。弟橘姫入水のはなしを思い出し、また津波の死者を思う。

    運転手さんに「3・11以降、お客は減りましたか」と聞くと、「その前に新燃岳の噴火ですっかり減ってしまったから、今はむしろ戻っているんじゃないですか」とのこと。新燃岳は近いが霧島や妙見温泉には関係ない向きに煙は行っているのだから風評被害だという。

    霧島神宮は天孫降臨のニニギノミコトなどが祭神。その故地は高千穂河原といって、ここも1235年の御鉢の噴火によってお宮が焼失、いまのところに移ったというのだから、火山帯にある日本人は地震や噴火と共存しながら古来生き続けて来たことになる。運転手さんは「鹿児島の誇りは桜島です。あれが噴火しつづけてくれているので鹿児島は地震が少ないんですよ」。ガス抜きも必要だというわけだ。最後の霧島ツツジがちらほらと咲いていた。

    6時半家に到着、溜まっているメールを片付け、新聞を読む。
    東京新聞は読者投稿欄が面白い。70代80代の老人たちが過激にまっとうなことを言っている。東電は解体しろとか、被災地のために働かない代議士はみんなやめろとか、生きているうちに本音を吐いた方がいいものね。

    双葉町が町あての義捐金を被災者に配らないで「避難民の中から犯罪者が出てご迷惑をかけた」として避難先の埼玉県騎西町にあげるらしい。人がいいというかバカというか。愛知県東海市では住民から集めた支援物資のうち姉妹都市釜石市から要請のなかった粉ミルク、紙おむつなどを市内の保育園などへ回したが、買って送った市民から「趣旨が違う」と苦情を受けあわてて回収したとか。誰か使えばいいじゃないか。市民も市民、役所も役所だ。こんなだから支援物資は受け付けません、になるのだ。みんなを苦しめるこの公平原則。その陰にもっとおおきな不公平がいっぱいあるのに。白鵬ら人気力士岩手県山田町へ、いいぞ。皇太子は山元町山下小学校へ、たしかにあそこは素晴らしい避難所だった。渡邊校長がなつかしい。だけどもっとひどいところを見てもらいたい。

    5月5日 みんなで震災を語り合う

    午後1時半から谷中コミュニティセンターで5時まで3時間半のロングトーク。
    テーマは義捐金、物資支援、炊き出し、避難所支援、仮設住宅、瓦礫処理、町の再生、
    わが根津の被災、原発、農業と漁業、そのほかなんでも。被災地を見てきた人たちの感想。いわき、気仙沼、山元、新地、南三陸、登米。意見、アイディア。

    大塚モスクのハルーンさんより、なぜモスクはこれほど迅速に長く支援を続けているか、という話も胸にせまった。トルコのムスリムは11日の夜の便でトルコを発ち。日本に支援に来たそうだ。その受け入れや同行をしているうちに、ハルーンさんたちも支援を始めてしまったという。
    いわき出身の菊地さんは「地域のみんなが自分の故郷のためにこれほどがんばってくれるかと思うと泣けてくる。でも原発がみんなの心を塞ぎ、元気がなくなっているし、安心だと思い込みたい複雑な心境になっている。そう思わないといわきでは暮らせないから。東京から数値などとうてい伝えられない状況」

    それはわが丸森へ対しても同じ。なんといっていいかわからない。東京だって都は新宿の高さ18メートルのところで測った数値を公表しているだけ。

    谷中防災広場をよく使う若いお母さんたちの発言も新鮮。「小さな子どもがいると被災地にも支援に行けず、光源寺でおにぎりを握るのは少し何か役に立てている気持ちがした」(わたしなんか阪神淡路のときは何もしなかった。えらい)
    「子ども連れではお弁当が使える施設がほしい。飲み食いが禁止される施設が多い」(ほんとうだあ)「防災広場の椅子の下に煮炊できる器具があるというが、日頃使ってないのにいざというときに使えるのか? 日常的に使ってみた方がいい。オーストラリアのようにバーベキューサイトがあれば住民の交流にも役立つ」(そのとおり)
    「放射能が気になっても自分の子だけマスクをさせると、何気にしてんのといじめの対象になったりする。弁当を持たせると先生が御宅のお子さんだけですよ、とかいう。本当の気持ちを話し合えないで鬱屈が溜まってゆく」

    だからみんなでこれからも話し合おう。なにせヤマサキは会場整理とお茶の係だし、私一人で討論をさばいて、まことに不手際、ごめんなさい。なにか話したいことがある人、といっても日本ではなかなか手が上がらない。南三陸町に長いこといっていた建築家の松下朋子さんの姿も見えたのに、いつか見えなくなった。ぜひ今度は話してくださいね。原発のはなしももっとしたい人が多かったはず。守本さんたちと解放感で前後不覚。

    森まゆみ(2011年6月6日)


    ●震災日録5月26日〜29日 森まゆみ

    5月26日

    しごとは迅速に。判断は早く。でも人間それだけでは生きられない。ずぼら、ものぐさ、イイカゲン。私の本質はそっちの方。
    いわきモスクの4日間、イスラムの人たちの「マア適当に」「だれでもどうぞ」という生き方が羨ましかった。アポイント、コンセプト、プロポーザルなんていう言葉とは無縁で生きたい。
    いつもブログの内容をチェックしてくれる亜紀書房の足立恵美さんが「もっとアバウトでいいですよね。時間通りに動いて、無駄をなくして、計画をたてて……そんな毎日につかれてきちゃった」と書いてきた。
    谷根千のはじめの頃はアポなし取材ばっかりだった。
    夜、根津教会で「文豪すてぃんぐ」なる芝居見る。

    5月27日

    興津のみかん山でいろいろ話す。
    私一人のために男性6人でバンドもやってくれ、海の見えるお風呂をたててくれ、たこ焼きとパエリャもつくってくれた。同じ年代なので歌もぴったり、楽しかった。ここには電気もない。お風呂の水は雨水。焼きものは囲炉裏。コーヒーも豆を手で挽いていた。
    お姫様状態でしたが、女子大生が来るともっと張り切るとか。前にきたときは西園寺公望の復元された坐魚荘と水口屋旅館を見学した。そばには井上馨の別荘もあったがこちらは地元のひとに人気ない。

    5月28日〜29日

    浜岡原発を観に行く。興津からたっぷり2時間。静岡は広い。
    浜岡のあるのは御前崎の文字通り砂丘の上。その前浜はサーフィンのメッカ。それほど通常から波がスゴイ。
    砂丘の上の楼閣浜岡原発、砂丘が守っているというがあわてて最近石を積んで針金でとめて補強したあとあり。
    そこには原子力館というまんまな名前のPR館。そこには雨なのでけっこう親子連れがいた。
    浜岡の町は活気がなく原発関係者用のホテルや民宿がある。

    「今まで国策に沿ってやってきた。地元の雇用をどうしてくれるんだ」と市長がテレビでいっていたが、廃炉にしても当分、雇用もあるし、人も来るはず。どんな産業だって時代の移り変わりで雇用がなくなったりするが、それに補償など出たためしはない。石炭から石油に代わるときも同じ。自分たちで町つくりをできなかった市長としての無能を棚に上げて、原発交付金をあてにするだけなんて腐っている。

    森まゆみ(2011年5月29日)


    ●震災日録5月16日〜21日 森まゆみ

    5月16日 公務員の残業代

    昨日の熊谷さんのお話のなか、名取市の職員の総残業代は3億ではなく1億6000万でした。お詫びして訂正します。
    といっても職員ひとり当たり30万。私としては残業代をもらうのは労働者の権利だとは思いますが、いっぽう家も仕事も失った被災者にまだ一銭も出ていないことが問題だと思います。名取市だけではなく被災地の他の自治体でもそうでしょう。神戸などでは災害時の公務員の残業代は青天井ではなく、制限を設けているようです。
    批判が起きるのは今回、自治体の事務職員が全体として住民からよくやった、といわれる働きを見せていないこともあるかも。「今回、いちばん頼もしかったのが、ご近所とボランティアと自衛隊。役に立たなかったのが、役所の中間管理職と議員と縦割り行政」(いわき市のAさん)ほか同様の意見をたくさん聞いています。

    もう一つ熊谷さんのお話で、大川小学校の避難については住民が不適切な示唆をして教員が迷ったという説もあるようです。まだ真相はつかめませんが、子どもを失った親の気持ちを考え、二度とこのような惨事を起こさないよう、ちゃんとした検証と教訓を引き出してほしいものです。

    この日、7時、谷中コミュニティセンターの建て替えをめぐる話し合い。住民の代表による検討部会で基本計画は策定されたものの、まだそれは住民全体のものとなってはおらず、3・11のあと、本当に役立つ防災センターを作るにはもう少し、みんなの知恵を集める必要があるのではないか、ということになった。
    谷中コミュニティセンターは区を越えて利用されているものなので、この場合、住民とは文京区民も含みます。おなじく森鴎外記念本郷図書館は台東区民もよく利用していますので、図書館の運営については台東区民も意見を言っていいのです。行政の縄張り主義にはあきれる他ありません。もちろん休日の午後などに災害が起これば、おおくの散歩や見学者も防災広場やコミュニティセンターに逃げ込むでしょう。

    5月17日 スレートの募金口座

    一日、家を掃除して、社屋や家を流された北上町の熊谷さんがほしいといった「蒲団、食器、調理器具」を仕分けする。シーツは洗濯し、3組の蒲団を用意でき、7時前に熊谷産業の沖元さんがとりにきてくれた。
    ヤマサキは15日から宮城の登米にいる南三陸町からの避難者にカラーボックス、辞書、文房具などを届けにいってきた。息子岳ちゃんの運転で、かなり遠かったもよう。「南三陸の海沿いを走りながら、「こんなに瓦礫が片付いた」「ウニが育ち過ぎている、早く海に出たい」という話を聞くと、初めてみる被災地の風景に呆然としている顔を伏せたくなりました」とメールにあった。

    雄勝天然スレートを復興したい方たちの募金先を作る。個人名でない郵便貯金を作るときは会員や会の規則などを書かなくてはならないが、白山の郵便局員が親切に協力してくれ、あっという間に作ることができた。
    読売の都内版で連載が延期されていたが「森まゆみのむかしまち散歩」として6月2日から始まることに。ほっとした。が忙しくなりそう。

    5月18日 岡倉天心六角堂

    震災以降の3月13日から被災地支援を続けてきた大塚モスクの要請で、いわき市に炊き出しの手伝いに行った。2002年秋のアフガニスタン支援以来、大塚モスクに協力してきた本駒込の池本達雄さん・英子さん夫妻、運転は区議の浅田やすおさん、そして私。朝8時集合で常磐道を走りだした。今日は配食の手伝いをすればいいので、ゆっくりいく。

    勿来インターで降りたら岡倉天心美術館への道が出ていたので、「そうだ!五浦の六角堂が津波で流されたんだった」と思い出し、よっていくことに。ナショナルトラスト理事ですというと開けてくれ、見学することができた。松のはえた断崖の上にあった国登録文化財六角堂は、白木の床だけ残してすっぽりなかった。お堂は海の中にあるらしく捜索中。回遊路も崩れていた。美術館も五浦観光ホテルも休業中。

    昼はカニ飯の店へ。「築地より直送」の垂れ紙。茨城平潟港は操業していたが県境を越えて福島に入ると禁漁。
    勿来のボランティアセンターに寄ったが、もう撤集準備で話を聞くことも断られる。
    さらにいわき市勿来支所で話を聞く。いわき市は合併したのはずいぶん前だが勿来、常磐、内郷、平、四倉、久之浜と5支所に分れている。

    所長、課長さんの話。

    「3月11日からほとんど家に帰っていません。3月11日は震度6強で、長い時間揺れました、ガリガリガリと2分何秒かな、肝をつぶして外にも出られないくらい。思えばチリ津波のときから地区本部を設置して、組織づくりはできていたんですが。各地区では訓練もよくしていましたが、何しろ広域で、平の市役所は指揮をとりきれませんでした。だいたい電話がつながらなかったし。勿来だけでピーク時4890人避難者がいました。
    避難所のご飯は、各区で米や食材を供出して区長の奥さんとかお嫁さんが何百食も炊き出ししてくれました。おにぎり、つけもの、味噌汁くらいですね。避難所だけでなく自宅で暮らしている独居老人にも届けました。最初は食糧が来なくて苦労しました。生野菜?農村はあるといっても冬は葉ものはないですからね。原発の水素爆発のあとはいわきの人もずいぶん避難してましたし。
    物流が風評被害でいわきまで入ってこなかった。それは福島沿岸部を走る車がいわきナンバーだからです。いわきナンバーの車はガソリンスタンドやレストランでも入るなって張り紙された。いわきの農作物も流通では避けられていますね。悔しいです。
    水道、ガスが出なくなって、やっと復旧したと思ったら4月11日にまた揺れてふたたびライフラインがだめになりました。困るのはトイレです。水がでないから。携帯トイレは必要ですね。津波は港によって違いますね、向きや形が違うから被害が違う。何で隣りは無傷なのにうちは全壊なんだ、と。そういう差が出てきてしまう。ボランティアの方たちが瓦礫の撤去を手伝ってくれてありがたかったです。長靴に軍手でやっていて慣れてましたね。そのころはまだ瓦礫の下に行方不明者がおられました。
    そのうち物資はどっと来て配りきれないくらいになった。洋服なんかはやはり人の着たのはいやだと言いますね。新品があるんだし。あるときまで寒かったけど、いまは温かくなって冬物はあまっています。土日に必要なものを持って行ってくださいと言ったんですが、多少は便乗の人も来ますよね。タダでもらえるならと。
    全壊、半壊の人に福島県が市内のアパートなどを借り上げて一年無償で貸すので、避難所の人数もだんだん少なくなっていきますが、それでも希望と違うのでいやだという人もいますし、新生活をはじめるのに赤十字が配る家電製品のセットを待っている人もいます。
    海は原発のこともありますが、海中に船が沈んでいて網がスクリューにからまったりするので、操業は無理でしょう。田んぼもヘドロが入って、塩分もあるので、2年くらいは田植えは無理でしょう。これから市役所が三食お弁当が出る体制を作りましたが、やはり温かい炊き出しのほうが皆さんよろこぶので、これからもお願いしたいです。そしたら弁当のほうを断りますから」

    いわきモスクは泉町にあった。車のディーラーのラジャさんの案内で到着。ラジャさんは30代のパキスタン人、イスラマバード出身。日本語、ロシア語、タガログ語も話す。モスクにいるムスタファさん、バングラディッシュ人のコックさんマクブルさん、「なかなか来ないので心配しました」という。
    今日は5時に勿来市民会館と勿来体育館にカレーとサラダを配食。ムスリムは豚肉を食べないのでチキンを使う。

    市民会館は階段を上がって2階の和室2室に、お年寄りたちと子供のいる家族たちが分かれていた。家は全壊したものの、昼間は働きにいっていたり、学校に行ったり、家の片付けに行ったり、病院に通っている人がいた。
    「なにが食べたいですか」と聞くと「さしみ」とのこと。浜の人たちはいつもとれたての魚を食べて暮らしてきた。子どもは「お菓子が食べたい」とのこと。
    もうひとつの体育館では「酒が飲みたい。ここは学校の体育館なので禁酒。でもこの雰囲気じゃね、飲んでもうまくない」というひとも。
    生野菜のサラダをよろこび、残りをもらっていいかしら、と年配の女性がタッパーに入れた。

    モスクに戻ると夕べのお祈り。メッカのほうを頭に何度もひざまずいて頭を床にすりつける。「膝に来ませんか」ときくと、「年取るといたくなる」とうなずく。

    湯本温泉松柏館という由緒ある宿に、朝食つき3500円でとめてもらった。ただしエレベーターは停止、朝は湯に入れない。原発関連会社の作業員たちと広野町からの避難者も泊まっている。お風呂で高校生らしき女の子が原発がいつ収束するのかずっと話していた。かなしくなった。

    5月19日 ガンボロー

    松柏館は、インターネットでは湯本温泉のなかでも高評価を得ており、主人は比佐氏、昔の本陣だ。宮尾しげをや田中比佐良の絵がある。戦時中は中野区の啓明小学校が集団疎開していたとか。戦後、高松宮妃が泊まったこともある。
    通された部屋は一階で広い庭に面していた。朝、庭に出ると石灯籠が倒れている。藤棚の藤が見事だ。
    支配人は「こんな小さな宿でも43人、従業員がいたんですが、震災後、設備も壊れお客が少なくて13人でやっています」という。営業していない旅館もかなりある。
    お父さんは常磐炭坑で働き「上がってくると毎日温泉に入って、それをあたりまえに思っていました。今思えば贅沢なは話ですよね」という。常磐炭坑は宮嶋資夫「坑夫」にも描かれている。宿の裏には登録文化財のすばらしい映画館があった。

    朝に小名浜港に入っている原発汚水処理船メガフロートを観に行って、9時にモスクに到着。
    今日は南の森にカレー。コックのマクブルさんは「わたし、2週間ずっと日本人にご飯作る。お金ないだから体だけサービス」となんども言う。きのうは配食しながら「食べないと体、元気ないよ。いっぱい食べてガンボロー」といっていた。働きながらも時々しゃがれ声で「ガンボロー」とさけび、私たちも唱和する。こういう時のガンバロウは元気が出る。

    サニーレタスを10個とレタスを20個買ってこいという。そんなにいるのかな。安くて品物がいい店を探す。買物にも時間がかかる。
    買ってくると、真ん中の芯のところをぼかっと叩いてとってしまい、外の皮を何枚もむき、固いところや茶色いところを取って洗ってちぎれという。主婦からするともったいない千万だが、しきるのはマクブルさん。「日本人、目で食べる。茶色い葉、だめ。堅いのもだめ」という。たしかに。サラダがしおれていてはまずい。
    多いのはまだしも、足りなくては困る。百人分というのが実感がわかない。カレーの野菜の切りかたにも彼なりの流儀があり、いわれたとおりやらないとちょっとおかんむり。「むいて、クイックリー」としかられる。私から見ると油の入れすぎだと思うんだけどなあ。

    1時に作業は終わり、地域紙仲間の「日々の新聞」を平競輪場近くに訪ねる。安竜さんと大越さんの話は映像で撮ったので、そのうち。「がんばっぺいわき」「がんばれ東北」の翼賛ムード、原発の放射能の過小評価にもあらがって取材活動を続けている。

    4時ころ文京区からボランティアの加藤さんが2ヶ月居続ける平工業高校へ。ここのようすも映像で。避難所が閉鎖になったあと、一人暮らしに戻るお年寄りが心配だという。

    カレーとサラダは南の森へ。98人。私たちは江名小学校60人へ手伝いにいく。ラジャさんの友だちの若い女性が、筑前煮を作ってくれた。それとご飯、サラダ、りんご、オレンジ、野菜ジュースなど。かなり避難者は減って、大きな立派な体育館にぽつりぽつり。乳幼児4人を持つお母さんもいる。聞くとご主人は入院中だそうだ。しょうがいを持つ子どもさんもいて心配。「あの日から人生が変わってしまった」というひとも。

    この日、大塚モスクからアキルさんが新しいコックさんを連れてきて、マクブルさんは帰ることに。なんでいわきに来るんですか、とアキルさんに聞くと「東京から近いし、モスクはあるし、人がいきたがらないから」と簡単明瞭。車が故障したことを「車が病気になった」というのも面白い。

    7時に終わったので、安竜さんたちとまた意見交換。たった一人でいわきで放射能から子どもを守るママたちのデモを実現させた鈴木薫さんの話を聞いた。これもそのうち映像で。
    政府・文科省は勝手に子どもを含め放射能の被ばくの上限を20ミリシーベルトに引き上げたが、公表されている放射線量の測り方にも疑問があるし、原発労働者で7ミリシーベルトで発ガンした例もあり、子どもたちを早く福島から避難させたい。といってもみんな何らかの事情と都合の中に生きており、避難所の乳幼児を見ると親に「はやく逃げて」といいたくなるが、とうてい言える状況にはない。

    5月20日 原発20キロまで走る

    今日は午前中、おやすみ。白水の国宝阿弥陀堂を見学。
    藤原清衡の娘徳姫が磐城氏にとついだが、夫が早く死に、供養のために建てたもので、庭園は国の名勝で浄土思想を著した素晴らしいものだ。壊滅的な海の近くと西方浄土のようなのどかな風景とあまりに差がある。それでもお寺の方は平泉は世界遺産になったが、ここには風評被害でちっとも拝観者が来ない、と嘆いていた。
    そのあと彌勒沢の石炭資料館に行った。渡辺為雄さんが一人で作り上げたもの。
    今86歳、昭和37年まで炭坑で働き、そのあとは養鶏場でとってももうかってほくそ笑んだの、とユーモアたっぷりに語る。
    「でも今年は山菜も採らないし、野菜も遠くのを買って食べているの。このあたりタケノコもたくさん出るが、あんなに蒲団(皮)を着ているけど、シーベルトが入っちゃってとても人にあげられない。でもほっとけないので、毎日掘っては線香を半分に折って火をつけ、申し訳ない、と竹の精にあやまってから捨てているの」ということであった。土地の惠みの中で生きてきた為雄さんならではの言葉。
    まだまだ石炭は埋蔵されているんだそうですね、原発はやめてそれを掘れば、というと、「いやいや、地球温暖化もありますから自然エネルギーに転換していかなければ」と打てば響くように答えが帰ってきた。

    夕方、北上して豊間、薄磯あたりの海岸線を視察するも、瓦礫処理の車多く、立ち入り禁止のところ多し。持ち主の解体同意があるとこわしていく。それにしても自分のうちに「こわしてください」という紙を貼る住人の気持ちは切ない。茫然として瓦礫を片付ける人々。犬を連れて何かを探す人。瓦礫の中に見えるスヌーピーやクマのぬいぐるみ。

    新舞子ハイツは営業中。そのさき四倉、久之浜を走る。地域紙仲間「久之浜通信」はどうしているか心配なれど連絡つかず。電車はここまで。さらに原発へ向け30キロ線を突破し、20キロまで走る。このためにガイガーカウンターをあちこち手配したが得られず。しかしまだコンビニもラブホテルも食堂も営業中。
    20キロ地点のJビレッジは、東芝の看板、医師と看護師が昼間は待機しているという。20キロ地点でマスクもしていない係員に制止される。大丈夫なのかな。反対車線は原発からの作業員の車がひたすら続く。

    四倉高校では校庭で野球部が練習中。第一体育館にも高校生。第二と柔道場が避難所に100人、きょうはインドのカレーとサラダ、野菜ジュースを配る。バングラディッシュとはちがうスパイシーなカレー。作ってくれたのは、コルカタ出身のラフメドさん。ライスとカレーを別盛りにしてくれという人あり。ブログを書かなくてはという人あり。
    「はじめは400人いたんです。この2ヶ月のこと何も覚えていない。トイレが汚かったことくらい。毎日あれもしなくてはこれもしなくてはと思っているうちに一日過ぎる。海が好きだったのにもう怖くて見られない」

    宿に帰りお風呂で温まってから、以前講演によんでくれたいわきJCの小泉さんとJCのOBで現在は商工会議所の有賀さんの話を聞く。それぞれ設備関係の会社経営で震災以降、働き詰め。そのお仕事自体、生活の復旧にかかわる急務だ。瓦屋さんは2年待ちだという。「震災、津波、原発、風評被害の四重苦の上、家に不幸があったりまだ小さい子どもを心配したりと2ヶ月飲み会なんか出られなかった」。
    いわきにモスクがあり、炊き出しをしていることはご存じなかった。いっぽう避難所を出る人たちのためにモスクが蒲団を買っていることを話すと、平競輪場に蒲団がどっさりあるのでは、という。ここでも物資は集まったが、その荷をほどき、しかるべき分配をする人がいないらしい。

    5月21日 唐揚げと肉じゃが

    今日はわたしたち文京区チームが日本食をつくる日。だけど4時間もあればじゅうぶんだから、きのう見つけた宿の近くの魚やさんにサバを頼んであるし、と映画「フラガール」で有名な「スパリゾートハワイアンズ」へ行ってみたがもちろん閉鎖中。そのへんのスカイラインをフラフラ走って内郷へおりラーメンを食べた。いわきは広く4・11の余震では山間部の道が崩れたりした。あちこち通行止め。飲食店もパチンコ屋も営業中。

    実際には場所によっては朝や昼は自分たちで炊事しているところもある。わたしも東京にいると「自分なら1週間とは耐えられないだろう。配食より自立支援のほうが大切なのでは」と思っていた。しかし来てみると避難所に残っている方は、お年寄りや乳幼児連れが多い。行政からは日替わりでいわき市職員、そのほか県職員、長崎からの支援職員がいて、長くいる長崎の職員のほうが避難所に通じている、といわき市の方。私たちだって最初の日は炊き出しにとまどったが、2日めからは場所にも道具にも慣れたもの。

    モスクに着くと、心配したムスタファさんたちが鶏肉の皮をみんな外してくれてあったが、本来は皮付きで唐揚げを作るはずだった。肉じゃがに入れるべき牛肉はなく、これも鳥を使うことに。頼んだサバはかちかちに凍り、解凍しておろさなくてはならない。さあ、間に合うか? 私たちは浅田さんの号令のもと実によく働いた。
    どうにか6時には江名小学校にご飯、サバの味噌煮、肉じゃが、唐揚げ、キャベツと胡瓜の塩揉み、という豪華メニューを届けることができた。うれしかったのは昨日会ったJCのお二人が忙しいなか、いちご入りシュークリームをおみやげに様子を見にきて、配食も手伝ってくれたことだ。こどもたちは大喜び。「用もないのに冷やかしにいくみたいで避難所に来られなかったのでいい経験になった」とお二人はいってくれた。

    それにしても何でムスリムの人たちがこれほど日本人のためにはたらいてくれるのか?
    「アラーの神は隣人が困っているときに助けないものはムスリムではない、といっています」と簡単な答えだった。アキルさんは貿易商だそうだが、「そんなに仕事をやすんでいわきばかり往復していいんですか」と聞くと。「大丈夫、私のいない間は神様が代わって仕事をしてくださいます。そしてそっちのほうがいい仕事ができるんです」とにっこりした。
    小学校では言われた数より多い食事が出た。避難所にいない人も食べたりする。「そういうの、気にしないんですか?」と聞くと、「どうして?」と不思議そうな顔。おなかがすいているひとが来たらあげるのが当たり前、というのだろう。わたしは自分の狭量を恥じた。
    避難所のひとが食べ終わると職員にふるまい、最後は自分たちと手伝ってくれたJCの方たちで楽しく食べた。これも行政からお金が出ていれば問題もあろうが、なんたって自分たちでお金を出して作っているご飯なのでやましいことはない。
    そしてムスリムの方たちは「いっしょにたべること」をとても大事にしている。手伝いにいった私たちにも毎回、カレーをいっしょに食べようというし、休憩にはマサラティーを入れてくれる。これ大好き。

    片付けたの終わったのが7時半、それから車を飛ばして東京に着いたのが11時だった。
    「広野町の住民がいわきに逃げ、いわきの人は東京に逃げ、東京の人は京都やパリに逃げている」という言葉が忘れられなかった。もうどこにも安全なところなどない。

    5月22日 透き通る声に涙

    ツイッターというものを始めてみると、谷根千じゅうのイベント情報が入ってきて、きょうだけでもよみせ通りのお祭り、一箱本送り隊、やねせん寄席、チャ太郎オペラ落語など。どれも面白そうだが、いっていたら仕事にならぬ。
    夕方まで仕事、5時から渋谷山手教会のチャリティコンサートへ。
    娘は教会音楽のコーラスグループに入っているのだ。いつもジーパンで機材担いで文科省へ行ったりするのに、きょうは黒のロングスカート。バッハやモーツアルト、美しい声とメロディにつかの間、心安らぐ。
    「地震は神様の思し召し、私たちは怨みません。しかし被災した人々をどうぞお救いください」と牧師さまはおっしゃった。

    このところ丸森の牧草から基準を超えるセシウムが出たり、ホウレンソウも県下で一番高かったり、やっぱり、とがっかりする。福島県に陥没した形の丸森はどうなるのだろうか。
    インターネットで調べると「Iターンの連中は真っ先に逃げていった。世話になったひとに挨拶もしないで」といった批判が多い。
    しかし人間はどこに住もうが自由だ。みんな子どもを自然の中で育てたいと夢を持って丸森に行った。その子どもの健康を守るためには移動したほうがいい。胸がつぶれるような判断だろう。逃げていけないのは公務員と議員だ。住民を助けるためにいるんだから。いわきの人は「地震のあと連絡のつかない議員が多かった」という。アキルさんは「そんな議員は次ぎの選挙で落とさないとね」と言っていた。

    5月23日 被災文化財の修復

    月末の締切りをいくつかすませ、午後はナショナルトラストの会議。東日本大震災で被災した文化財を修復するプロジェクト始まる。
    自然・文化遺産復興支援プロジェクト(http://www.national-trust.or.jp/shinsaishien.html)

    いわきの有賀行秀さんから、

    「いわきでも多くの文化遺産が消えようとしています。
    特に大正から昭和にかけての建物が一斉に取りこわされ始めました。
    いわき市も福島県も文化財に指定されているものについてはある程度調査をしましたが、 将来的に文化財になるであろう物についてはまったく無関心です。持ち主は今、壊すだけ、捨てるだけ。被災地では古いものを修理しようとしても資金的な余裕も心理的な余裕もありません」

    とメール。急がなくてはならない。

    夜は医学書院で津田先生や白石さんとのプロジェクト。ボランティア論、おたがいさまの考え方。イスラム文化、いろんな話に花が咲く。
    仮設住宅に政府がかなりの予算を付けたので、そのパイの奪い合いと言うか、木造仮設とかいろんなプランが出てきている。これに対し、熊谷秋雄さんは、工学院大学の後藤治さんと国産材による本建築の復興村を計画。すでに北上町に土地を手当てして始まっている。わたしは古着屋「ぱんたらい」とカフェスローなどにぎやかしで参加するつもり。
    インドでであった人形、ツナミカもつくれるといいな。ちくちく針を持つ仕事には本当に癒されるものだから。お金のためではなく、丁寧に毎日を送るために。

    5月24日 国会ネット中継

    きのう、参議院で小出裕章、後藤政志、石橋克明、孫正義各氏が参考人として意見を陳述した。参院のネットで見る。
    アフガニスタン侵攻のときに中村哲さんが一躍有名になったように、時代というものはヒーローを自ずと生み出すものだ。とくに小出さんの最後のガンジーの「七つの社会的罪」の引用が心に残った。
    「理念なき政治、労働なき富、良心なき快楽、人格なき学識、道徳なき商業、人間性なき科学、献身なき信仰」。
    アーメダバードのガンジー旧居でこの言葉をノートに写したのを思い出す。それにしてもNHKが中継しないのに、ものすごい数の人がネットで視聴、ブログやツイッターであっという間に広がった。リビア革命みたいだ。それにしても小出先生、かっこいいなあ。もう一人の原子炉研の今中先生の話はわが映像ドキュメントサイトにあります。見てね。
    放射能汚染調査から見た福島とチェルノブイリ・今中哲二さんの話(http://www.eizoudocument.com/0605imanaka.html)

    聞くところによれば、浜岡原発を停めたのはアメリカの意向だという。横須賀海兵隊の危険をなくすために。またアメリカはすでに日本とゲンパツの共同開発や売り込みはあきらめて、廃炉ビジネスや自然エネルギービジネスのほうに向っているのだとか。あいかわらずポチ。

    5月25日 田端がひどいことに

    週間金曜日によれば、若い女性が避難所を出る方たちのため、新生活スターターキットをつくりはじめたが、行政には「みんな同じものを作らないと公平でない」と協力を断られたとか。
    膨大にある支援物資を配れないのも、一部のひとだけに配ると不公平だから。義捐金もおなじ。現場で自分で判断ができないから、責任とれないから、いつも上司や本部に聞いてからになるのでなんでも遅れる。
    ホールボディカウンターを持っている病院もあるが、住民が測ってほしいといっても福島県立大野病院は「霞ヶ関の許可がないとだめ」といっているらしい。

    今日朝、中島岳志さんたちと田端を歩く。久しぶりだが、赤紙の仁王様から北側の斜面が、大規模住宅開発でポプラ坂までものすごいことになっていた。あのうらうらした畑のあったステンドグラス作家小川三知の 旧居あと、何も風景がない。津波が来なくても故意に風景が壊されることもあるんだ! 工事現場には東京都と書いてあったが。北区のホームページより。

    「田端駅二丁目周辺地区において、土地区画整理事業により都市基盤が整備されることに伴い、地区の特性に応じた街並みの形成による暮らしやすい住環境を確保するために定められた地区計画の内容や該当区域等を掲載しています。【平成18年決定】」

    森まゆみ(2011年5月26日)


    ●震災日録5月13日〜15日 森まゆみ

    5月13日 新東北列藩同盟

    きょうは歴女の会で上野彰義隊に付いて話してくれという。彰義隊の命日は15日。
    慶応4年5月1日、江戸で幕府方が負けたことを印象づけた点で、戊辰戦争中もっとも重要な闘いとされる。彰義隊は1000人から勝海舟日記では4000人といい、数ははっきり分からない。死者の数もはっきりせずおよそ300くらいか。新政府軍が40ほど。

    戦場はひろく上野から谷根千全域。根岸口はあいていたのでそこから落ち延びた彰義隊士は王子街道から奥州街道を北上、あるいは江戸湾から船に乗って着いたところが平港、つまりいま原発で問題になっており、大塚モスクや光源寺お握り隊が支援しているいわき市周辺。それ以前5月2日に奥羽列藩同盟が結成され、上野を落ち延びた輪王寺の宮がその盟主となる。
    磐城平藩は幕末の老中安藤信正を出したが、坂下門外の変に合い、蟄居。奥州列藩同盟に加わったが平城は7月落城、降伏。そのほか湯長谷藩内藤氏、泉藩本多氏(これもいわき市)も列藩同盟。

    福島原発の北側は旧相馬中村藩。岩代二本松藩は白虎隊より壮烈な二本松少年隊の悲劇を生んだ。福島藩は板倉氏3万石、ここでは世良修蔵暗殺という事件が起こり、藩主は維新後三河お預けとなった。
    幕臣たちは、仙台港からも上陸した。伊達藩は62万石、奥羽列藩同盟中もっとも大きくリーダーシップが期待されたが、あまり戦意ふるわずこの年、9月15日降伏。ただちに28万石に減らされた。

    今回、石巻にあった東京駅のスレート屋根が被災し、JR東日本がいったんはスペイン産に傾きながら撤回したのは、清野現社長が仙台出身なことと関係がないか? 保存を決めたときの松田会長は札幌出身だが、先祖は宮城の岩出山。岩出山は政宗が12年間いたところで、そののちも伊達の分家が城主だったが、維新後、多く北海道開拓へ向い、辛酸をなめた。その艱難辛苦を学問所有備館で見たことがあるが、この茅葺きの建物も地震で倒壊。JRの松田会長のご先祖もこの大変な北海道開拓に向った一人と拝察する。

    宮城とならんで被害甚大だった三陸沿岸部は旧南部藩。20万石の大藩だが、一時伊達領内、白石に移封され、70万両をはらって故地へ戻るという往復ですっかり疲弊、維新を待たずに廃藩になった。
    我が先祖は宮城県南端の丸森でおそらく伊達辺境のコサック兵のようなものだったが、「南部が入ってくるから立ち退け、といわれたので、侍身分を捨てて土着した」と伝わっている。耕した土地は身分より重い。それなのに原発事故では大地を捨てて、みな避難しなければならなかった。

    明治になって「白河以北一山百文」というのは「なんの値打ちもない土地」ということである。このいわれ方への猛烈な反抗として『河北新報』という新聞はできた。以降、東北は下に見られれつつ、首都東京のバックヤードとして人材、資材を担ってきた。飢饉の年に東北の農村からは吉原に娘の身売りが多かったことから、サントリー社長の蝦夷発言まで思い起こすことは多い。

    谷根千地域には東北縁故者が多い。名乗りを上げて新東北列藩同盟を作りませんか?
    そして協力して細く長い支援をしましょう。ちなみにわが母方は鶴岡、庄内藩。ここでは酒井のお殿様ご一家が今も居られ、致道館や松ヶ丘開墾場を守り、維新の辛苦を今に伝えているのです。

    5月15日 文部省と科学技術庁

    今日の平凡な一日。
    歯を抜いたあとを消毒してもらう。しのばず通り、つけ麺屋とラーメン屋の前に列。花粉症の時期も過ぎ、誰もマスクをしていないが、大丈夫なのか。私もしていないが。

    「今年の夏は暑くなりそうだ」が挨拶。「冷房が使えませんからね」。オフィスでもジーパンにTシャツ、アロハでもよくなるらしい。はめ殺し窓のオフィスはどうするんだろう。
    よみせ通り、野田やでオーガニックワインを赤白二本、谷中コーヒーで豆、魚屋さんでゲソとあら、と買ったらもうランチに入る気分ではない。
    それにしても五月の谷根千は花でいっぱい。団子坂上で牛肉と鶏肉、家に帰って昼間からワイン。このところ疲れすぎた。きょうはヤマサキが登米にいったので私は乗らなくてもよくなって、めまいのする体を休めることに。

    夜、桜井さんから電話。

    「文部省と科学技術庁が合体したのがよくなかった。国策の原発推進を副読本で叩き込んだ。われわれの世代はビキニ環礁核実験で雨にぬれるな、ミルクを飲むな、で恐さが叩き込まれているし、スリーマイルやチェルノブイリも知っている。今の20、30代は原発はクリーンで安全で育ってきた」「いまこそ何か言うべきなのに環境省はまったく存在感がない」「勝手に20ミリシーベルトにしたことに対して、東京の親たちももっと騒ぐべきだ」「福島の学校の校庭の土をけづるのは東電がやるべきしごと。ダイヤモンド鉱山が爆発したらダイヤモンドを拾い集めるでしょう。俺のもんだって。放射能を作ったのは東電なんだから、製造物責任でも汚染土壌を自分ところで拾い集めさせなくちゃ」「そもそも学校は夏休みまで休みにしたっていいんじゃないの? マニュアル通りはじめるから、子どもは避難できなくなり、避難所になっているところはまた第二次疎開しなくてはいけなくなる」

    東京の富ヶ谷国民学校が青森に疎開したときの記録が、NHKのドキュメンタリーになっている。「親はみんな晴れ晴れした表情、子どもだけでも安全なところに逃がせたら親はうれしい。それで後顧の憂いなく仕事に励める。そういう風に今回もするといいのに」

    飯館村がようやく自主避難をはじめるというニュース。そのなかに妊婦や赤ちゃんもまだいるとあってびっくり。まだいるなんて!

    東電清水社長、社員の退職金年金に手をつける気はないとか。「それぞれの老後の設計もある」。東電のせいでしごとも家も失った人がこれだけいるというのに! その人たちの老後の設計はどうなるのか? 会社社長の友人(女性)が東電幹部は避難者に家を明け渡せといっていた。そんな、非現実的な、と思ったが、今日のニュースを見て、そうすればいいのに、と思った。

    5月15日

    桜井さんの話は面白くて、いかに東北や関東は東京に人材を送っていたかに花が咲いた。

    「うちは15坪の長屋に山形出身の女中さんがいた」「うちは千葉だったな、婆さんなんて口悪いから茨木巡査に千葉女中なんて言ってた」「たしかに森鴎外の家でもだいだい女中さんは安房から来ていたようで、たぶん口入れ屋が上野辺りにあったのだと思う。鴎外が大原に鴎荘を持ったのはその関係もあるのかもしれない」
    「うちの女中さんは不義密通して帰された。そのとき、だれかが「まっつぐけえんなよ」といったのが忘れられない。風呂敷包みを持ってとぼとぼ帰るまっすぐな道が見えるような気がしてさ」「うちの隣りは茨木巡査でさ、僕が会社に入って浅草署に行ったら偉くなってた。おじさんここでなにしてんの、と聞いたら「知能犯の担当だ」って胸を張った。浅草署の副署長だと言って食い逃げしたやつを捕まえたとか言ってた」「たしかに昔は警察の人というと下町ではただ飯食ってたもんね。うちの患者にも警察の人がいてよく貰い物だと言ってバナナとか持ってきてくれたもん」

    今朝、北上の熊谷さんがきた。

    「森さん、河北新報見ましたか? 名取市の役場職員の4月の残業代が3億円というんですよ。市長が半分にしてと言ったら組合が反対、だって。
    この非常時に住民は一銭ももらわないで不眠不休なのに、何いってんですか? 自衛隊だって来なくていいのに来て渋滞は起こすし、特別手当出てるんですよ。日本赤十字なんてみんな皇族とか担いで、集まった義捐金で日経新聞に大きな広告出して、まったく義捐金は配らないで、自分たちは残業代とっているんですよ。官僚だって同じですよ。この国は官僚と公務員に食い殺されますよ」

    「大川小学校なんて人災ですよ。みんなかばっているけど、校長は休みとっていなかったし、マニュアル通りの対応で、よその子も連れて帰ろうとしたら親か祖父母にしか渡せないとか、学校が避難所だからここにいれば大丈夫とか、臨機応変な判断ができなくて、その無能を攻めないでNHKなんかもいつまでもお涙ちょうだいのニュースばっかりやっているんですからねえ。公立の学校はもう駄目ですね」

    ヤマサキが母子家庭で一生懸命東京で働いても20万は稼げないのに、ヤマサキの義母は100歳で高知市役所職員の妻というだけで毎月遺族年金が20万出る。やっぱりこの国はおかしい。天下りだってあれだけしつこく書いてもまったく改善されないのはどういうことか?

    【5月18日追記】名取市役所の残業代は、調べてみると1億6000万円だった。職員ひとり当たり、30万円だそうです。それにしても高い。ボランティアはただなのに。でも県は労働基準法違反なので支払えと命令したそうです。組合はいったんもらってから、みんなで募金するとか言っているようです。
    きょうからいわき。4日間、かけません。かえってから。

    森まゆみ(2011年5月15日)


    ●震災日録5月10日、11日 森まゆみ

    5月10日 細く長い支援について

    朝、ポプラ社から出すエッセイ集「おたがいさま」の原稿を渡す。去年、このタイトルにしようと決め、営業部の人たちも気に入ってくれ、みんな個人主義で浮かれている社会、個人で悩んでいる社会に一石を投じようということだったのだが、なんだか時代にぴったりしすぎるタイトルになってしまった。

    昼、久しぶりにやねせんなかま4人で昼食。忙しくてなかなか顔が合わない。
    たんぴょう亭のおいしいご飯、おじさんたちの優しい笑顔がうれしい。この間の疑問をヤマサキに聞く。
    「どうしていわきの野菜とか持って来て売ってるのに、こっちからまた野菜きざんで食事作って届けなければならないの?」
    「東京からでなく後背の被害の少ない農村部から野菜や果物を送るわけにいかないの」

    各地に行った人の話によると、
    *避難所によって情況や雰囲気が相当違う
    *被災者は家や仕事をなくし、ぼうぜんとしていることが多い。
    初期には持って行った食事を取りあう、配ってくださいと言っても誰も手伝わない、手弁当の民間支援なのにお金もらってやっているのだろう、と思っているようでお礼などはいわれない、という情況も見られた。
    *市役所の職員は毎日日替わりで、リーダーシップをとりきれていない。
    *ボランティアで長くいる人が号令をかけるようになるが、その人の性格ややり方で雰囲気が左右される。外からの支援を断るところもある。
    *とてもひどいところは自衛隊が来て、パックご飯やパンを配っている。
    *近くには飲食店もあるが被災者はお金を持っていない。まだ救援金が配られていない。
    *避難所によってはまだ、炊事する器具や冷蔵庫、洗濯機もないところもある。
    *仮設住宅に入ると自炊しなくてはならない。年金のでている人以外そのお金がない。
    *仮設の人が食糧をもらいにくると「仮設に入れたくせに」と排除する人もいる。
    *避難所の縮小や統廃合が起こると、そこでまた新住民旧住民のトラブルも起こる。
    *ちょうど原発から30キロ圏のある学校では校庭でクラブ活動をやっている。
    *みんなマスクなどしていないので支援者だけがするのははばかられる感じ。

    伝聞なので間違った情報も含んでいる可能性があるが、ようするに人間社会にありがちなトラブルが当然、過密の避難所でも起きているらしい。それだけ情況が過酷だということだ。
    対立を緩和し、自立をうながすような取り組みはできないか。ヤマサキはかなり疲れている。最初の頃「偽善と自己満足のあいだをウロウロしているような気分」といっていたが、私もなにをしてもそんな感じにとらわれる。明るくおおらかな避難所が増えますように。

    5月11日

    中島岳志さんと両国を歩く。
    いま、震災記念堂と復興記念館に行くといろいろ考えさせられる。回向院の相撲も、もとはと言えば飢饉や地震でなくなったひとを弔う追善相撲だったということ。回向院の境内にはたくさんの『横死』者を弔う碑が立っている。

    横網町の本所被服廠あとに伊東忠太設計で建てられた震災慰霊堂は、来るべきつぎの震災への警告として建てられたとあった。ここで4万人近くが命を落とし、本所区の死者は東京市の過半を占める。
    もうひとつの建物も伊東忠太設計の復興記念館だ。木にひっかかったトタン屋根やグニャグニャの自転車、ガラス、銅貨、アメリカからの支援の服、当時を描いた絵や写真がたくさんあって今、学ぶことが多かった。
    安田邸園があり、安田財閥の屋敷があったがここで身内に死者が出たため、安田家では高台の地盤のいい千駄木に移転して今の安田邸があるのだ。安田善次郎がつくった安田高校も隣接してあった。

    夜、結城登美雄さんから電話があった。

    「東北の太平洋沿岸を歩いて来たが、本当におろおろ歩き、というかんじでした。壊滅とはこのことかと無力感にとらわれた。
    でも震災から2ヶ月立って、もう話もしたくないといっていた人たちが、すこし口を開き、前向きに動こうとしている。それに相槌を打つしかない。

    今も瓦礫の中で何かを探している人がいる。ここはほんとうはいいところなんだよ、とかきれいな港があったんだよとか、そういう人に寄り添っていけないか。
    復興構想会議だって誰のためのどこのための復興なんだよと思ってしまう。
    現地が復興する気にならなかったら絶対復興しない。上から何か決めてもなあ。もうカツオがそこまで来ている、と焦っている漁師もいるし、牡蛎の種付けをしなくちゃ、とうずうずしている漁師もいる。そこに原発が入ってくると心が晴れないんだなあ。さあやろう立ち上がろうという気持ちが萎えるんだ。

    沿岸で潮が入った田んぼは2万ヘクタール、これは160万人が1年に食べる米ができないということだ(私の計算、2万ヘクタールは2万町歩、1町歩は10反。1反で約8俵、1俵は60キロで、ほぼ日本人はひとり1年60キロの米を食べる。つまり8×10×2万=160万)。もう3、4割減反して放置された田んぼはいっぱいあるんだから、そういうところを耕せるように融通きかせろ、というんだけどなかなかそれがうまくいかんなあ」

    結城大明神の巫女として書かせていただきました。

    森まゆみ(2011年5月11日)


    ●震災日録5月7日〜9日 森まゆみ

    5月7日 電気漬けの暮らし

    一日たまった仕事。渋谷の反原発デモに行きたかったが、おそらく拡声器で大音響だと思いやめる。原田病で耳鳴りがするので、ひとの多すぎるところやマイク音は無理。反原発をいうなら電気を使うのはやめたらいいのに(たとえ電池でも)。この前もせまい部屋で集会が行われたのに、具合の悪い入ったり入らなかったりする、しかも雑音の入るマイクがつかわれた。質問のさいマイクをまわすのにも時間がかかるし。肉声の美しさ。マイクなしで話した方がずっと心にしみる。

    それにしてもいかに電気に頼った暮らしをしているのか。大学病院に予約の電話をかけても行政に問い合わせの電話をかけてもずっと待たされる間、ずっと待機メロディが流されている。くりかえしグリーンスリーブスとかを聞かされるのはつらい。ANAの予約なども、つながるまでずっと同じメロディで頭にこびりついてしまう。

    トイレに入ると音姫とかいう消音器がついているが、おしっこの流れる音は気持ちいいのに、なんであんな人工的な流水温を流さなければいけないんだろう。
    ドアを開けると便器のふたがあき、流水音がし、離れると自動で洗浄され、洗面で手を出すと自動で洗剤が出、水が洗ってくれる。拭かなくても手をかざせばすごい音響で温風が噴き出す。「衛生的」のかけ声のもと、これだけの設備がなされ、企業はもうかる。全自動で末端神経を使わなくなってわれわれの世代は早くボケるだろう。

    母のところへ富山のカニやホタルイカを持って行った。うちでは見られないテレビをリモコンでつけようとすると、つかない。「待機電力がもったいないから、コンセントを抜いてるのよ。これで今月いくら電気料金が下がるか楽しみ」と母はいった。3月11日以来、暖房もまったくしていないという。「夏はクーラーが使えないだろうから、自然にあわせてみてるの」「避難所に行って暮らせるかどうか、ここで試してみた。たたみにぼんやり坐って一食おにぎり一個でやってみたら、すぐ低血糖でふらふら」だって。

    5月8日 地域で被災地を応援

    日曜日。いい天気。ひるすぎ、かなかなさんの谷根千てづくり市へいった。路地いっぱいに店がならぶ。福島県のジャムや織物を得る店もあった。地域でもフクシマを応援しようという動きは広がっている。
    谷中銀座は相変わらずの雑踏。三代百年続く魚亀さんが廃業。先代からよく知って居るだけに残念。安心な鮮度の高い魚が仕入れできなくなったため、というようなことが書いてあった。
    夕焼けだんだんうえの深せんでは、はてなさんが私の仕入れてきた角田の米や大崎の酒を売っている。5キロ2500円は原価、大変おいしく無農薬だが、値段のためなかなか売れないらしい。きょうはめぐちゃんの帽子屋さんも。これから紫外線を防ぐにはよさそうなつばの深い、帽子を作っている。早速買う。

    被災地に親戚のいる人から、「津波のあと、おじいさんが庭にへそくりを埋めておいた、と言い出し、みんなで探したけどなかったって」という話を聞く。
    なんと2000万埋めてあったとか。うちの先祖は台風のとき流されてきた金の壺を拾って長者どんになったという話が丸森では伝わっているが、あながちウソではないかもしれない。

    NHKは相変わらず美談のたれながし。津波の一時間半番組も見たが「地震が起きたらすぐに高台へ逃げましょう」以外に特に新しいことはなかった。民放の「がんばろうニッポン」や「日本はひとつ」も気味悪い。岡倉天心の欧米の植民地主義に抵抗するための連帯を表した「アジア・イズ・ワン」が戦時中、いかににすり替えられて八紘一宇の旗となったか、憶い出すたびぞっとする。

    5月9日 相撲を久しぶりに観に行く

    朝、タクシーに乗った。運転手さんが「もう自分たちの収入は時給700円くらいで、生活保護を受けた方が収入ある。保険もタダだし、住宅もタダだし。原発で1時間1万円で作業員を募集したらすぐいっぱいいなったというじゃないですか? わたしだって行きたいですよ。もうこの年になったら、あと何年かすれば死んじゃうんだから」

    母を連れて大相撲の技能審査会へ行く。その道々話すことが面白い。
    「NHKは毎回同じニュースで進歩がないから。朝7時の一回見れば充分よ」
    「オレオレ詐欺が来たらやっつけてやろうと待ち構えてるんだけどまだ来ない」
    「この前新聞の勧誘員が来てなにをお取りですか、というから、あんたの知ったこっちゃない、といったの。その前にはとってくれと土下座したの。で、土下座しなくちゃとってもらえないくらい内容のない新聞なの、と聞いたら、イヤ、いい新聞です、というじゃない。だから子どももいるんだろうに、もっと自分の仕事に誇りを持ちなさい、といったのよ」
    最後に、「最近の男はだらしないわね。いつからだらしなくなったか知ってる? 郷ひろみが二谷由利江と結婚するとき、記者会見で泣いたでしょ。あのときからよ」

    技能審査会のあいだもいろいろ話す。
    「わたしのときは何たって双葉山、でも玉の海のほうが好きだったわ。透き通るような肌で。羽黒山というのもいたけど、鶴岡じゃないね。鶴岡出身は出羽嶽文ちゃんだけ。あの人はよくうちにきたけど斎藤茂吉の弟分で、うちにくるとかも井上に頭が出てたし、通りの角におそば屋があって天丼八つとか、親子丼六つとかぺろっと食べちゃうの。あとは前の木村庄之助くらいかな。鶴岡は。柏戸は本名は富樫と言って鶴岡に多いのよ。今日出ている上林というのも多い。おとうさんは魁皇が好きだったからきょう勝ってよかった」

    被災地のこどもたちか、セーラー服の集団がいた。
    白魚のようなる相撲 隠岐の海
    栃乃洋、豊の島、黒海、荒海、田子の浦、三杉磯、春日波、お相撲さんの名前は海に関するものが多い。

    森まゆみ(2011年5月9日)


    ●震災日録5月2日〜6日 森まゆみ

    5月2日

    ある方が宮城県の農作物の放射性物質測定値を送ってくれた。朝日の記事で「基準値下回る」という見出しで、県は「安全性に問題がない」と話していたそうだが、ホウレンソウの最高値は丸森町の126.3ベクレル、という数字を読むと胸塞がれる。基準値というのは「安全です」というお墨付きではなく、「ここまではしかたないでしょう」ということなのだから。どこかでは洗ったホウレンソウを測っていたらしいし、ハウスものを測っているところもある。露地栽培だともっと出るよね、と丸森の友人はいう。

    南相馬に行った友人が聞いてきた話。ボランティアのなかには放射能計測器を持ってきて一日中はかっている人がいる。ガーガーピーピー言って、住民は「危険なのはわかっているけど迷惑、うるさいし、子どもも怖がる。行政が大丈夫といっていているから土地を捨てて逃げられないのに本当に腹が立つ」といっていたそうな。「うるさい」といったら「そうですか。朝夕一日二回測ればいいんで」といいつつ玄関先で煙草を吸って、ますます住民に煙たがられたとか。うーむ。

    『即興詩人のイタリア』が文庫になり、解説を書いてくださった武谷なおみ先生にお礼のメールを出したら、京大原子炉研の「熊取六人衆」のうち2人と院時代の仲間なので、講演があると聴きにいっています、とお返事。
    イタリアは5月が一番いい季節なのになあ。きょうから私は、地震の前に約束した能登の七尾の青柏祭を観に行く。

    5月3日 祭りも必要だ

    長いこと、浮き足立った生活をして来たので、すこし離れたところから自分を眺めてみよう。ブログを読み返すと感情が先走って書いたところ、あらっぽいところもある。タイの奥地の支援と震災支援を並べて書いたがこれも単純すぎる比較だったかもしれない。

    しかし、大きな避難所に積み上げられた支援物資からなんでももっていっていい、というやり方は、ときが立つにつれ、問題が多いように感じた。とりあえず間に合わす、ということから、デザインや色を選ぶ楽しみ、買う楽しみも大事なことだと思うし。
    地域からも必要のあるところへは炊き出しへ行っているが、給食でなく、自分たちで調理、配膳したほうが気分がいい、元気が出るという人もでてきた。自立支援というような固く冷たい言葉は使いたくないけれど、自分が被災者ならそっちの方がいい。

    連休、友人のなかには、とにかく国内で遊び回って金を落す、という人もいる。それもいいだろう。七尾のお寿司屋さんは「今年は年度替わりの送別会も卒業祝いも自粛で売り上げが落ち込んだ。お祭りに期待しています」といっていた。でか山の木遣りにも「東北の被災地へエールを送ろう」というフレーズがあり、法被姿の肩に「がんんばろう日本」とちいさな文字が見えた。でか山を引くと厄よけになるというので私も引いた。「こんな遠くだから何もできなくて」という七尾の醤油屋、鳥居正子さんは大塚モスクに醤油や味噌を炊き出し用に送ってくれた。骨董「竹のはし」さんは、募金箱の中身を私にくれた。いわきへの炊き出しに使わせていただくことに。

    5月4日 志賀原発のはなし

    七尾では、火力発電所ができるときさえ、漁師さんたちが「海の生態系が変わる」といって猛反対したそうだ。志賀原発に続き、珠洲にも原発が作られそうになったが、お寺さんはじめこぞって反対してできなかった。志賀原発はいま1号機、2号機ともに運転をとめているが、それでも計画停電はない。「北陸は原発がなくてもじゅうぶんまかなえる。あれは名古屋と大阪の都市部の人のためでしょ」と土地のひとは冷ややかだ。
    つまり福島と東京の関係は、能登という過疎地と名古屋・大阪の都市部であるということだ。しかし七尾は原発20キロ圏、何かあったら大変という思いはいや増している。門前、穴水、珠洲、輪島、原発が近いがどこも風光明媚で歴史と文化に恵まれた土地。

    志賀原発へいってみると松林にさえぎられほとんど見えない。その近くにアリス館という原発宣伝館があって、遊具もあって子連れで遊べるし、無料のシャトルバスが出て、フラワーパークへも無料で入場できる。
    なんだか八っ場ダムの情報館をデラックスにしたようなものだった。それにしても原発の安全性を説明するアリスがかわいそう。

    石川県知事は原発容認、志賀原発のある志賀町では原発反対を表明している町議は堂下さんだけである。
    権上さんから、なんで今頃公表のSPEEDIの拡散予測42枚。
    緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)の計算結果について(http://www.nisa.meti.go.jp/earthquake/speedi/speedi_index.html)

    5月5日 城端

    七尾から、城端の曳山まつりを観に行く。昨年11月、世界遺産登録15周年を迎えた白川村でお世話になった山口誠さんが、七尾まで来るならぜひ城端もと誘ってくださった。
    富山県はもっとも縁のない県だ。行きの電車のなかでも「親不知」を通れば森鴎外『山椒大夫』に出て来た地名だな、と思い、魚津を通れば「米騒動のあった土地か」と思う。
    城端のお祭りは勇壮で巨大なでか山とは対照的に、京や江戸の花街を模した庵という屋台と繊細華麗な山車がセット。庵唄所望とある家の前に止まって三味線にあわせて端唄をうたうというなんとも雅なお祭りだった。着いて歩く男たちは紋付袴である。山を背景に町並みが映える。ホタルイカがおいしかった。

    翌日は、宝生津というところへ。案内してくださった宮崎さんは「東洋のベニス」というがなるほど、漁船とプレジャーボートが泊まる運河のような内川は、ゆるやかに蛇行する川沿いにおなじ傾斜の屋根がすこしづつずれて見え、時間を経たトタンの壁もなかなか渋かった。
    遠くに見えるのは富山新港の火力発電所。北陸電力は北海道電力と間違えないよう、陸電とも呼ぶ。
    明治29年、富山の薬売りで財を成した金岡又左衛門が中心となり、富山電燈を設立。山岳の多い地域なので水力発電が盛んで、火力、原発は開発が遅れた。見えるのは石炭火力であるという。この近くの伏木港からは唯一、ウラジオストックへの客船が出ていたはずなのだが、これはロシアでの中古車販売が低調のため今は休止中とか。

    5月6日 浜岡を止める?

    菅総理、浜岡原発を止めるよう要請。おそい。しかし政権が民主党になっていてよかった。自民党だったらこれにもまして隠蔽が行われていたはず。

    光源寺おにぎり握り隊はもう初夏のためおにぎりはやめて、5月8日にはいわき市四倉高校へ150人分の食糧と冷蔵庫、洗濯機、最新刊の雑誌などを届ける予定。1回の支援に3、4万はかかるという。カンパを募集中。山崎から来るメールは「細く長い支援になります。よろしくお願いいたします」といつも最後は結ばれている。

    戦争捕虜研究会の福林先生より、釜石繊細資料館が被災、津波で資料がすべて流されたとか。

    栃木テレビに出てきた「国際的に評価される英文論文を書いている」「東京大学の稲恭宏博士」にはオドロイタ。「ずっと続いても放射線はまったく心配はありません」「安心していただいて」「害のないレベルの放射線で不安になったりせずしっかり栄養を取ってがんばってください」といっている。「まったく」の連呼。
    全然問題ありません!稲博士の緊急提言(http://www.youtube.com/watch?v=aKSpY8nT4PA)

    長崎大学山下俊一教授はWHO緊急被曝医療協力センター長で福島県放射線健康リスク管理アドバイザーだそうだが『放射線の影響はニコニコ笑っている人には来ません。クヨクヨして入るひとに来ます」「100ミリシーベルトあびてもガンになるのは100人に1人」といっている。
    放射性物質の影響:山下俊一・長崎大教授(http://smc-japan.org/?p=1413)
    3月21日講演会で・東北関東大震災 記者会見まとめ(http://ameblo.jp/kaiken-matome/entry-10839525483.html)

    涙の辞任で賞賛が集まりかけた放射線科学の小佐古敏荘東大大学院教授、内閣官房参与はミスターICRPと言われている人物で、原爆症認定裁判では政府側の人証人として法廷に立った人であるそうな。

    これまた驚いたのは、丸森の講演会にきた東北大学の先生が丸森の放射線値を「まったく人体に影響がない」といいながら、「海外に避難する人がいますが、飛行機に乗っていくと被曝をしますから、脱出するなら船をおすすめします」といったそうな。これジョークのつもりかな。

    森まゆみ(2011年5月7日)


    ●震災日録5月1日 森まゆみ

    5月1日 節電の方法とふるさと納税

    メーデー。ものすごい風。集会やデモも大変だ。
    5月、家で昼間は電気をつけないし、動いているのは冷蔵庫くらい。
    洗濯機はあるがシーツなど1か月に一回も取り替えないので大人3人で4日に1回くらい。
    うちでは狭くてゴチャゴチャで、掃除機は使ってない。無用の長物。勤め人もいないのでシャツもないしアイロンも使ってない。
    皿洗い機というのもなんであんなのがあるのかわからないが、うちにはない。
    電気ポットというのを旅館で見るが、あれも追い炊きシステムでしょ。うちにはない。

    原田病なのでクーラーはだめ。これからアンペアを下げようと思う。
    マンションの入り口のクーラーやロビーの電気のつけすぎは前から気になっていたんだけど、これからいおう。あとだしじゃんけんみたいだけど、やらないよりいいわ。
    このところ気に入ってるせりふ。
    Better later than never! 遅くたってやんねーよりましだろ!

    元谷根千ホームページ管理人、Mさんから久しぶりにメール。
    一番いい飲み仲間だったのになあ、あっというまに三児の父。

    「あ、そうそう。なぜか総務省がふるさと納税の効率化を素早く実施したの知ってる? 振込票の保存と確定申告だけで良くなったの。このへんの対応は直接の担当者の資質でぜんぜん違うんだろうね。
    僕は今年から学生の頃に原町に行ってとても良い思い出がある南相馬市に毎年納税するつもり」
    総務省・ふるさと寄付金など個人住民税の寄附金税制

    勝手に引用してごめん。わたしは文学館などで付き合いの多い仙台市にするかな。
    丸森はそんなに被害ないし。都知事選で負けたひとはみんな被災地へ納税しよう。
    負けたひとがこんなにいるということを天罰知事に思い知らせよう。

    森まゆみ(2011年5月2日)


    ●震災日録4月29日、30日 森まゆみ

    4月29日 房総の人々

    昼のNHKニュースが、ウィリアム王子の結婚式が今日、行われますというひとつだけ伝えてアナウンサーがお辞儀をして終わったのには唖然とした。

    縁あって外房に海の見える小さな家を住み継ぐことにしたのは昨年12月。ある著名な建築家の建てた空間の質の高い家で、友人たちと保存しつつみんなで使おうということになり、ゆずっていただいた。その後、ものすごく手間とお金を食うことがわかったが、窓から広がるあらぶる海の風景はすばらしい。

    ずっと気になっていたが、震災後はじめて行った。高台にあってのぼるのは大変だが、津波は来そうにない。集落の方に「地震は大丈夫でしたか」と聞くと、「ここは地盤が堅いからね。その代わりちょっと掘ると岩盤で畑を作るのは大変なんですよ」という。集落は元海女さんがおおいのだが、「江戸の頃、大津波で集落が流されたので、けっこう上の方にすんでいるんですよ」という。

    町に出て見ると連休なのにすいている。海鮮どんを食べた食堂のおじさんとおばさんも放射能の話をしていた。
    「この辺は関係ないと思いたいけどね」。千葉でもカタクチイワシから高濃度でている。「夏もだめでしょ。今海で泳ぎたいひとなんかいないでしょ」。

    このところ、定年後「海の見える家」に住みたい人が多く、房総田舎暮らしでこの辺の不動産屋もけっこう繁盛していたらしいのだが、客も津波のことを考えないはずはなく、地価は下がっているかも。
    そう言えばうちの家も新しい浄化槽をつけなくてはならずその見積もり中、頼んだひとから「早くしないと復興需要で工務店が忙しくなり、どんどん手間賃が上がっていきます」と言ってきた。せちがらいものである。

    岩手の方が宮城より人的被害が少なかったのは、津波の高さもあるかも知れないが、明治28年の三陸大津波や昭和8年の津波の経験が染み付いて伝わっていたからだろうか。
    仙台以南の人たちはまさか、津波が来るとは思わなかったといっていたし、石巻でも8メートルの堤防があるから大丈夫といって逃げなかったひとが流された。
    一度目の津波のあと、家にお年寄りがいるからとか、貴重品など気になって家に戻ったひともなくなっている。
    これからは「地震のあとに津波あり」と、子供たちに10回となえさせるほうがいいかも知れない。「マッチ一本火事のもと」「明日ありと思う心の仇桜」「孝行をしたい時に親はなし」。こどもの頃に何度も聞かされた言葉はいまものこっているから。

    原発についてわかりやすく書いた中山千夏さんのホームページ。「私のための原発メモ」。私の腰回りが半分だった頃。
    同感です。

    4月30日 お出かけ着

    前に、喪服がほしいと言ってきた被災地の人のことを書いたが、「お出かけ着がほしい」「お洒落着がほしい」と言っている人もいるという。
    着のみ着のままで避難所ではトレーナーやジャージーを着ていても車で町にいくときもある。お葬式も入学式もある。お古でよかったらお洒落着を送りたい、という人はけっこういるので(だってお洒落着の新品を買うと何万もするんだから)そのマッチングも誰かやれないかなあ。

    避難所に送るのではなく、石巻に小さいお店を出したらどうかしら。 古着でうんと安くお洒落着を売ったら。
    私はタイの奥地へときどき古着を洗って持っていくが、集落の人にただでは提供しない。そうすると施しとか慈善になってしまう。フリーマーケットをしてうんと安く売る。そうするとタイの人がお客さまで私は買ってもらった人になる。それでイーブン。

    被災地でお花屋さんをはじめた人のことを読んだ。もともとはじめる予定だった。こんなときに始めていいのかしらって、とまどいながらはじめたら、地域のひとがみんな喜んだ。毎日白いリボンを結んだり、棺をお花でうめたり、悲しかった。でも最近入学式とか、誕生日とか華やかな色のお花を渡せるようになって嬉しい、と。

    「真の危険」について語るのは難しい。いま野菜が売れない、売りたいと思っている人に、田植えをしなくちゃと思っている人に、ここの学校に通い続けたいと思っている人に、海に舟を出したいと思っている人に、原発のはなしや放射能のはなしをするのはとても難しい。
    いっぽう「このままでは夏のピーク時の需要に応えられない可能性も出ている」という東電吹聴屋のメディアに乗って「電気がなくちゃ暮らせない」「夏にクーラーがないなんて耐えられない」「ドイツやイタリアはフランスの原発電力を買っているだけ」という論調も高まっている。
    いま原発は55のうち、15は止まっている。すくなくともずっと止まっていてもらいましょう。

    森まゆみ(2011年5月1日)


    ●震災日録4月28日 森まゆみ

    4月28日 今野大力と菅原克己

    英王室の王子の結婚式をうきうきと伝えているNHKの女性キャスターおよびアナウンサーたちはひどすぎる。『こんな時だから明るい話題を』なんていう、おちょぼ口のディレクターに糸を引かれているのだろうが、『若い世代にも王室の支持が広がっています」なんていうコメントは、意図あるものとしか思えない。原発の意図ある報道を見すぎてからはなにもかも疑ってかかる自分がいる。

    自分が美人で賢げだと信じきって、深い思いもなく口先だけでペラペラと話すアナウンサーが多い。さかしらというのでは。勝間和代という人の話し方もそうだ。過剰な敬語と理論的厚化粧のぶん言葉数が増えるからやたら早口になる。

    ものいえばプチブル寒し初夏の風ってやつだな。

    アナウンサーのJALのスチュワーデスみたいな、片足半分だして、両手をお腹の前で組むスタイルもやだなあ。一方で着のみ着のまま体育館でマスクしている人たちの日常が写し出され、それを伝えるアナウンサーがシャネル風のスーツにばっちり化粧というのも違和感がある。

    彫刻家の佐藤忠良さんが3月30日なくなられた。99歳だった。
    宮城県黒川郡舞野というところで生まれたとあるが、宮城県丸森の人たちは丸森出身者だという。どういうことかな。尊敬する安野光雅先生が尊敬する芸術家なのできっと立派なひとなのだと思う。そういえば『大きなかぶ』という福音館の絵本は、佐藤さんの絵だった。『若者たち』の佐藤オリエさんは、忠良さんの娘さんだ。北海道で暮らし、シベリア抑留も経験したが、作品は宮城県立美術館にある。

    丸森からは不思議な人が出ていて、詩人今野(こんの)大力なども引かれる人物だ。

    「今野は、1904年(明治37年)に宮城県丸森町に生まれ、3歳のとき北海道旭川に移住。父母は馬車鉄道の待合所をかねて雑貨店を営みますが、貧しい中で弟や妹を出生間もなく失います。しかし、今野は、逆境にめげず、幼少のころから心やさしく、仲間たちからも慕われました。旭川時代から郵便局などで働きながらも向学心に燃えて独学に励み、17歳のころからは叙情性の豊かな作品で詩人としての才能が認められ、文学活動をつづけるなかで、民衆の生活への社会的関心をつよめていきます」

    というのが赤旗2007年8月25日付で出ていた。この前読んで感動したアイルランド文学『アンジェラの灰』を思い出す。1932年3月の大弾圧で捕えられた今野は、なんと『駒込署』での拷問がきっかけで釈放されたものの、結核が悪化し31歳でなくなる。宮本百合子『一九三二年の冬』『刻々』などにも描かれているという。読まなくては。

    大槻文平という人も丸森出身なのだ。三菱鉱業社長、日経連会長というから、今野大力とは真逆のひとだろう。丸森では評判は良くない。

    「大槻文平さんは郷土に冷たかった。どうにか丸森に企業か工場を誘致してくれとお願いに行ったら、そんなことより丸森はあの美しい自然を守って行くのがいいんだよ、といわれておしまいだった」。

    不満げな人の顔を見て私は噴き出した。どうみてもブンペイさんの方が正しい。

    西日暮里在住のSさんからのメール。

    いい季節がやってまいりましたのに・・・
    故郷の風景がなくなったその淋しさは、
    まるで失恋の悲しさ、苦しさです、まるで。
    そして、今までのように深呼吸し、地の野菜も魚も貝も
    心から楽しみ続けられるのでしょうか、この不安の暗さ、深さも
    ただならぬものです。

    この方は亘理出身。そういえば全生庵にお墓のある菅原克己も、亘理の出身じゃなかったかな。たまたま出てきた『カサナグのフィリピン』というホームページから彼の詩を孫ペーストさせていただきました(このホームページも面白そう)。菅原克己を知ったのはもう20年近く前、西田書店の『遠い城』。ゲンゲ忌には行ったことはないのだけれど。

    どんなに忍耐強く、
    小さく、黙って、
    人は生きてきたことだろう。
    となりのおじさんは
    こどもと二人ぐらしで、
    勤めが終わると
    こどものために市場で
    魚や大根を買って帰る。
    道で出会うと
    大根を振りながら笑う。
    ぼくが詩を書くのは
    まさしく、
    そのことが詩であるからであって、
    詩が芸術であるからではない。
    菅原克己(「ヒバリとニワトリが鳴くまで」より)

    森まゆみ(2011年4月29日)


    ●震災日録4月27日 森まゆみ

    4月27日 権上さんからの情報

    岸田衿子さんがなくなった。昭和4年生まれ、母と同じ年。ものすごくユニークな方。芸大で油絵を学んだのに詩人だった。1ヶ月前くらいにも電話をいただいて、『すぐ来て、ピアノを弾いてちょうだい」といわれたのに。
    谷中の高台におうちがあったが、いることは珍しくて、北軽井沢か冬は湯河原にいた。かなしい。子供たちも遊んでもらった。そのときの衿子さんのくりくりいたずらっぽい笑顔を忘れない。彼女は八ッ場ダムにずっと反対だった、

    尊敬する友人、権上かおるさんからきた有用な情報を今日は列挙します。
    谷根千工房の後を借りていただいた市民科学研究室のHP(http://www.shiminkagaku.org/) 。ぜひ。

    ◎放射能対策(3月24日)

    ○服装
    フードの襟に毛皮が付いているものは、汚染物質がつきやすいので、ふちの毛皮部分は外して着用する。洗濯物は当面、乾燥機か室内で乾燥させる
    ○水道水の131ヨウ素汚染対策
    妊婦さんと乳幼児の飲料用を優先して考えることを原則とする。ペットボトルを買い占める対応は慎む。
    1)活性炭、炭(シンプルな活性炭の浄水器、水に炭を入れておくなど)に水道水を接触させて回収は、非常に有効 ※注)
    2)貯め置き 冷蔵庫でも冷凍庫でも可 ヨウ素は気体のキセノンになる
      ヨウ素の半減期は8日間だが1日程度の溜めおきでもかなり減衰する
      冷蔵庫や冷凍庫であれば、もう少し期間を延ばせるので 有効
    3)煮沸で揮発性のもの仮に吸っても、飲むよりまし で 有効
    4)中空糸膜浄水器 あまり ヨウ素には有効でない
    炭素(炭や活性炭)とヨウ素は非常になじみがいい。1)2)3)の組み合わせで対応を。
    ※注)活性炭や炭が入手困難な場合、割り箸をアルミホイルにつつんで焼いて炭をつくりペットボトルの水にいれれば少しは取れるかもしれないただ、今回公表されたもの以外にも、様々な放射性核種がいろいろ検出されていますので、それらを含めて正しく評価する必要はあると思いますが、まず退治できるところのヨウ素を除きましょう。
    ○雨の後
    地表面の粉じんは、舞い上がり粉じんなりやすい。放射性物質がついているかもしれないので対策として、マスクを着用しましょう。

    ◎放射能対策(3月26日)

    政府が基準値以内だから水道水は即座に影響を与えることはないという際には、参照している基準値は緊急時に使用するものであり、 WHOの基準値と比べれば30倍緩い、米国の基準値と比べれば 3000倍緩いものだということを、伝えるのが本当の意味での対等なコミュニケーションのような気がします。
    ○[Bq/kg]の単位での比較
    ヨウ素131
    −米国:0.1Bq/kg
    −WHO:10Bq/kg
    −日本:300Bq/kg
    セシウム137
    −米国:7.4Bq/L
    −WHO:10Bq/L
    −日本:200Bq/L
    ○[mSv/year]の単位での比較
    −米国:0.04mSv/year
    −WHO:0.01mSv/year
    −日本:50mSv/year
    ○許容する影響の度合い
    −US:Some people who drink water containing beta and photon emitters in excess of the MCL over many years may have an increased risk of getting cancer.
    −WHO:発がん確率の10E-4の上昇
    −日本:核種による周辺住民等の被ばくを低減
    ○WHOと日本の基準の比較にあたっての留意事項
    WHOの基準は、原発事故発生後1年以内は使用するなと要求している。
    原発事故発生後1年以内は、IAEAの1996やその他のガイドライン値を使えとのこと。
    for the first year immediately after an accident, generic action levels for foodstuffs apply as described in the International Basic Safety Standards (IAEA, 1996) and other relevant WHO and IAEA publications (WHO, 1988; IAEA, 1997, 1999).
    なお、ここで引用されているIAEAの1996に掲載されている 飲料水のガイドライン値は、以下のとおり。
    ヨウ素131
    100Bq/kg
    セシウム137
    1000Bq/kg

    ◎子供たちへの放射能の影響を防ぐために(3月28日)

    米国のシュタイナー幼稚園で働いている丹羽博美さんが書いた文章のあるサイトです。こどもたちへいかに災害を伝えるかが、非常に具体的に記述されています。
    子どもに災害をどう伝えるか(http://noharajp.net/openforum/article/28)

    ◎元気象研究所・増田善信さんのレポート
    ◎2007年吉井英勝さん衆議院の質問ーー津波と原発に関する
    ◎1980年当時の福間原発についての資料。いま見るだに恐ろしい。
    水産物の放射性物質の検査結果についてが出ました。(4月3日)
    これによると銚子港で3月24日に水揚げされたカタクチイワシからセシウム137が3.0(Bq/kg)が検出されました(基準値をオーバー)。
    カタクチイワシは回遊魚です.丁度,11月頃から5月頃までは,南下する親潮に乗って茨城県から千葉県沿岸を経て相模湾にやってきます.そして,食物連鎖の栄養段階(TL)が3なので,植物プランクトンー動物プラントンを経てカタクチイワシに移行したものか直接海水から摂取したものと考えられます.早すぎるので後者ではないかと考えますが如何でしょうか.それにしても,保安院の海水に出た放射線物質は拡散して薄められるとの見解は事実ではないと考えます.カタクチイワシは海洋食物連鎖のkey speciesです.いずれ,高次捕食者に移行することが予想されます。

    ◎NHKドキュメンタリー「原発導入のシナリオ 〜冷戦下の対日原子力戦略〜」
    (これすごく面白い、森)
    原発は原爆を薄めるための「毒をもって毒を制す」原子力平和利用の話。正力松太郎、読売Gの役割は聞いてはいましたが、映像で見せられると、ここまでかと思います。セリーグ(実質ジャイアンツ)が開催日を遅らせるのに抵抗したこともわかる気がします。武谷三男氏も登場します
    配信サイトvideo.google.com 原発導入のシナリオ 〜冷戦下の対日原子力戦略〜

    ◎連絡(4月5日)

    1)京大の今中哲二さんらが行った、飯舘村周辺での放射線計測のレポートがアップされました。
    なぜ避難指示が出ないのかわかりません。
    2)海洋汚染
    拡散「最初は南北沿岸」仏が予測 仙台湾到達後、東西に(読売新聞夕刊)
    3)日本土壌肥料学会「情報:放射性核種(セシウム)の土壌−作物(特に水稲)系での動きに関する基礎的知見
    4)福島第1原発:東電、ベント着手遅れ 首相「おれが話す」(毎日新聞2011年4月4日)

    ◎情報(4月6日)

    1)は省略
    2)上関原子力発電所(山口県)
    ご存知の方も多いと思いますが、中部電力の予定原子力発電所で、4つの漁協のうち人口500人くらいの祝島の漁協が先祖から伝わる海を売り渡すことはできないと反対の立場に立ち、長年建設できないでいました。
    ところが、上野にパンダが運ばれた日に強制着工を開始し、今日現在(4/6)島民より多い人数を投入して、発破作業を行っているそうです。この反対運動の記録映画が東京では現在、新百合ヶ丘、 16日から渋谷、あとで東中野で上映されます。
    素晴らしい映画で、東京の映画館で終わると満場の拍手が起こるそうです。
    機会がありましたら是非ご覧ください。
    東京電力もこの期に及んで、3月31日に福島第一7, 8号炉の建築計画を県に提出し、県から突っぱねられているそうです
    が、電力会社の体質は一向に変わらないようです。 映画のオフィシャルサイトです。
    ミツバチの羽音と地球の回転(http://888earth.net/)
    3)福島第1原発事故、昨年議員が同様な事故の可能性警告(ウォールストリートジャーナル日本版2011年 3月28日)
    この吉井議員が本日質問に立ったそうです。
    衆議院TV(http://www.shugiintv.go.jp/jp/index.php)2011年4月6日経済産業委員会
    4)東京都水道局が4日付けで水の汲み置きのすすめを掲載

    ◎4月12日

    本日レベル7にあがり、いっそう不安感を持ったことと思います。しかも解決への道のりは全くと言っていいほど知らされません。
    1)上記と関係あるのかどうかですが、東大の原子力工学者(事故直後によくNHKに出ていらっしゃった関村氏ほか8人)が、福島原発の現状と今後の見通し?について、ウェブで見解を公開しました。
    なんと4月11日のアップです。なんでこんな遅く!専門家なんだからもう少し早い対応を!と思うのは私だけではないでしょう。原子力工学研究者からのメッセージ(http://sites.google.com/site/nuclear20110311/)

    以下は、増田善信さん(気象学者・広島の黒い雨の雨域を調査・原爆症裁判証人でもあります)の急いで書いていただいた批判です。

    「事故の経緯と今後の可能性について」という表題であり、「どのように備えるかを含め、とりまとめを試みたものです」というから、もっと具体的な解決法が提案されるのかと思ったが、せいぜい以下のことが唯一の提案のようです。
    1.γ線空間線量率の把握のみならず、固体放射性物質からのα線、β線の検出と核種同定や中性子検出を行えるモニタリング箇所を追加することを含めて、モニタリング体制を強化する
    2.仮に「ドライベント」や「水素爆発」がおこった場合には、モニタリング情報を公表、共有することによって、屋内退避等の措置をとるべきかについて、原子力安全委員会が定める基準等に基づき、速やかに判断できるよう適切な情報を得られるようにする

    モニタリングポイントを増やし、モニタリング情報を公表するというのは当然ですが、将来ではなく今すぐやる必要がある。以下問題点を列記すると
    1.事故との関係で「燃料プール」が問題になっていたが、そのことがまったく触れられていない。
    2.3号機はプルサーマルであることも触れられていない。
    3.水漏れが続いているのはどこかに穴が空いているからで、それを塞ぐことが最優先されるべきだと思うがまったく触れられていない。一体どうしたら冷温安定化すると思っているのだろうか。
    4.放射能の問題でいえば、原子炉の中の放射能の量は今までの運転履歴によって大まかに予測されるはずである。その数値さえだしていない。あるいは出すことを要求していない。もし水蒸気爆発などで放射能が出るとすると最大どれだけの放射能が出るか、その総量を出して、最悪の場合を想定すべきだと思うが、一切なされていない。
    5.終息するまでの時間はどのくらいを考えているのか。それによって、注水した水が敷地内に溢れる可能性があるが、そのことにもまったく触れていない。
    これが原子力の専門家集団の見解とは驚きです。

    ◎4月17日

    ようやく本日東電から6〜9カ月の見通しが発表されましたが、シナリオ通り行けばいいのですが。
    東京電力「福島第一原子力発電所・事故の収束に向けた道筋

    1)添付PDFは、増田先生が気象庁のホームページからとって、等値線を描いたものです。最高値47.5マイクロシーベルト/時間の地点は、100時間で4.75ミリシーベルト/時間ですから環境基準は25時間でオーバーするという強さです。すなわち、ここに1日いると環境基準をオーバーします。しかし、カリフォルニア大学サンタバーバラ校の教授のがんの発生リスクは1シーベルト/ 年ですから、まだ3年近くここに滞在したときにやっとそのリスクの値になるのです。気象庁は自動的に天気図の等圧線を描くプログラムを持っているのですから、等値線を描いた図を公開すればいいのにと、先生は思っておられます。
    2)増田図をいただいた後に以下がありました。ほぼ傾向は同じと感じました。
    放射線量分布 北西へ飛散裏付け 福島大が地図化(河北新報2011年04月14日)
    3)シイタケ出荷停止
    池上先生(大妻女子大学名誉教授)のお話にも、野中先生(新潟大学農学部)の中にも、しいたけは放射性物質をなぜか蓄積しやすいのお話がありました。原木栽培は特に注意ですね。
    福島県、地域設定に疑問 露地シイタケ出荷停止指示(河北新報2011.4.15)
    露地シイタケ出荷停止 福島東部16市町村産(河北新報2011.4.15)
    4)ポスト原発
    今後、「原発をなくせば、エネルギー不足になる」に対応することが必要です。
    風力・太陽光エネが原発を逆転 福島事故で差は拡大へ
    2011.4.16 共同通信配信で、「米シンクタンク‘ワールドウオッチ研究所’が、2010年の世界の発電容量は、風力や太陽光などの再生可能エネルギーが原発を初めて逆転したとする世界の原子力産業に関する報告書を 原発は、安全規制が厳しくなったことや建設費用の増加で1980年代後半から伸び悩み、2010年の発電容量は3億7500万キロワット。一方、再生可能エネルギーは地球温暖化対策で注目されて急激に増加し、風力と太陽、バイオマス、小規模水力の合計は3億8100万キロワットになり、初めて原発を上回った」といくつかの新聞社が報道しました。元の具体的データを探しましたが、行き着きませんでした。

    ◎4月26日

    1)新潟大学土壌学のHP
    1960年代に行われた「放射性降下物の土壌ー植物系における汚染とその除染に関する研究」について、当時研究された先生(83歳・存命のただお一人の方)の許可を得て、野中研究室のブログで随時公開されています。野中先生のコメントもていねいに説明いただいています。
    (これは是非ご覧ください−−森)
    週刊 新大土壌研(http://blog.goo.ne.jp/soil_niigata)
    2)校庭などの活動時間の指針を文科省が発表しましたが、放射線管理区域よりも高い濃度を許容するものと各方面から非難の声が上がっています。以下、(電子)署名活動も瞬く間に3万筆以上が集まっているそうです。
    【署名】子どもに「年20ミリシーベルト」を強要する日本政府の非人道的な決定に抗議し、撤回を要求する
    3)東京の降下物中の放射性物質、過去50年とこの1カ月がほぼ等しいという結果です。
    表から集計したところ、 1957年から2010年までの核実験由来のセシウム137の東京都における降下物量の合計は、7,043Bq/m2でした。
    以下のサイトから、上記の集計で使用した表を入手しました。
    環境放射線データベース(http://search.kankyo-hoshano.go.jp/top.jsp)
    また、上記の原典からデータを取り出して集計していると思われる記事は以下にもありました。以下の記事では、1957〜2009 の東京の合計で7,095Bq/m2と集計しています。
    サイエンス・メディア・センター(http://smc-japan.sakura.ne.jp/?p=1428)
    2011年3月20日から4月23日までの35日間でみると、東京都新宿区においるセシウム137の降下物量の合計量は6,901Bq/m2 です。したがって、東京においては、過去50年間に降下したセシウム137の量と、福島原発事故以後から現在までの35日間で降下したセシウム137の量がほぼ同じということになると考えられます。

    個人的な情報提供は削除しましたが、これだけでも戦慄すべき情報が満載です。

    森まゆみ(2011年4月28日)


    ●震災日録4月25日、26日 森まゆみ

    4月25日

    むかし不忍池の地下駐車場反対運動をしていたとき、不忍池周辺の地質についていろいろ教えてもらった方からメールが来た。彼は地球科学研究者である。

    「まだ房総沖のプレート沈み込み部分の破壊が完了していないかも知れません。
    連動せずに収束してくれることを祈っています。また、フィリピン海プレートに連動して東海ー南海道で地震が発生しないことも、です。過度な心配は不要ですが、警戒を緩めないでください」(3月18日)

    「3月11日発生の大震災、東電の責任が追及されていますが、我々地球科学関係者も同じく大きな責任を負っています。遅くとも2007 年には今回のような大津波 (貞観津波)の存在が知られていました。なぜそれが防災政策に活かせなかったのか、悔やんでも悔やみきれません。津波によるスマトラの惨状を我々は知っていたのに、です。
    先週月曜日の内陸地震でいわき市に出現した地震断層の調査のために線量計(放射線用)を携行して現地に行きましたが、その際、小名浜の津波被害現場にも足を運びました。TVの映像での認識を遙かに越えた惨状に茫然とし、そしてただただ「申し訳ない」とつぶやく以外になすすべ がなかったのです。現場では大量の家財道具、水を吸った衣類などが放置され、上空を舞う騒がしい烏の群れが我々をあざ笑っているかのご とくでした」(4月17日)

    なかなか,地球科学研究者の声を聞くことはないので、大事なことだと思う。
    地震予知連絡会なども責任は逃れまい。その自覚はあるのだろうか。

    ここに出て来るスマトラ島沖地震は2004年12月26日マグニチュード9・1。インドネシア、タイ、インドでも津波でたくさんの死者が出た。インドでは1万2000人(行方不明をのぞく)。
    私はその翌年、インドを訪れ,オーロヴィルという海辺の村でツナミカという小さな人形に出会った。これは漁師の夫を流され、悲しみの底にいた妻たちに、あるデザイナーの女性が提案したものである。余り布を使って小さな人形を作ろう。一緒に手を動かし,泣き、笑いながら。これがそれまで夫に依存して生きていた女性たちの自立を促すプロジェクトになった。私はこれを買うのではなく、募金していただいてきた。いまピースボ−ト経由で2万のツナミカが日本に送られたという。すごくきれいなサイトです。ご覧ください。(http://www.tsunamika.org/)

    4月26日

    まだ冷蔵庫もない、自炊すらできない、こんな避難所があるということを知っていただきたいと思う。

    ◎4月22日の大塚モスク被災者支援 18便の報告より

    10時21分、チキンと野菜のカレー150人分、牛乳(1L)36本、お菓子類を積み、出発しました。途中、道路は所々ひび割れしていたり、段差が続きました。

    12時54分、いわき芸術文化交流館アリオスに着きました。
    入り口には、ダンボールで囲い休んでいる人がいました。上階は囲いなどなく、それぞれ毛布が敷いてあり座っている人が多くいました。職員もそこにいました。福島県、いわき市、長崎県の職員が在籍していました。
    話を聞くと、避難所には130名いて、子どもは20 名ほどとのことでした。お風呂は、近くに銭湯があるのと、自衛隊によるお風呂までの送迎巡回バスもあるそうです。
    炊き出しで要望のあったのは、八宝菜丼、シチュー、肉と野菜の味噌汁など、野菜が多く入っているものでした。普段はおにぎり、パン、カップスープなどを食べていて、自分たちで作ることは(規定で煮炊きが禁じられているので)していないと話されていました。
    冷蔵庫もないため、野菜ジュースなど常温保存がきき、小さなパックの物が助かるとのことです。果物は単独で渡すよりも、炊き出しの付け合わせとして出されると嬉しいとのことでした。

    次に、津波被害が大きかった小名浜港を通り、江名小学校にお菓子を渡しに行きました。
    この避難所には150名の方が暮らし、子供は 15人ぐらいとのことでした。高台にあるこの小学校にも津波が押し寄せてきたとのことです。家庭科室は他の避難所の方たちが利用していて、ここではテントでプロパンガス釜が使えるようです。朝食はパン、おにぎり、ビスケット、昼食、夕食はおにぎりと味噌汁を食べているとのことでした。高齢者が多く、体育館の中では2つのストーブと毛布 2000枚で暖を取っていました。ここでもダンボールなどの仕切りがなく過ごされていました。職員に聞くと、みんな近所の人たちだからうまくやっているとのことでした。
    今月27日にカレーの炊き出しを約束しました。中学2年生の男子は、カルピスが飲みたいと元気に話していました。

    17時ごろ、炊き出しをするアリオスに戻りました。
    避難をしている方と話をし、その間も地震があり、「怖いねぇ、1年は続くみたいだよ」と不安そうに話していました。夕食の時間になり、カレーを配りました。職員が鍋を温めてくれ、地元のボランティアと一緒に配膳しました。「美味しかった」ととても好評でした。

    次に3箇所目の避難所、福島県立平工業高等学校に行きました。
    ここは130人が滞在しており、昼間は学校などに行く人がいるので、日中は1/3程度の人がいるとのことです。こちらもお風呂は自衛隊による送迎巡回バスがあるそうです。
    80%の方は家が全壊し、20%の方は家が半壊したとのことです。
    浪江町から原発のために避難して来た高齢の女性は、私たちが行くと笑顔で迎えてくれました。何が食べたいかとたずねると、カレーと話してくれました。

    19時10分ごろ、避難所を後にし、帰路に着きました」

    マスコミが避難所の静穏を乱しているとも付記されていた。ニュースで見るとNHKは停電中もライトをつけて夜の避難所のなかを撮影していた。何人ものお年寄りがまぶしがって、手をかざしたのに。
    私は避難所のなかは昼間でもほとんど撮れなかった。テレビ局のクルーは5人掛かりで撮っていたけど。

    今日は浜中佐知監督『百合子、ダスヴィダーニャ』の完成試写を西麻布に観に行った。
    映画はよかったけど、いま表参道、西麻布を歩くのはつらい。まえからこけおどかしと過剰包装の町だと思ってきたが、いかにも業界人といったお洒落で軽い感じの人々、ブランド品を持った若い女性、装飾的なショウウィンドウを見ていて頭が痛くなった。地下鉄にのったらこんどは女性誌の吊り革広告を見てめまい。ほっそり見える選手権?小顔をつくる?夏に備えた着回し術?
    吐き気がして神保町で降り、古書店とラーメンやの中を歩いて少し落ち着いた。
    やっぱり東京はおかしい。

    森まゆみ(2011年4月27日)


    ●震災日録4月23日、24日 森まゆみ

    4月23日

    21日の福島の人々による文部科学省交渉の記録がすでにアップされていて、それを見る。若手官僚の対応が実にひどい。何もわかっていないのか、わざとはぐらかしているのか。
    子どもの安全基準、根拠不透明〜市民の追及で明らかに(http://www.ourplanet-tv.org/?q=node/1012)。映像ドキュメントでも編集中。

    これについて、
    正気を疑う文科省の学校線量基準‐合原亮一
    【緊急声明と要請】子どもに「年20ミリシーベルト」を強要する日本政府の非人道的な 決定に抗議し、撤回を要求する
    子どもに20ミリの撤回を要求する要請・署名フォーム

    ◎川原理子の報告

    「21日に、参議院議員会館で、喜多野さん、吉川さんと、「文部科学省・原子力安全委員会交渉 子どもに年20ミリシーベルトの安全基準を撤回せよ」を取材してきました。

    文科省が、福島県内の小中学校や幼稚園、保育園などで、被曝量が年間 20ミリシーベルト(毎時3.8マイクロシーベルト)を超しそうな施設に対しては、屋外での活動などをひかえてほしい、という通知に対して、市民団体側からどのような方法、根拠で年間20ミリシーベルトまでは大丈夫という安全基準が決められたのか、子どもは大人より放射線の影響を強く受けるというが大丈夫か、内部被曝のことは考えているのか、などの質問がでた。

    しかし文科省の人は、質問を「持ち帰って」ばかりで、安全委員会の人は、文科省から20ミリシーベルトでどうですかと聞かれて、会議も開かず2時間で決め、方向性は聞かれる前から決まっていたといいました。
    そして、でも、決定したのは、わたしたちではないですから〜、と逃げ(?)たのにはおどろきました。しかも、となりに文科省の人がいるのに。

    やむをえないといって、「苦渋の決断の顔」をしてみせながら、第一原発の作業員の被曝限度量を100ミリシーベルトから250ミリシーベルトに上げたけれど、こんどは、「子供たちの被曝をできるだけすくなくする」といいながら、1ミリシーベルトから20ミリシーベルトに上げました。

    福島第一原発の事故後、福島県の各市町村で放射線量が測定されていて、積算の放射線量としてそれを足していたのですが(作業が遅く間に合いませんでしたが)、
    福島県内7方部 環境放射能測定結果(暫定値)
    福島県・環境放射能測定結果・検査結果関連情報

    各学校で測定された放射線量は施設ごとに多少差があり、継続して測定していたものより数値が高いところもあるようです。
    福島県放射線モニタリング小・中学校等実施結果
    福島県・ 小中学校等モニタリング
    測定値が、校庭など、土の上だからでしょうか。」

    官僚用語。「ご案内の通り」『その件につきましては存じておりません」「調査して参る所存でございます」今頃何いってんだ、ぼけ!

    昼から白山ルームで木崎さんと映像編集。「ダムとわたし」映画祭で上映した大西暢夫監督『水になった村』のお話、いま原発に騒いでいる世の中からはちょっと遠い話かなあ、と思ってもう一度見たが、まさに原発と同じであった。静かな暮らしをしている過疎地に突然、自然を改変する巨大計画が持ち上がり、合意形成もないままにボス(首長や土建業者やえらいさん)が電源立地などのうまい汁を吸うため、計画に乗ってゆく。
    そうして山の恵で豊かに暮らしていた人々はふるさとを追われ、隣人を失い、スーパーで野菜を買い、ついには孤独死する。もう体は土に帰れない。もうすぐアップします。
    この日、誠之小学校の小さな同窓会、さっと8人も集まりやんちゃ坊主に戻った。わたしたちはまだふるさとを失っていない。

    4月24日

    今日は疲れ果て、歯も浮いて一日家で原稿書き。
    サトコはきょうはアースデイに行ったそうだが、八っ場ダムのことを訴えても、今年は反応が悪かったとか。前原大臣が中止を訴えたのはたった1年半前なのに。

    デモに行った荒川さんによると、参加者は4500人、3月27日が1000人、4月10日が2500人だったから確実に増えている。今アップ準備中。
    4月10日高円寺のデモも撮って来た人がいるが、アップ準備中。これもいくつか出ているが撮る角度、興味、どの位置で撮るかに寄ってまったく違うデモのように見える。主体がどこにいるのか、は重要なことだ。

    ヤマサキは団子坂シネマのアンコール上映で一日蔵で映画ざんまい。
    最後はスエーデンのドキュメンタリー『脅威』1986年4月26日のチェルノブイリの事故の後、爆発して大気中2000メートルの高さに登った放射能は、3000キロ離れたスエーデン北辺のラップランドを襲った。
    「自然を預かっている」「自分のことよりまず自然を、動物のことを考える」というラップの人々はトナカイの群れを追い、必要なだけトナカイを屠殺して、その皮を用い、肉を売り、かつ食べている。しかし事故の後、最初に穫ったトナカイは75%廃棄。3度目のはすべて廃棄。トナカイは核廃棄物となったのである。

    今年東北で育てる米や野菜もへたすると核廃棄物になるかも知れない。
    そのことへの怒り、そして東京ではまだ食物が充分にあるかのように錯覚していることの不思議さ。
    金があるんだからから輸入すればいいや、と思うかもしれないが、そうするとただえさえ食べ物のないアジア、アフリカの食糧を強奪することになる。
    「日本は食物に苦しむ国になる」と佐藤忠吉さんも結城登美雄さんもいっていた。

    夜中、地方選結果でる。台東区長に土建開発主義の保坂三蔵がならなくてまだしも。
    さまざまな煮え湯を飲まされたが、とくに保存を前提の池之端茨城県会館を裏で動いて久保工に落とし、その久保工は蔵だけ残して後は有料(1泊2万5000円)老人ホームを新築、しかも売り逃げ、というひどい事態を招いたことは忘れない。保坂は菊祭りでこれを自分の手柄に数えて自慢していたのだから事実(谷根千をやめたのでやっと言える)。

    文京区長選は小竹さんが善戦、世田谷区長選で原発の見直しを訴えた保坂展人(同じ保坂でもずいぶんちがうものだ)が勝った。世田谷区民はさすがだな。

    岐阜の世界遺産白川村では、この前行ったとき富山空港へ迎えに来てくれた教育長の成原さんが、なんと村長選に出て勝ってしまった。
    あそこも行った人のほとんどがいうように、観光金儲け主義が跋扈している。国の金で修復した民家を使って民宿、食堂、土産物屋で何千万も億も売り上げる住民がいる一方、ちょっと外れた農業者は100万ちょっとしか収入がないとか。母と妻が観光業者である公務員が「誰かちゃんと儲ける人がいないと日本はまわっていかないでしょう」と公言するのを聞いて、いやな感じがした。そんな格差村の是正が課題だと思う。

    森まゆみ(2011年4月25日)


    ●震災日録4月22日 森まゆみ

    4月22日

    耳鳴りがひどい。嬉しいことは石見銀山の群言堂の松場登美さんから、どっさり衣類が届いたこと。古着だけどきれいに洗ってあった。私が本をなかなか捨てられないように、デザイナーの登美さんは服が捨てられないのだと思う。『古着を送って失礼かと思いますが」とあったがなんのなんの。群言堂ファンだけどなかなか買えない人は多いのだから、大事に着た服をこんどは大事に受け継ぎます。さっそく活動に協力している仲間たちに配る。

    支援物資は新品に限る、とあるのだけど、いつも古着しか着ない私は新品を買ってまで送る、ということに抵抗感がある。阪神淡路のさい、ぼろぼろの古着を送る人がいて被災者の心を傷つけたからというのだが。
    かとおもうと被災地では気に入りの服にメッセージを付けて送って来たひと、学校で着るジャージの名前のタグにメッセージを書いて送って来たひとへの好感を語っていた。思いが届けば、心がつながれば古着でもいいのではないだろうか。
    被災地で何が必要ですか、ときいたら「マットの毛をとるころころがほしい」「学校が始まるので、体育館にいる私たちは耳栓とアイマスクがほしい」という声もあった。

    夜、幼稚園からの友だちキョウコちゃんにあう。彼女はお母さまの介護で大変。「家を流された友だちに何がほしいと聞いたら、喪服がほしいって。あした送るの」。これも現地が想像できた。すべて流されたけれど、お葬式には黒い喪服がほしい、という気持ちが。被災地では瓦礫の処理をしながら、お葬式もたくさん行われているのです。

    森まゆみ(2011年4月23日)


    ●震災日録4月21日 森まゆみ

    4月21日

    今日は面川さんのお米、今日は大内さんのお米、今日はサトコが座間で作っているお米、今日は鳴子の米プロジェクトのお米と、毎日炊く米が変わるのでヒロシは「うちッて米の品評会場?」と驚いている。どれもおいしいよ。
    前は「なんで私だけ、仕事もして子育てもして家事もしなくちゃならないの?」と腹を立てていたが、いまは家族のために料理するのがなんだか幸福に思える。避難所にいる人々はそんな平凡な日常すら剥奪されているのだ。

    自分の畑からとって来た最後のジャガイモがなくなった。このところ備蓄食糧は、あらかた食べ尽くした。家に買ったまま忘れている、まめやキクラゲやゴマや唐辛子やウーメンやこんぶがこんなにあったのはびっくり。行った先でお金を落とそうと買ったものもあるけど、それにしても始末が悪い。
    白山に安い八百屋ができて、すごい人だ。産地はそれぞれ銘記してあるが、中国産野菜もずいぶん置いてあるし、どれだけ新鮮で安全かよくわからず。私の畑は無農薬無肥料だったから抜いて泥さえおとせばそのままかじれた。あれもしあわせのひとつだった。

    東北で仕入れて来た米、酒、こんぶ、若布、味噌をどう売るか。これも意外に大変。
    たとえば農家にしてみれば、5キロでも2キロでも袋詰めの手間は同じなので、5キロが主流である。しかし東京で一人暮らしだと米の2キロ買いが普通。5キロの米を運ぶには少なくとも自転車がいる。農家はたいてい自家精米機があるから玄米で売るのがあたりまえ。しかし東京で自宅に精米機を持っているひとは少ない(うちにはあるけど)。だから白米で仕入れて来たのだけど、白米はそう鮮度が持たないので早く売らなくてはならない。

    米は、現地で5キロ2500円で仕入れた。これは土からつくった無農薬米だから安い。安全な食品を流通させる会などでは4000円クラスのお米。しかし東京では5キロ1800円くらいの米も出回っているので、高く感じるひともいるだろう。なおかつ2500円で売ると、ガソリン代、高速代、レンタカー代などは足が出る。これは行きの別のミッションのためのものだからいいとして、買って来た米をおろし、自宅まで上げ、またおろしの手間が大変だった。ものを売ろうとすればこういう労力や倉庫代のことも考えなくてはいけないのだな。とにかく今回はヤマサキ、安田邸、光源寺、はてなさんなどの協力でどうにか売り切ることができそう。わかめとこんぶは飛ぶように売れたらしい。ありがとう。

    明治学院大学の連続講座で荒川さんが『ドキュメント チェルノブイリ」を上映するので行く。そのあと平和研究所で震災と原発を記録するチームを立ち上げる。
    そこで角田の米農家面川さんの息子常義くんがいっていた。「東京では原発のことばかり騒いでいる。被災地では生きるだけでぎりぎりなのに。とっても違和感がある」と。
    私のところにも「原発に近い所ではみなどんなマスクをしていますか」と聞いたひとがいた。瓦礫処理する自衛隊員はもちろん防塵マスクをしているが、南相馬や新地でも、住民はマスクなどほとんどしていなかった。それどころではないのだ。
    面川さんは今年も作付けをするそうだ。「海沿いの田んぼが全部やられたのに角田で米をつくらなかったら宮城は食べる米がなくなる、と父はいっています」と面川くん。正しい判断だと思う。

    森まゆみ(2011年4月23日)


    ●震災日録4月20日 森まゆみ

    4月20日

    朝早くから区議選の候補者が回ってくる。『未来を作る子供たちのためにがんばります」「安全で安心な暮らしのために精一杯はたらきます」。内容のない空疎なことを拡声器でがなりたてている。

    東京駅の古材のスレート瓦を引き受けた熊谷産業社長熊谷秋雄さんは、クマちゃんと呼ばれている。ほんとテディベアそっくり。
    でも私もクマちゃんと呼ばれているので、兄弟かも。彼とは10年以上前に一諸にイギリスの茅葺き屋根やナショナルトラストを観に行った。その頃彼は30代だったはず。ものすごく口が悪くて「森さんは運動は上手だが文章は下手」とかね。絵本とマンガを宮城に届けにいった、と言ったら「まさか、森さんの本じゃないでしょうね」。抗議すると「本当のことをいうひとが必要ですよ」と口が減らない。トラストの山本玲子さんも工学院の後藤治さんもイギリスには一緒だった。クマちゃんは民俗研究家・結城登美雄さんとも親しいし、いろんなネットワークが今日のためにできていたようなのだ。

    JR東日本に行ったとき、「重要文化財といっても工事はうちがすべて費用を出している。補助金などは一切もらっていない」といわれた。暗に「私企業が独自でやる工事に差し出がましいことを言うな」ということらしい。石巻の現場に視察に来たときも瓦寄進などイベントはやめてほしい、といったとか。
    しかし東京駅が建ったときは国有鉄道だったし、東京駅も国の財産だったはず。一等地をどでんと占有して南北行き来のじゃましているのも公共的存在なので許されているはず。しかも駅舎保存は丸の内の他のビルに容積率を移転して、つまり元国有地の空中権を売っぱらって駅舎保存の建設費を出しているんではないか。駅とは公共材、コモンズのひとつでしょうに?

    NTTも、千駄木の本来国有地であったところにマンションを建てて売り飛ばしているし、駅前には密集市街地に巨大情報サーバービルを建設中だし、ほんとうに民営化って何だったのだろう。井上ひさしさんがご存命あったらなんて仰るだろう。
    NTTについても東京電力とおなじ大スポンサーのため、マスコミは東京新聞をのぞいて報道していない。東京新聞、原発についてもよくやっているな。

    東京新聞(4月16日)は駅舎を『復興のシンボルに』と書いたあと、デスクメモで「『ご利用のお客さまにはご不便、ご迷惑をおかけしております』。JR東日本のノームページは慇懃無礼だ。地震や計画停電で客を駅から閉め出し、振替輸送も定期券の割払い戻し(5日未満)もしない。『なにとぞご理解、ご協力をお願い申し上げます』という前に、誠意を見せてほしい」と書いている。
    正論だ。11日には早々に終日運休を決め、コンコースも閉じてしまった。都営地下鉄が一番復旧が早かったと覚えている。
    コンコースをはききよめ、寝袋を配って、帰宅困難者をお世話するくらいのくらいのことはやるべきだった。インドの駅構内なんて巡礼者に開放してみんな床に寝てますよ!

    都市ジャーナリストの森野美徳さんから来たメール。

    「私は14-15日に仙台からいわき市まで行ってきましたが、JRは常磐線のいわき−仙台間が完全復旧するのを断念すると推察します。
    三陸沿岸の不採算路線も同様です。
    こうした社会的責任に背を向けるJRに対して、募金で支えるより、姿勢を改めさせることが優先すべきだと思います」

    全国の鉄道ファンよ、いまこそ動いてください。絶景路線ももう絶景が見られなくなるかも!

    森まゆみ(2011年4月21日)


    ●震災日録4月19日 森まゆみ

    4月19日

    5時に寝たのに8時に起きてしまった。なんだか不眠症。
    どの御手洗いも使えない、という夢を見て目が覚めた。避難所の御手洗いは多く故障中だったから。お礼や報告に一日追われる。これ、ブログでなく日記になっているな。でも原田病のため、記憶がどんどんこぼれ落ちてゆくので、書き留めておこう。
    昨日、お米を仕入れた面川さんの息子常義くんからメール。大学生だが帰って農家を継ぐつもり、一緒に東北の記録をしようと約束した。

    森さん

    この間父が山元町に消防団の応援に行き、その時の写真を見せてもらいました。
    そこには建物などそこにあるべきものが何もなくたってしまった瓦礫だけの空間が写っていました。
    もうこれではいくら復興しても、もとの街の姿には戻れないでしょう。
    ですが森さんが書いていたように、その人の心のなかにある思い出や風景を記録していくことは、ものすごい意味を持ってくるのだと思いました。
    私もそれこそ5年10年のスパンで、震災を受けた人たちが復興に向かって立ち上がって行くさまを記録し伝えていけたらと思っています。

    それに加えて、自分が志している農業の有り様も伝えたいです。
    今実際に家の手伝いをしているのですが、この震災の後でさえ、季節の流れに逆らうことなく、そのときにやるべきことを淡々とこなしている。
    それこそ想定外など言いわけも言わずに。
    そこにあるのは、人の生きる糧をつくる誇りなのだと思います。

    すてきな文章だと思う。私たちは谷根千・記憶の蔵という活動拠点を持っている。
    アーカイブとは穴蔵、貯蔵庫、記憶のドラム缶、あるいは人々の涙の壺なのだ。
    東北の失われた記憶。壁のしみも、背を測った柱の傷も、大黒柱も、松林も、大漁旗も、コンバインも失われた。雄勝支所には拾われた御位牌やアルバムが並んでいた。
    昔映した集落のお祭りやお花見の映像も集めなくてはならない。
    NHKにはいっぱいあるはずだ。みんなの視聴料で映したものだからみんなに返せ。地域に返せ。それが地域の肖像権というもの。8ミリも集めよう。お年寄りの記憶を紡いで、絵図も作ろう。

    JR東日本は、東京新聞によれば「始めから国産材を使うつもりだった」とのこと。JVが悪者にされている。中受けとはつらいもんだな。12日の段階でゼネコンの人からメール。

    「要望書を早く出したほうがよいとおもいます。
    発注者からの指示はとても強いものですから早いに越したことはないとおもいます。
    ゼネコンは工期どおりにつくることを何よりも大切にしますからリスクはとりたがらない。
    また、屋根はだいぶ出来ているから、すでにかなり昔のスレ−トは使われているのかもしれません。
    地震で被害にあった東北を助けるという意義のほうが大きいのであればより、早いほうがよいし、JRに要望を出すことが重要です」

    一日工期が遅れると5000万、などという話も別口で聞いた。これ、脅しとしか思えない。どういう計算なの? 原発止めると夏クーラーがつきませんよ、日本経済がだめになりますよ、と言っている連中と同じ発想。これからの世の中まだ、この方式でいきていけると思っているのかな。
    そう言えば神宮寺の和尚からメールがずいぶん前にきた。

    「現行日本のさまざまなシステムの中には、この地震・津波・原発事故によって崩壊するものが出るかもしれません。
    ここ数年、何かわからないけど感じていた、閉塞感や、それに伴うイライラが、この地震によって頂点に達し、同時に、パラダイムの大転換が始まる予感がするのです。

    身内感覚優先で他を顧みない既成の組織(政党や行政機関や東京電力、はたまた、相撲協会や仏教界などなど)が生き残りをかけて表出していた、なんとも言えない、いやな閉塞感が、ここ数年あったような気がします。それらが今回の震災で大きく変わる、あるいはつぶれていくような気がしてなりません。
    歴史を見ても、大事故や大災害、それにともなう大量死は、社会体制や宗教、文化を大きく転換させています。
    そんな視点でこれからの推移を被災地から見ていきたいと思っています。
    4月2日 高橋卓志」

    そのとおりではないか? 高橋和尚はこんな活動をしているらしい。

    「13日に福島・川俣町に入り、20日から26日まで諏訪中央病院の医師たちと南相馬の市民総合病院のお手伝いをしていました。
    鹿島、新地の避難所にも通い、凄まじい被害の実態と、避難している人々の闘いを目のあたりにしています。
    その後、28日から石巻へ。東北人になったみたいな感じです。
    1991年1月、鎌田實とチェルノブイリに入って20年になります。そのコンビが久しぶりに復活しています。
    20年間続けたチェルノブイリへの支援から得たものを、行政や市民、そして医療関係(南相馬市民総合病院)とシェア しようと・・・」

    やることがはやいなあ。見習わなければ。

    森まゆみ(2011年4月21日)


    ●震災日録4月18日 森まゆみ

    4月18日

    追分温泉、朝も被災された人のはなしを聞いた。

    「雄勝のホタテ缶詰工場の事務をしていましたが長く揺れたので自動車で逃げました。トンネルのなかで対向車がだめだめと手を振るので、車の隙を見計らって Uターン、雄勝小学校に逃げたら立錐の余地もない人でした。そこで一晩過ごし、翌日は親戚を捜しに来た社長に出会い、一晩泊めてもらいました。学校の先生の車に乗せてもらって家に帰ったのは3日目ですが、もう家はありませんでした。どうやって生活を建て直していいかわかりません。母子家庭のお母さんでなくなったひともいるし、子どもをなくした人もいるし。うちはみな無事だったし、小小に登米ていただけてありがたいです」

    ご主人が支援にきた人たちだからと、どうしても宿泊代を取ってくださらない。残った絵本や本をおあずけする。ここの方が落ち着いて本を読める雰囲気だし、玄関にならべると風呂をもらいに来た親子連れがさっそくのぞいていた。毎日300人に無料で風呂をふるまっている。その人たちが借りてくれればいちばんいい。

    大内さんの御宅により、北上川の葭を堆肥にした無農薬のお米と三陸わかめを仕入れる。おばあちゃんが「お詣りしてやって」というので仏壇に手をあわす。この御宅ではお孫さん含め4人がなくなられた。

    熊谷産業で残りの荷をおろす。もとあった堤防のそばから何百メートルか、内陸の倉庫あとにプレハブを建てて再起中。東京駅から外して整理、きれいにした登米産スレートは津波に流されたが、社員と地域のひとで優先してもらった。道上に散乱するとすぐ撤去されてしまうので、時間との勝負だった。
    塩害は大丈夫か、との問いに担当者の沖本さんは「スレートは、粘板岩であるため、粘土層です。そのため、粒子が細かく、水を吸い込むことが考えにくいです。また、吸水率も、0.0何%とかなり低いです」と答えている。
    熊谷産業(http://www.kayabukiyane.com/)
    大内弘さん紹介(http://ishinomaki-ikiikiclub.com/concept/member03.html)

    震災日録2011.4.18
    会社も家も流された茅葺き屋根工事熊谷産業はプレハブで再起。東京駅の屋根ためのスレートは最優先で拾い集めました。これは戦後の修復の際の登米産、最利用してほしいものです。
    震災日録2011.4.18
    雄勝天然スレートの木村満社長も工場も家も全壊です。右後に写っているのは東京駅のために用意した雄勝産スレート新材。被災しましたがきれいなまま残っていました。

    そこから工学院大学院生の田揚裕子さんの運転で、雄勝天然スレート社長木村満さんのところへ行く。橋が落ちていて通常20分のところ、45分かかる。
    「来ていただいても電気も水もありません」と木村さんがいっていたが、素晴らしいスレートで葺かれた自宅、工場とも全壊、椅子もないので立ち話となった。

    「雄勝のスレートは藩政時代から硯を作ってきました。明治に入ってインドから綿を仕入れる船が、行きに船体が軽いと困るので雄勝の石版を持っていくことにしました。インドの子供たちがそれで勉強したんでしょうね。紙は貴重品でしたからノートなんてない時代です。昭和30年代までは日本でも学校で計算や感じを覚えるのに石版を使ったものですよ。

    明治になって洋館の屋根はドイツから輸入したスレートで葺いていましたが、なんだ、日本にもこんなにいい石があるじゃないかということで、うちの会社も明治16年くらいからやっているんです。
    犠牲発破といってあまりよくない岩脈を見つけて爆薬をしかけ石を割って掘り出す。1回4、5トンくらい取って、割ります。
    東京駅のは丸い材で葺くのかなとおもったら四角いのにしてくれと。辰野金吾の最初の頃は四角い材だったらしいです。それを注文されただけ用意していたらこの震災です。仙台の娘の家に避難していますが、私も78歳だがまだ元気、必ず雄勝のスレートをもう一度生産したいと硯の方たちとも相談しているところです」

    石巻市雄勝支所に職員千葉茂さんを訪ねる。お元気だった! 
    24年前の東京駅の保存のとき、雄勝町からの署名を届けてくださった方だ。雄勝が大好きで、硯やスレートの文化にも誇りを持ち、あちこちにあるすばらしいスレート葺きの家を見せていただいた。
    「森さんの河北新報の連載も読んでいたし、『海に沿うて歩く』も買って読んだ。今回のスレート保存のことも新聞で見て元気をもらいました」しかし雄勝は安全な高台がないのでもとに戻って住むか、山の上を住宅開発するか、「もう石巻の賃貸住宅は満杯。早くしないと住民は戻れなくなる」とのこと。前途多難だ。

    真理ちゃんの友人の父上をさがしに石巻ビッグバンへ行ったが、出会えず。それにしてもビッグバンとは! ビッグウェーブでなくてまだしもだった。雄勝へ向う景勝道路なコバルトライン。これもちょっといまは引っかかる。東京新聞の『放射線』という欄はなくなったそうだ。

    思い残しがないように、石巻の日本製紙の寮に農家民宿のんびり村の坂下清子さんが居られるというのでおたずねする。
    家はまだあるが冠水して陸の孤島となっている。息子さんが勤める日本製紙の寮に、お友達の只野あき子さんの家族と住んでいる。只野さんの息子さんも日本製紙だ。
    このへんではおばあちゃんのことをオッペちゃん、転じてピーちゃんという88歳のお母さんの世話もしている。ぴーちゃんもヘリコプターに吊るされて助かったんだよ、という。
    高台のお寺さんで命拾いしたが、海の女清子さんをアパートで見るのはつらい。送ってもらったおいしい牡蠣、訪ねたときにいただいたカニ、ああ、いろいろ憶い出す。旦那さんの健さんは落ち着かなくて朝早く起きてきょうも家に行っているとか。

    「こうして昼間はあきちゃんと泣いたり笑ったりして暮らしているのよ」「大川小学校はまさかあんなとこ、津波が来るなんて思わなくて。校庭に集まって点呼して大橋の花壇目指すところだったらしいけど、あそこに逃げたって助からなかったよねえ」。只野さんは家族をなくされたが、「うちは3人とも見つかったし。天災だから誰を怨むこともできないから」と、親友と肩よせあって暮らすことでどうにか支えられているようだった。
    なんと被災した御宅でおにぎりとおひたしをいただく。大内さんところのポン菓子ともんぺさんのガトーショコラをさしあげる。まるでわらしべ長者。

    真理ちゃんが「招かれている旅」といったように、いろんな人に助けられてやるべきことはほぼやった。あとは空になった車に、宮城の酒と米をつむ。まず松山の一の蔵酒蔵へ。ここは昔ながらの手造りを題意にし、「冬水田んぼ」など、環境保全のお酒を作っている。しかし工場が壊れ、電気も来なくて保冷すべき仕込み酒も廃棄処分、そとには割れた瓶がいっぱい。「きょうやっとお祓いをして米を蒸しはじめたところです」で工場には酒はなく、町の酒屋で6本買う。奥さんは「よくきてくれました」と甘酒をおまけにくれた。

    高速を村田で降り、角田であぶくま農学校を主宰する面川義明さんちにより、お米30袋をわけていただく。「売る手間はぶけていいな」と安くしてくださった。これらの酒、味噌、わかめ、米は帰ってから安田邸、光源寺、蔵の映写会で販売予定。

    10時ころ、安達太良サービスエリアで夜食のラーメン。那須インターで真理ちゃんと別れ、夜中の2時、家に着く。瀧川さんとお別れ。
    家では、行きたがっていたヒロシが、どうだった? それからサトコの撮ったフィルムを5時まで見た。

    森まゆみ(2011年4月20日)


    ●震災日録4月17日 森まゆみ

    4月17日――亘理、岩沼、多賀城、石巻、女川(きょうも長いです)

    5時に目がさめるとひろしさんが私たちの朝と昼の二食分のお弁当を作っていた。
    きのう余り話せなかったのでおしゃべり。

    レストラン緑山は壁の小さな亀裂くらいだったが、電気が来なかったので食材はだめになった。塩竈に置いてあった釣り船はあきらめていたら岡に上がったところに見つかり、何度も通ってどうにか海に戻す作業をしている。
    アメリカ大使館から問い合わせがあったのでびっくりしたら、ニューヨークのおばちゃんが連絡着かないので心配しているのだった。
    「ガソリンがない頃、一人5キロまでしか買えないのを5時間並んで目の前できょうは終わりが二度あった。中で凍死した人もいたらしい」。亘理の自動車学校でも習いに来ていた若い人がずいぶんなくなって、経営者が嘆いているとか。山元の幼稚園バスも津波でやられたとか、東京には来ない話ばかりだ。
    スーパ−は大繁盛、福島産がだめということになったら、茨城県産がどっと出回った。卵は飼料が変わって黄身が白くなった。お店を開けたらみんなステーキを注文する。「よほど肉が食べたかったんだね」こんな非常時に残念だが,遺体から物を取っていく人、窃盗団、車上荒らしもあるという。お嫁さんがばあちゃんを置いてけないから家へ戻って2人とも流されたり。しのぶさんも聞くと泣くの毎日だという。

    ひろしさんは宮城県が放射能量を計測しないので、何度か県や町に実行するように訴えた。町は「県の連絡待ってます」しか言わないし,やっても結局、「健康に影響はない」でしょう。しんじられないよ。
    「瓦礫のなかにはレジオネラ菌、破傷風菌、アスベストもまじっているから気を付けた方がいいよ」とマスクまで用意してくれた。

    朝7時だが、宍戸家へいって情報を仕入れる。宍戸さんのところは相馬のご親戚、大きな肉や「鳥久」は無事だった。丸森町立病院もいざというときのために入院患者を一階へおろし、玄関あたりで寝ている人、車椅子のおばあちゃん、大変だった。「大きなガス釜で米を炊いて毎日おにぎり握りっぱなし」と野菜ソムリエ、剣道の達人志津子さん。8時前に出発。

    亘理町吉田中学校

    近くで仮設住宅の建設進む。明るい体育館。しきりはなし。ステージの上から職員が「ただいま本とマンガが届きました」とアナウンス。壇上に管理者がいて下に避難者がいると上下関係とか管理する者、される者に別れてしまうのではないかと思う。子どもは集まって腹這いになってゲームに夢中。これからもこの姿ばかり見て心配。入り口に退去者のなのか、毛布がどっさり積み重ねてある。洗濯機をまわしながら井戸端会議。喫煙コーナーでもおしゃべり、お年寄りは蒲団に寄りかかり目をつぶっている。校庭でサッカーする姿も。

    亘理中学校

    最初話した人は趣旨を聞き終わってから「私は練馬からきた支援なのでわからない」という。最初に言ってほしい。責任者は「どれくらいの量ですか」という。これからもずっとそれを聞かれることに。「どれくらいいりますか」と聞くと,自分で見て来てください。しかし置きにいくと「皆さん、作家の森まゆみさんが子供たちにマンガと絵本を持ってきてくれました。大人向けの本もあります」とアナウンス。みんなから拍手が上がる。あと自分でも話せというのでほんの短い話をした。

    亘理高校

    高台のもと城跡にある。入り口が難しい。どこの避難所も探すのに骨が折れた。
    担当の女の人は名刺を渡すと「森さん」と呼びかけてくれたのはいいと思った。「浜の方で家も土地もなくされた方たちです。お年寄りが多いのでなるべく字の大きい本をお願いします」本はどこにあるのでしょうか、と聞いて指さされたところに行くと小さな台にふるい文庫本が少しあるだけだった。

    亘理小学校

    子供の本のコーナーはあった。そこに少し置いた。ジャンプはぼくも読みたい、と受付の人。そのとなりで柔道整復師がふたり、お年寄りの体をなおしているところ。ほかでもこのようなボランティアは何度も見た。受付の若い男性はかなり疲れている。活力のある人は昼間は自宅に戻って瓦礫撤去などをしているので、残っているのはどうしてもお年寄りが多い。ご飯の時間ですというアナウンス。なんだか病院に似ている。

    逢隈小学校

    ここは体育館を1丁目2丁目などと区切って、コミュニティをわけている。明るいが、とにかくこんな天井の高い茫漠とした空間に1ヶ月も暮らすなんて想像を絶する。
    「山形から毎週、ジャンプをとどけてくれる青年がいるので、彼の気持ちを無にしないためにもジャンプは一冊でいいです」と言われる。
    子どもが4割いるので児童書を多めに。もうすぐ学校が始まり、海側の荒浜小学校とひとつの校舎を使うので大変です。(合併はしないらしい)。畳があるのは珍しいんですよ、と職員は言った。

    亘理は山側はいちご、海側はホッキ飯で有名。いつも松島で釣をして漁果がないと海沿いの真新しい温泉鳥の海で松林を望むお風呂に入り、一階の鮮魚コーナーでミズイカやホウボウ、アンコウなどを買っていた。その回りには寿司や、ホッキ飯を出す民宿など、いっぱいあったのにすべて波にさらわれた。近付くことすらできなかった。とおくに蔵王の雪が白い。なんとも風光明媚なところなのに。曾祖母のふるさと。

    岩沼渡波小学校

    大きな体育館。小さな木の囲いで着替えコーナー、受付コーナが作られている。受付の人「できるだけ自立してもらうようにしています。炊き出しは自衛隊や地域の方がしてくれています。本はそんなに置くところないんですよ。もっと生野菜がほしいですね、けんちん汁はよく出ますが、おひたしも出したいんですけどね」
    後背には被害の少なかった農村部があるのに、なぜおひたしやサラダができないのだろう。東京から米や野菜や野菜ジュースを運ばなくたって、と思うのだがよくわからず。「半壊でも金は出るぞ。家にいないでたまには避難所に来いよ。ここに情報があるんだから」と大声で携帯電話する男性あり。

    荒浜の早川眞理さんの尊敬するもんぺさんこと小幡つや子さん宅

    宮城野区中野。ここら辺の人は、まさか津波が来るとは思わなかった。うちのすぐそこまで来て、あらあらと見ていたけど幸い中までは入りませんでした。山登りをするのでいくつものリュックに懐中電灯入っていたし、ろうそくもあったし、キャンプは慣れているからそう困らなかった。キャンプの経験は子供たちにもさせた方がいいと思う。こうなると近所の人がみんな何でもくれるの。こんなんで被災者では申しわけないけど行政からも物資をいただくし。
    お昼ご飯を使わせてもらい、温かい味噌汁を出していただき、困っている人にあげて、とインスタント味噌汁2箱、手造りのおいしいチョコレートケーキを85個いただいた。
    もんぺばあさんの日記(http://blogs.yahoo.co.jp/monpebaasan)

    いっしょに仙台市の避難所を探しにいったが中野小は廃止。キリンビールの工場あたりもひしゃげた車でいっぱい。キリンの缶が流れ出し、拾ってのんだ人の話。瓦礫の処理で粉塵もうもう、「ここにも民家があったはずなのに」と小幡さんがいうが真っ平ら。

    ここで明日会う予定の雄勝天然スレートの木村満社長と連絡とれる。被災され、仙台の娘さんの家へいたが、明日は雄勝へ行くと言う。「森さん、覚えていますよ。工場へ来てくれて、スレート切りましたよね。あのときの東京駅を葺いた職人の高橋さんもお元気ですよ。雄勝の千葉さんも支所の方でがんばっていますよ」びっくり!
    2日前のは同姓同名の方がいたための誤報で、旧雄勝町役場の千葉さんはお元気だった。よかった!!それにごめんなさい。

    多賀城の文化センター

    国の史跡多賀城址を見学の帰り、よった展示室も避難所になっていた。ホールは暗いし客席があるのでホワイエに暮らしている。ホールの入り口の取っ手にハンガーがかかっている。テレビでプロ野球に見入る人々。若い女性がおじさんたちにハンドマッサージ。入り口では天下一ラーメンが京都から車を運び、麺は仙台で調達、きょうもボランティアで1000食ふるまったという。本を並べていく。ほとんど本らしい本はないのに、かべぎわに某大手出版社から送られた書籍の包みがいくつも「返却」と書かれて積み上げられていた。ショック。

    石巻は朝と夕方、自衛隊、職員、ボランティア、見学者の車で渋滞するというので残念だが名取、東松島は通りすぎた。高速からは海のほうがよくみえる。6号線より西と東で色が違う。海側は泥で黒い。
    女川町総合運動場へ。丘の上の大きなアリーナに多いときは3000人がいた。
    入り口には自衛隊が大きなテントを張り、風呂を経営している。ごった返すという感じ。
    岩手のアーク牧場で真理ちゃんが一諸に働いた高野晃さんをやっと見つけた。
    食事は1日2回。朝はパンと牛乳とか。すかいらーくが炊きだしに来てる。きょうは讃岐うどんのテント。お姉さん食べてって、といわれ、あの、被災者じゃないんですけど。いいんだよそんな、いくらでもあるんだから。でも食べるわけにはいかない。なかは段ボールで囲って通路を作ってあった。

    女川町議で40年、原発に反対して来た高野博さんにあって話を聞く。

    震災日録2011.4.17
    17日にあった女川原発に40年反対しつづけた高野博町議
    ビデオリポート
    「地震のときは本会議中でした。家に帰ったけど入れる状態じゃなくて、女川第二小学校に孫を迎えに行きました。そのうちゴーッと音がして津波がくるぞ−というのでもっと高台の運動公園に避難した。雪が降り出してビニールシートを子供たちにかぶせた。
    津波には警戒していたが、あんな大きなのが来るとは思わなかった。家のあたりは海になっていた。

    百人の衆楽の那珂で55人なくなりました。小学生は無事でしたが、卒業で早く帰っていた中学生が2人なくなりました。

    大学を出て、それこそ女川第一小学校の先生を2年やったあと、共産党から町議になりました。それは昭和43年ころ、木村力という町長のときですが、原発が計画され、議会26人中誰も反対しなかったので、お母さんたちの願いで私が出ることになった。議員になっても、反対は私一人でした。

    東北電力はうまいんですよ。浪江町と誘致合戦をやらせて競わせた。反対したのは漁師さんです。女川漁協と雄勝漁協と。でも議会や市民と手を結べず、稼働しはじめたのは昭和59年だったかな。いま思えば漁師さんたちが正しかった。

    私は議会で毎回、3つのうちひとつは原発のことを質問してきた。でも東北電力も誠実な答えをしたことはありません。今回の地震のあと、停電になり、電話もつながらず、ラジオで福島で事故が起きたことはわかったが、女川のことが心配でただ祈るだけでした。

    チリ地震のときもマイナス6メートルまで波が引いたので、海水から水画穫れなくなるのではないかとヒヤヒヤしました。私は8期やって1回落ちたんです。共産党から2人出すのに失敗して。それで返り咲いていま反対は2人いますが、事故の後、町民にアンケートを無作為でとったら、6割は原発に反対、賛成は2割しかいません。

    女川は東芝が作った原発ですが、しょっちゅう事故を起こしています。それに電力会社も町も、真摯に対応してこなかった。電力支配下の町で、なかなかはっきり物がいえませんが、これを大きな力にしていきたいです」

    もう6時20分、追分温泉まで真っ暗な道を走る。到着後、荷物もおろさず、すぐに夕食。ここは温泉だが避難所にもなっている。当初60人くらいいたが、いまは30人。混ぜてもらって夕食。
    ここへは前にも来た。そのときは食べきれないほどの海の幸だったが、今日は焼き魚、韮の卵とじ、カボチャの味噌汁がほっとする。食後、お茶ではなしをする。ご主人の小山さんは

    震災日録2011.4.17
    追分温泉旅館を避難所にしてしまったご主人の横山宗一さん。そこに最後の5箱を置かせてもらいました。30人の避難者が暮らし、一日300人にタダでお風呂をふるまっています。
    「この辺は岩盤がよく被害はなかった。津波は見ていないし、そのあとも見る気になれない。百人以上の人がここに逃げてきた。さいわい宴会が中止になったので、すぐ避難民を受け入れ、食材はあったので作って出しているうち、避難所に指定された。
    寒かったけど食材の保存のためには助かりました。ここから丹前を運んだり、おにぎりも握って届ける毎日でした。
    食べ物あっての宿ですから、農業や漁業の復興がないうちに観光なんてありえない。それにこのことがあってから、人の情けというか、まえにいらしたお客さまが全国からいろんなものを送ってくださいます。もうこのままずっと避難所でもいいやと思うくらいです」

    30人の避難の方たちは、風呂掃除や配膳など自主管理している。他の体育館の避難所をたくさん見た目には、部屋はちゃんと天井や壁があり、近所の仲間と避難して静かな雰囲気が保たれ、お風呂にも入れるし、いいところだと思った。

    前にあった大内さん夫妻からも、ノアの箱船のように屋根に乗って漂流した人の話。津波が来るとわかってから元気な漁師が海の上のほうが安全だと舟を出して波を乗り切った話。浜ではみんなそれを見て泣いていた。首まで浸かった93歳のおばあさんが助かったけど、カイロ何枚張っても温まらなかった話。御産寸前のひとを助けた話。ながされた話はつらくてここに書けない。児童の7割が流された大川小学校の話も。「まあ夢であればと思ったの」「映画見てるみたいだった」ため息をつくばかりである。お風呂に入って寝る。

    丸森の友人、宍戸克己さんは消防署の幹部で、何を聞いてもすぐ答えが帰り、適切なアドバイスをしてくれ、必要なところにすぐ電話をかけてくれた。やっぱり火事場で鍛えたひとは違う。私が文京区役所に電話してもそうだが、事務職の公務員は、私の部署の管轄ではありませんとたらい回し、責任をとらず、大過なくことなかれで勤め上げるという感じの人が多い。そう言うタイプは避難所などではまったく役に立たない、という話を多く聞いた。

    ⇒ビデオリポート「女川原発に反対して40年‐高野博女川町議に聞く(http://yanesen.eizoudocument.com/011takano.html)

    森まゆみ(2011年4月20日)


    ●震災日録4月16日 森まゆみ

    4月16日――相馬、山元、新地、丸森(長いので読み飛ばしてください)

    震災日録2011.4.16
    絵本やマンガを積んで出発

    きょうから3日間、東北へ絵本とマンガ、大人用の本を届けにいく。
    朝6時に編集者の滝川修さんがハイエースを借りて、7時に家へきた。
    最後の石巻への雨合羽(光源寺さん経由)、「古着でも何でも持ってきて」という北上町(いまは石巻だが広域合併でなにがなにだかわからなくなっている)の熊谷さんの言葉に甘えての古着を一番奥へ。箱の胴体にどこからいただいて何が入っているか書いておいた。
    うらうらした土曜。東北道を安全運転で、那須インターで妹分の早川真理ちゃんと合流。
    彼女は運転はできるし、地図は読めるし、東北樹の道路を知っているし、機転はきくし、体はよく動くし。那須町のしごとをはじめて間もないので、お願いするのは申しわけなかったが、どうしても来てもらいたかった。彼女のお知り合いも被災地にいるし。

    今回は東京ではほとんど報道されない北福島、南宮城を重点的にくばっていく方針。
    といって突然持って行っても断られる場合もあるとか。
    相馬は馬の関係で知り合った川嶋舟さん(中村神社)がつないでくれるはずだったが、東北道が通行止めになり、来られなくなった。

    *はまなす館(避難民450人)に社協の只野さんを訪ねる。
    支援物資の段ボールがものすごい量積み上がっている。避難者のいるところはホールで暗い。ボランティアなのか、大勢の若者が出入りする。本を読むような情況ではないなあ、と思いつつ、段ボールで運ぶ。「あ、ジャンプだ」と叫ぶ子あり。

    *旧相馬女子高校は南三陸町から避難された方。二回のキッズルームに置く。
    しかしここも、明日には閉鎖。廃校だからいてもいいのだが、設備が古く耐震性に問題あるとか。家に帰る人、飯坂温泉に第二次避難をする人と分かれる。子供たちは小さな教室の中で落ち着いて遊んでいた。絵本を渡す。

    震災日録2011.4.16
    山元町辺り、海まで何もありません

    *よく遊んだ海のほうも見たいと思う。おいしい魚料理のたこ八や斉春も「中が抜けて」いた。家財は波に流されてがらんどう。土地の人は「死んだ」「なくなった」と言う表現を使わず「流された」といっていた。サイディングの金属がはがれちぎれて風に吹かれている。なんというか、町にはってある「ピースボート」のチラシみたいに。

    宮城県山元中学校

    ここは素晴らしかった。渡辺校長が修了式の終わった3月11日から避難民を受け入れ校長室に陣取って一度も家に帰らない。
    浜の方から全壊・半壊で避難して着た順に教室に入ったがそこでコミュニティが生まれ、その29の室長会議、そのほかに10人のヘッドクオーターをつくり、すべて自主運営。避難者が掃除も炊事もしていた。
    なんかなごやかな雰囲気で、それぞれ笛や津軽三味線や民謡や、特技をもちより他の避難者を慰めたり、部屋ごとに夜はこれからの町づくりを話し合ったり、次ぎの避難も部屋ごと引っ越したいといっているという。
    あたたかい雰囲気の校舎建築もいい関係を生むのに一役を買っている。
    これからは、災害時の避難所を視野に入れて学校を設計するべきかもしれない。本はさっそく校長先生がきれいに本棚に並べてくれた。学校だから児童書はあるので、大人の人が見にきた。
    山元もおいしいピザのパピハウスがあったあたりの松林なぎ倒された模様。

    新地町役場(福島県)

    枇杷温灸に丸森から通っていた荒先生に再会。生死を分けたのは第六感だという。
    本能的な直感と言うべきか。逃げる方向の選択とか、車を棄てるタイミングとか。
    ここら辺のひとも原発関連で働くひとが前は多く、作業員の体も多く診たという。
    荒先生の紹介で新地町役場へいくと、部屋一杯に服、靴、毛布、靴下、洗剤などならべられ、被災者は持って行っていいことになっていた。
    「これから本も喜ばれるわ」
    「ジャンプは本屋さんになかなか入らないし」と職員が喜んで受け取ってくれる。
    釣師浜へはちかづけず。ここ出身の遠藤新の木綿の家がどうなっているか、確認したかったが、時間がない。

    丸森境界の鹿狼の湯へ。いつもは6時過ぎると800円が600円になるのだが、いまは一律500円。サウナと露天風呂は壊れていた。でも温かい湯につかれるだけでありがたく、次々客が来る。自衛隊のひとも泊まっている模様。車でたちより湯に来た自衛官もチャンと500円払っていた。こういうところ中国と違うな。中国は軍隊や警官など優先的にただ飯だ。「3月中はうちも被災者はただにしていたのですが、主人が議員なもので、売名行為だなんて言われて」と奥さん。

    丸森町筆甫中学校

    廃校のあとに南相馬からの避難者100人以上がいる。きた日は250人ほどおり、雪で寒かったとか。3人の職員さんがついて自主運営。
    「食材の調達が大変でしたがやっと軌道に乗りました」。山奥の小さな集落に避難して心細いだろう。明るいニュースは小学生が7名この春、全校生徒16人の筆甫小学校にはいり、過疎の小学校がにぎやかになったこと。お風呂はあるが、町営国民宿舎あぶくま荘がただで入れ、送迎もある。「本がきたのね」と被災された女性が「手持ちのは読み飽きちゃった。あそこの本棚を持って来てならべましょう」といった。

    夜8時すぎ、友人の菊地宅へ着く。玄関まで迎えに来たひろしさんが「上がって上がって! おそいよ。天ぷら冷めちゃったよ」。
    菊地家のテーブルにはところ狭しと、焼き鳥、サラダ、牡蛎の串焼き、天ぷらがならび、ビールで再会を喜ぶ。
    被災地に来てこんなご馳走を食べてよいものか。きょうは泊めてもらう。「いいんだ、支援隊の後方支援ができるなら」としのぶさん。ひろしさんは鄙にはまれなレストラン・緑山のオーナーシェフ。震災以来のいろいろを話し続けるが、ドライバーのタッキーと真理ちゃんはこっくり、バタンキュー。10時半には蒲団にはいる。

    *きょう感じたこと。支援物資は大きいところへどっと集まる。私たちもまず子どもがたくさんいるところへ、と向かった。800人いるところに送れば効果的、役に立つと思うのはまちがい。小さくても必要としているところへ、がいい。

    *まいにち必要なものが変わる、というのも目で見るとよくわかる。下着が足りない、送ってというと,どっと集まって余剰になる。これについては、ふんばろう東日本支援プロジェクト(http://fumbaro.org/)

    *岩手県などボランティアを断っていてひどい、と思っていた。しかし受け入れ態勢のないところ(地元職員が人を使いなれてないところ)へ行くとボランティアはうろうろするばかりで、避難所の落ち着いた雰囲気をこわしかねない。
    きのう東京から来て、今日は海のほうを見て帰る、というボランティアもいた。そういうごく短気なボランティアをどう使えるかもわからないが。
    何かすることはないか、という指示待ちでなく、さっさと瓦礫の中からお位牌やアルバムなど失われてはならない記憶を拾って保管・整理している若いボランティアがいる。あとで効いてくる作業だろう。

    森まゆみ(2011年4月19日)


    ●震災日録4月15日 森まゆみ

    4月15日

    今日は朝9時、JR東日本に要望書を届けにいく。朝、ラッシュアワーに乗る。間引き運転だから混む。遅刻できないので新宿の本社前のスタバでコーヒー。道行く会社員はみんなマスク。終わってからこれからのことを相談。帰って賛同者への報告を書く。多児さんに送ってなおしてもらい、今日いった5人の名で賛同者にまわす。

    みなさま

    本日朝9時、JR東日本へ「東京駅赤煉瓦駅舎の屋根のスレートについて」(おまわししたのと同じ文面です)という要望書を渡 しに行ってまいりました。4月10日の呼びかけからほぼ5日間のあいだに3037名の方が賛同してくださり、その名簿をつけてお渡ししました。研究者、建築関係者、また登米や仙台の被災地の方々、広く全国のいろんな仕事をお持ちの方々がいます。24年前、駅舎保存のときに手書きで封書で署名を集めていた

    ころを思うと夢のようです。みなさまの思いをお届けして参りました。
    JR東日本では広報部、建設工事部、設備部、総務部のかたが丁寧に対応してくださいました。
    そのなかでいままでわからなかった工事の進捗情況がわかってきました。

    *辰野金吾設計の大正三年の創建当時は雄勝産のスレートで葺かれてい た。
    *戦後、戦災からの復旧のさいは登米産のスレートで葺かれた。
    (ここまでは既知)

    *今回の修復では、できるだけ登米産のスレートは再利用する、足りない 部分も雄勝産の国産スレートを使いたい、という方針だった。
    しかし雄勝は職人さんも少なくそれほど新材の量が見込めなかった。また3階やドームの復元などがあり、足りない部分はすでにスペイン産のものを発注してあった(線路側など見えない部分に使う)。
    *登米産のスレートは一部、すでに南北ドーム下をそれで葺いてある。
    *残りの登米産の使えるスレートが北上の熊谷産業で被災、雄勝天然スレートの新材も被災、どちらも人的被害がない、ということだけわかったがまだ現況がつかめていない。

    「来週、現地を視察し、現況を確かめ、被災スレートのうち使えるものは文化財保存の鉄則に従い使いたい」と確約してくださいました。ただ し、「重要文化財であり、駅舎として活用する以上、海水に浸かったス レートの安全性などの検証が必要」とのこと。

    この5日間にいろいろな専門家や文化庁なども働きかけてくださったと聞いています。JR東日本の方たちと、忌憚ない意見を交換しました。わたしたちとしては被災地を落胆させず、被災地を励ますための活動をJR東日本と協力して行いたい。スレート洗いのボランティア、被災地でスレート洗い の雇用を作り出すことはできないか。寺社で行われる瓦寄進のようなこ とが東京駅でもできないか。スレート一枚づつに祈りやメッセージを書 いて屋根に載せるられないか。東北と東京を結ぶ玄関口である東京駅を東北復興のシンボルにしたい、そんなことを話し合い、なごやかなうちに 会合は終わりました。

    ともかく、「被災スレートをできるだけ使いたい」と確約いただけたのは、みなさまのお声のおおきな成果と考えます。これからJR東日 本の現況確認と調査の結果を待ちます。

    募金したいという声も大きいのでとりあえず「赤レンガの東京駅を愛する 市民の会」のなかに「東京駅スレート屋根基金」をつくります。これは 被災スレートの救出、水洗い、使用へ向けての活動に限定して使います。また文化財保存に不可欠なスレート産業の復興については可能性を探り つつ、新しいご提案をしたいと考えています。短期間に賛同署名を集め てくださったみなさま、本当にありがとうございました。

    呼びかけ人
    「赤レンガの東京駅を愛する市民の会」
    事務局長前野まさる 多児貞子、森まゆみ、山本玲子、椎原晶子

    ドロナワで荷物を作る。古着も顔の見える関係ならオーケーか。だいたい自分だって服を買わないのに新品を買ってまで送るということにちょっと抵抗がある。下着は買ったけど。クマちゃんは、いよいいよ何でも持って来てというので、社員の顔を浮かべつつ、男物にアイロンをあてる。着る人の顔を思い浮かべるということは大切だ。このまえも靴下を持って来てと言ったらずいぶんストッキングが入っていた。避難所でストッキングがいるかいな。どんどん本が段ボールで届く。向うへ行って渡す簡単なメッセージを作る。

    「こどもたちに絵本とマンガを!」プロジェクト

    このたびの東日本大震災にあわれたみなさま、心よりおみまい申し上げます。避難所で電気や水道も不自由ななか、生活は大変なご苦労だと思います。まずは食べもの、着るもの、ふとん、暖房などが大事だと思いますが、心のかてとしての読書の時間も大切です。

    お持ちのご本も波に流されてしまったかもしれません。
    毎週、買っていたマンガが手に入らないかもしれません。
    学校も図書室ごと津波にあったところもあると聞きました。

    仙台に「少年ジャンプ」が1冊しか入らなかった日、150人で回し読みをしているというニュースが東京に届きました。
    集英社のある編集者が『ジャンプ』を被災地に届けたい、と思い立ちました。
    それに知り合いの編集者たちが協力して絵本やマンガを集めました。
    きょうお届けするのは本当に少ない量です。
    でもすべて個人的な努力で集めたものです。
    どうぞ皆さんで読んでください。楽しんでください。

    みんな元気でね!

    森まゆみ・早川真理・滝川修

    協力者・倉沢紀久子・足立恵美・平田賢一・佐川祥子・熊倉沙希子・山本明
    子・山●旬・岩田一平・河合桃子・稲葉希巳江・横川浩子・川原理子

    現地の情報を集める。消防の先頭に立つ宍戸克己さんよりメール。

    「おばんでございます。ハウスのなかで、いろいろな苗作りも始まっています。神明社の桜もいつもと同じように膨らみ、16〜18日には咲いていると思います。ほっとはしますが、素直によろこべない気持ちです。

    相馬市から亘理町までの状況をお知らせします。
    相馬市は6号線の東にバイパスをつくったので、そこまでが浸水域。岩の子は広い田んぼに松の木が横たわっています。
    ホテル飛天の西側、道路に横たわっている船をよけて松川浦に行くと、たこ八あたりまで被害が大きいです。
    新地に行きますと、6号線の西側まで浸水し船があちこちに見えます。釣師浜は、家並みがほとんどないです。
    宮城県に入り磯浜。ここも釣師浜同様家並みがないです。新地駅、坂元駅は跡形も無く、列車も大きく脱線しています。
    亘理町荒浜の鳥の海荘あたりもさら地状態になっています。すごい惨状です。

    丸森町の筆甫中学校も南相馬市の方々の避難所になっています。133人、内19人が小・中学生で丸森の学校に通うことになります。原発の影響は、とても大きいです。
    角田・丸森は学校によって14か15日が入学式になります。
    原発とモニタリングの状況が気になる毎日ですが、元気を出していきましょう」

    何となく寝付かれずいろいろ気になって何度も起きる。なるようになるさ。

    森まゆみ(2011年4月19日)


    ●震災日録4月14日 森まゆみ

    4月14日

    きのう、4月2日の光源寺でのおにぎり作りの映像を見ていたら、まだ10日しかたっていないのに、世界は刻々動いてしまっている。あのころ関東圏の野菜が取りざたされたが、それから関心は福島市や飯館村の放射能の高い数値、海洋汚染と魚の安全性へとくるくる動いている。
    きょうは千葉県産のサンチュが話題だ。しかし出荷自粛と言ったって、独自に計って基準以下のものを売るのがどうして悪いのだろう。

    原発への不安は消えないが、ニュースでも比重は少なくなり、東京から避難しようという気持ちもなんとなく薄くなってきた。のど元すぎればなんとやら。水もマスクもどうでもよくなってしまった。人間は慣れるのだ。ニュースも「収束の目途たたず」のみで、詳しいことを伝えなくなった。

    おととい荒川さんに原子炉についてあれこれ教えてもらったが、だんだん吐き気がしてきて頭痛もひどい。
    なんで上の方に使用済み核燃料がおいてあったのか、危ないじゃないか、テロにでもあったらどうするんだ。全部ばれちゃったじゃない。かといって下に置いてあったら安全というわけでもない。
    どこかへ持っていくわけにはいかないの、あそうか、六ヶ所村は拒否してるんだ。チッソを入れて圧が高まらないのはどこかから漏れているんでしょ。セシウムもそこから漏れているわけ? なんてシロウト考えをぶつけてみるがいっこうにわからない。わからない技術で作った電力を使うのはいやだ。

    鳴子・川渡温泉みやまの板垣さんから電話あり。
    「天罰だなんて言った石原慎太郎を都知事に4選するなんて東京都民はどうなってんの?」
    言われると思ったよ。東京消防庁の活躍のおかげでしょうか。
    「結城登美雄さんはちょうどうちでインタビューを受けていたときに地震でよかったよ。移動中だったらあぶなかったしょ。結城さんは海辺の町も村も全部見て歩いて付き合いがあったから。ああいう人は大事だよ」

    そういえば私も結城さんにくっついて唐桑に行ったことがある。あのとき、おじいちゃんに妙に気に入られて、大きな石のついたおもちゃの指輪を「これ、おめにやる」ともらったものだ。あのおじいちゃんどうしたかな。
    みやまさんは「地震以来、客が来なくてね。すいてて何時でも泊まれるから来て」
    そうですか。「あたしも講演はいくつもキャンセルだし、新聞の連載は紙が足りなくて始まらないの」というと、「そうか。東京も被災地だね」

    森まゆみ(2011年4月15日)


    ●震災日録4月13日 森まゆみ

    4月13日

    がんばる、という言葉は嫌いではない。頑張る、よりもっと好きなのは頬張る、かな。おいしいサンドイッチとかさ。でも「がんばれ東北」や「がんばろう、いわき」とあちこちで見かけると食傷気味。「もうこれ以上がんばれないよ」という人には「がんばらなくていいよ」といったほうがいいという。でも「がんばれ」も自粛したくはない。最近、がんばれそうな人には電話を切るとき「いっしょにがんばりましょう」といったり、それ以外のひとには「お体お大事にね」といったりする。「踏ん張れ」とか「けっぱれ」もいいかな。

    実は東京駅のスレート屋根の反響で忙殺されているのだが、それより以前、16日から18日まで東北に行くことにしていた。それは東京でほとんど報道されていない、福島北部から宮城南部の海沿いの町町へ絵本とマンガを届けにいくプロジェクトだ。
    これは集英社の私の文庫を作ってくれている瀧川さんが「仙台にジャンプが一冊しか入らなくて150人ならんでる」というニュースに心を痛め、ジャンプを東北に持って行って届けたい、というきわめてシンプルな希望から始まった。

    そこでしたしい編集者たちに呼びかけたところ、ポプラ社の倉沢紀久子さんは「児童書ではないけど、避難所で読める気軽な小説とかエッセイ」を、平凡社の山本明子さんは「ちょうど別冊太陽で資料本で集めた絵本があるので」、佐川祥子さんは「福音館の勝尾さんと相談して子どもの本など」、朝日新聞出版の岩田一平さんは「科学読み物を送ります」、JTBの河合桃子さんは「旅行関係の楽しい本を一箱」、ヤマサキの息子メディアファクトリーの山崎旬くんからも、亜紀書房の足立恵美さんからも、協力のメール。岩波の平田賢一さん経由で児童図書部の熊倉沙希子さんからも仲間で集めます、といってくれた。みな個人的な努力である。ありがたい。

    社として、業界としてはそのうち大きな取り組みをされると思うが、できるだけ早く届けたい。同じ児童書でもマンガと学参と絵本と科学読み物では編集もまるでちがう仕事だと思うが、こどもに早く落ち着いた読書環境をという思いは同じだ。「ジャンプが届いたら、さぞうれしいでしょうね。毎週ジャンプを読んでいた子にとっては、ジャンプは平和な日常を象徴する、心安らぐものだと思います」という熊倉さんのメールはみんなの思いである。
    すでに避難所に読み聞かせなどにはいっている方々もいる。マレーシアから来た方は「どこへいってもお年寄りが話しかけてくる。みんなつらい話、経験したこと、これからのことを聞いてほしがっている」という。そのうちお年寄りの話し相手になりにいきたい。

    今回は16〜18日の3日間の予定で、石巻の東京駅の屋根の現況も見てこなければならない。できれば女川原発周辺の方の話も聞きたい、いやいや欲張りすぎて虻蜂取らずにならないように。

    地震以来、やけに白髪が増えた。むかし旧満州にいて、ソ連の兵士が家に入ってきたとたん髪の毛が逆立って、翌日全部白髪になった、と望月百合子さんに聞いたが、そんなかんじかな。

    森まゆみ(2011年4月14日)


    ●震災日録4月12日 森まゆみ

    4月12日

    今年は花見をする暇も、気分でもない。自転車を走らせる間、お林稲荷のさくら、千駄木の郷のさくら、そして安田邸の見事なしだれ桜に見ほれ、心慰められる。

    たれこめて 原発のゆくえもわかぬまに 待ちしさくらはうつろいにけり

    先週サトコが夜中に帰ってきたので「おそいわね」といったら「仰木家で私の誕生日やってくれたの」という。「あら、まだ早いじゃない?」「何いってんの?もうとっくにおわっているよ」と娘の誕生日すら忘れていた。

    きょう、原発はレベル7になった。チェルノブイリとおなじ。出ている放射能は10分の1とかこの期におよんでまだいっているが、1ヶ月で10分の一なら、これから1年出続ければ、同じ以上出るだろう。
    ニュースも基準値の10倍100倍でても「基準値以上」としかいわなくなった。

    中国整体の先生は「原発どうしてる?」が挨拶。100万人いた中国人の7割は帰国したって。ぼくもこわいなーという。
    「日本はいいけど、中国で地震あっても義援金送っちゃだめ。みんな政府の人のものになっちゃうから」「日本の地震は唐山地震の360倍の大きさで3万人? 唐山は20万人。唐山で同じ地震が起きたら300万人くらい死んじゃうのかな」。予想がつかない。
    国連機関で働いていた人に聞いたら「現地に1000円とどけようと思ったら1万円寄付しないと」。日本も同じではないかしら。

    9日の鎌倉の大江健三郎さんの講演は、桜井さんたちが行って撮った。10日の日比谷でもは荒川さんがとってきた。2500人に増えた。高円寺にはサトコ。2万人くらいきたッて。映像ドキュメント「宇沢弘文に聞く」いいですよ。必見。

    「東電の供給する電気を使っていた私たちも同罪だ」という女性に映画会であった。
    違うと思う。毒入り餃子を買って食べた人が、それを作って売った人と同罪だなんてことはありえない。
    東電は営利会社で、できるだけコストを下げ、できるだけ株主にもうけさせるため住民や議員や心ある学者の疑問にこたえず、老朽原発を点検もせず使ってきた。電力という商品を多く売るため、オール電化住宅を奨励し、風呂でもトイレでも何でも電気なしでは使えないような仕組みを作り、消費者にこたえるといって夏のピーク時にあわせて原発をふやして電力を製造した。
    「電力供給」という言葉はまやかしだ。これでは「お客さまの要望に応えて」になってしまう。「電力濫造」とでもいったらいい。
    きのうの株、出来高1位は東電、2位システムトラブルのみずほ、3位三菱UFJ 、4位原発製造の日立、5位おなじく東芝、むべなるかな。

    森まゆみ(2011年4月13日)


    ●震災日録4月10日、11日 森まゆみ

    4月10日

    新潟村上市の沖に浮かぶ粟島を馬をつかったスローな村にするプランのため観に行く。
    人口350人だがここは合併をしない。村人の車以外は入れない。粟島馬という在来種が昭和7年までいたので、島の歴史とその聞き取りをして形にするのが私の仕事。

    東京駅に早く着いて待合室でぼんやりしていたら、東京駅太陽光電システムを画面で知らせていた。ソーラーパネルで本日の発電量は234キロワット、いままでに4万1826キロワット発電。1年で101トンの二酸化炭素を削減できるとか。いいんじゃない?
    東北新幹線は那須塩原までしか行かない。こんなすいた東京駅、初めて見た。

    行きの新幹線で。3・11と9・11、同じ日に起こったなあと思う。神戸の大震災は1、17、その年の3・20が地下鉄サリン事件。
    3・20は須賀敦子さんの命日でサトコの誕生日だ。朝日新聞を隅から隅までよむ。本当にたくさんの人がかけがえのない家族をうしなったんだな、とおもう。なくなったのは65歳以上が55.4パーセントとのこと。

    上毛高原駅で寄田君、カフェスローの吉岡さん、デザイナーの加藤さんと合流。
    おととい、7日付けの東京新聞を見たヒロシが「寄田さんへ電話して!南相馬にやせこけた被曝馬がいる。これ助けられるのは寄田さんしかいない!」
    電話をしたところ、すでに救出要請があるとのこと。上毛高原へ現れた寄田さんの話。

    「今除染してきたところです。暴れる馬を扱えるのはそうはいないからね。
    で、結論からいうと無理でした。相馬の中村神社の川嶋さんと行ったんですが、競走馬じゃなくって、競走馬上がりの肥育馬でした。それに持ち主がいるので勝手に救えない。もし馬が死んだら補償の対象になるので、連れて行くなら買ってくれということでした。

    東京新聞には1000くらいの反響があったそうです。今回の津波では相馬、南相馬、原町と馬の産地でかなりの馬も流されています。原発20キロ圏の人もこっそり犬や猫に餌をやりにきているみたい。犬は鎖を放されても家に戻っていました。犬がちんと足をそろえているのや、僕らを見てよろこんで追いかけるのでもう心を鬼にして車で走りました。

    警察官も怖いし、心ここにあらずみたいで、簡単に20キロ圏に入れましたよ。立ち入り禁止地区には誰も居ない。30キロ圏の境では住民が犬を連れて散歩してるし、40キロ圏ではジョギングしているし、もうどうなってんのという感じ。

    土地とか、先祖の霊とか言って離れられない、逃げられない人の住む土地に原発を造るのは卑怯だ。だって高級官僚とか東電の幹部なんて外国でも病院でも逃げられるんだから。逃げられるやつが原発を作っている。自主退避を勧告する、って形容矛盾ですよね。

    地震の日の空の色が本当に変だった、と相馬の人は言ってました。それでもみんなのんびりと『原発ももうすぐ終わるから、そろそろ馬追い祭の準備を始めないと』なんて言っている。人間は悪い方の予想を信じず、希望の方を見たがるんだね」

    私もそうだ。原発はもういやだ、と思うけど、どこかで誰かが放射能をとめてくれるんじゃないか、とはかない期待を抱いている。

    粟島は、奇跡のような島だった。離島振興法でたったような立派な建物もないかわり、めちゃうまい魚と温泉もあり、静かな暮らしもあった。300人の島に民宿が50軒。ここにカフェや馬や蓄音機が来て、電磁波や車や花粉にかき乱されない暮らしが作れたら。

    4月11日

    寄田さん曰く、「みんな理性で判断するから逃げられなくなる。感性で反応してヤバいと思ったら逃げるしかない」さすが馬とおなじ動物的な本能を持つ寄田君。
    でも北海道に行ったサトコも一週間で、ニューヨークのヒロシも新学期なのでまたみんなで東京へもどり、やっぱり二人をおいては逃げられないな。今日本列島はねじれをなおすために身悶えしているのだろうか。余震が続く。
    太平洋側が陥没した半面、粟島では海面が隆起して、岩が露出し、そこに白い塩が付いている。潮焼けというそうだ。

    1時の船で岩船へ。本当は瀬波温泉あたりでもう一泊したかったが、東京駅のスレート瓦について呼びかけたところ、たいへんな反響になってしまった。かいつまんで申せば

    東京駅の復元工事にあたり、石巻の熊谷産業が、スレート瓦は終戦後の修復の際の宮城県登米・雄勝産のものをていねいに外して、使えるものを選んできれいにして6万枚、いましも東京へ運ぶばかりになっていたところ、被災、津波で流され、それでも4万5000枚は拾った。塩抜きをすれば使えるという。

    しかしこのまま行けば工事主体としては進捗上、津波に流された瓦を使わずにスペイン産の瓦を発注する計画とか。
    被災した企業を応援し、建築文化保存のためにも瓦募金をして、瓦一枚ずつに募金者のメッセージを書いてもらい、東京駅を東北復興のためのシンボルにできないか、という提案をした。これに対して大勢から返信がきた。そのいくつかを紹介したい。

    東京駅にかぎらず、「復元」とは決して竣工時の姿に戻すことではなく(それはあり得ず)、竣工から今日に至るまでの歴史を見失ってはいけないと考えています。
    したがって、戦後のスレートを少しでも多く残すことはとても意義あることです。(木下直之 東京大学・文化資源学)

    あの地域では天然スレート(粘板岩、地元では玄昌石といっていました)葺きの屋根の民家がよく見られましたし、屋根材に使った廃材でしょうか、釘の穴が開けられたスレートが北上川の河口部に流れ着いたものをたくさん見ました。今でも机の前にそのとき拾った玄昌石をおいてあり、それを見ながらこのメールを書いています。もし雄勝町のスレートが東京駅舎の屋根を葺くことになれば、その社会的な効果は被災した地元はもちろん、JRにとっても計り知れないと思います。(赤坂信 千葉大・園芸学)

    熊谷産業は、私の現場でもたびたびお世話になっています。強面風で優しすぎるお兄さんとか、素敵な人ばかりです。私の教え子も一時お世話になっていました。
    署名人にはぜひ入れてください。(波多野純 日本工業大学・建築史)

    いぜん雑誌で歴史建築の素材を訪ねて登米のスレートを取材したことがあり、「雄勝天然スレート」木村社長邸などを撮影をしました。あの美しい建物や気仙沼大工の名作、登米尋常小学校や警察署が消えてしましまった事実も知らされおどろき、いま掲載誌の写真見ながら呆然としています。
    今回の趣旨に賛同します。(中川道夫 写真家)

    歴史的建造物の修理修復では使えるものは徹底して使うのが鉄則です。面倒だからそれをやめるというのは賛成できません。(西 和夫 神奈川大学名誉教授)

    「赤れんがの東京駅を愛する市民の会」では要望書をつくり、有志と賛同者の名義で JR東日本に持っていく予定。同時に塩抜きの方法に付いても専門家から意見が寄せられている。

    瓦は、多孔質なので、表面を流しただけでは塩分が中に残ります。ビニールプールのようなものに水を張り、どぶづけする必要があります。泥をとり、できれば水は3回くらいは替えたあと、また流水で洗ってほしいです。塩分量も全数でなくていいので、測りたいところです。(権上かおる・アグネ技術センター)

    このことも検討する必要がある。
    そんなこんなで一日早く東京へ戻ることに。熊谷を過ぎたあたりで新幹線フリーズ。
    余震で停電、そろそろ日も暮れる。あーあ。幸田露伴ではないが、『待つということは待つということだ」。
    前の席の人が握手を求めてきた。「森まゆみさんでしょう。よく読んでいますよ。しみじみと」。こんなときは嬉しいものである。
    運のいいことに新幹線は20分遅れで走り出す。車内アナウンスも落ち着いて的確だった。これもJR東日本。
    3号車を喫煙車にして、なおかつ車内を無線LANにしている JR東海よりも、全席禁煙のJR東日本はずっと好きだ。

    森まゆみ(2011年4月12日)


    ●震災日録4月9日 森まゆみ

    4月9日 めげない社長がんばる

    石巻の熊谷産業、熊谷秋雄さんが東京に来て寄ってくれました。彼は旧北上町で北上川河口に生える葦を刈って全国の文化財の屋根を葺いています。友だちです。

    「震災のときは東京で打ち合せをしていました。東北で大きな地震が起きたと知ってすぐに取って返しました。家族も従業員もさいわい無事でしたが、家も会社も流され、いまは小さなプレハブを建ててそこに寝泊まりしています。従業員は近くの追分温泉で泊めていただいています。
    追分温泉さんは震災後、商売なんて言っているときではない、と宿そのまま避難所にしてくれました。温泉付きで助かっています。
    アルバムも着るものもみんな流され、残っているのはフィリピンで買ったこのバッグとレーガシーの車だけ。帰ったら娘が「あ、車が帰って来た」と喜んで、私が帰ったのより喜んでた。
    妻と子どもは妻の実家に、両親は叔父の家に避難しています。水道は澤の水で、ガスはプロパンだから不便はなかった。電気がないから冷凍庫のなかにあったあわびとか、どんどん食っちゃおうと、豪儀なもんでした(笑)。

    海辺の古い駐在所を買って、森さんにもきてもらったでしょ。あれも流されて、両隣や裏のうちの人もなくなられたので、妻は落ち込んでいます。
    堤防をチリ津波のあとかなりかさ上げしたので、大丈夫だろうと逃げなかったんですね。堤防で津波が防げると言う考えはまちがいです。すぐ逃げることです。
    うちは従業員は河口でかやを機械で刈っていたんですが、日頃から訓練しているのでみんなすぐ逃げました」

    一緒にきた従業員のアブラカさんはモンゴル人。地震のあと、すぐ川から上がって逃げたという。一回目の津波のあと、ざーっと水が引いて、そのあとまたものすごい波が襲ってきた。
    また対岸の大川小学校で7割近い子どもがなくなったことも熊谷さんから18日くらいに聞いていたが、なかなか報じられなかった。

    「学校が避難場所になっていたくらいなので、まさか波が来るとは思わなかったのでしょう。津波がきたのは30分後くらいだけど、助かったのは車で迎えにいった人の子です。知り合いは子供を乗せて帰る途中、後を振り向いたらあと3台しか見えなかったと。その後ろは波だった。
    実の親か祖父母でないと子どもを渡さなかったらしいですね。マスコミがあとから来てランドセルなんか写すのはどうかと思います。助かった子どもの心も傷ついていますから」

    「石巻市はまだ罹災証明も出せていません。合併の悪い影響で、役所は混乱しています。証明がもらえないと、義援金や復興資金ももらえないし、ものすごいやることがのろいんです。うちも印鑑まで流されたので、知恵を働かせ、隣りの小さな自治体に住民票を移し、印鑑証明をもらいました。
    あと、仮設住宅と言うのはやめたいな。プレハブ屋さんはもうかるけど、また2年後には膨大なゴミがでるだけですよ。それより全国の林業家の協力でこれからながく住める家を1500万くらいで建てた方がいいと思います。それをするにも罹災証明が出ないと。まあ、まえよりいいのをつくりますから」とどこまでもめげない社長である。

    熊谷さんは茅葺きだけではなく、今回、赤煉瓦の東京駅の屋根の修復に関わっていた。

    前回の修復のときの宮城の登米のものがほとんど。その瓦をていねいにはがして、北上に運び、使えるものを選んで、汚れを取り、また東京へ運ぶという直前にこの震災だった。しかしJR東日本と施工会社は工事が遅れるとして、スペイン産のスレートを発注する予定だという。「きれいに洗えば全部使えるのになあ」と残念そう。

    そもそも東京駅は私も加わった「赤煉瓦の東京駅を愛する市民の会」の市民運動がなかったら残らなかった。これを残してくださったのは JR東日本の英断ではあり、当時の松田社長もいまの大塚会長も文化財には大変造詣のある方である。その保存運動の際、登米町や雄勝町からはたくさんの署名が集まった。それは「東京駅のスレートはうちのスレートで葺かれている」というのが土地の誇りであったからだ。

    スペイン産のスレートになってしまったらどんなに登米や雄勝のひとはがっくりするだろう。反対に津波にさらわれたスレートをみんなできれいにして東京駅にのせたらそれは東北の復興のシンボルになるだろう。

    熊谷社長はいう。

    「いま登米のスレートは取りつくして、雄勝も『雄勝天然スレート』しか残っていません。木村満さんが社長ですが、そこの工場も工場の地震で全壊しました。ここがなくなるとこれから日本の洋館を日本のスレートで葺けなくなる。薬師寺など寺社の瓦に願を書いて寄進することはよく行われていますが、東京駅の登米産スレート瓦に東北への応援や復興祈願を書いて寄進してもらえば、木村さんの会社の再建に協力でき、東北の人たちも元気が出ると思う」

    熊ちゃんの会社は?というと、「うちはいいんですよ。自分でなんとかしますから」とにこにこした。地震が起こって無一物になってからのほうがどんどん元気が湧いてくるという。無一物無尽蔵とはこのことか。
    JR東日本も新聞に新幹線を復旧するなどの一面広告を出しているが、そんなことに宣伝費を使うより、熊谷産業や雄勝のスレートを応援する方が、会社のイメージはずっとアップするとおもうけどなあ。

    ワシントンのジョルダン・サンドさんにおくったら「津波の被害は東京駅まで?」という返信がきた。そう意識することで、東京にいるわれわれも東北の受苦に心を通わせことができるのではないだろうか。

    熊谷産業(http://www.kayabukiyane.com)
    熊谷産業日記(http://blogs.yahoo.co.jp/akanef0118)

    森まゆみ(2011年4月9日)


    ●震災日録4月8日 森まゆみ

    4月8日

    きのう夜中にかなり長く揺れた。東北はM7・4。また道路も寸断された様子。

    インドは日本からの農作物を全面輸入禁止、韓国は放射能をおそれて浄水場にビニールシートをかけている。アジア各地で日本に留学した人たちが支援の輪を広げてくれている一方、日本政府や東電のまずい対応が不信をあおっている。原発のコストは安いというが、金でははかれないコストだ。

    今日は落ち着いて仕事をしたいが、10倍に増えたメールが入るたび気になって仕事にならず。いわき市の地域紙仲間『日々の新聞』安竜(ありゅう)さんから電話。

    「三陸と違って海際でないところも広く、うちは大丈夫でした。海のほうは大変な被害です。
    でも店もやっているし、生活もできています。ガソリンも普通に手に入ります。避難所には物資が過剰状態です。ただほしいものと集まるものが違って、お年寄りは賞味期限ギリギリの菓子パンをいくつももらったッて、といっています。炊き出しと温かいおかずが喜ばれています。
    地震だけなら復興に入れるのですが、原発が不気味ですね。

    これも風向きや天候次第ですが。でも34万人もいるので、みんな避難はもちろん無理。影響の大きい妊婦さんや乳幼児のいる方は心配です。放射能のことは考えないようにしよう、という風潮も高まって、「がんばろう、いわき」とかかけ声をかけたりして、なんかいやな感じになってきてます。いわきからはなれた人への非難もある。

    漁業者は打撃です。温泉は表向きは休業でも、原発協力業者さんは泊まって通っているようです。政府や東電も東京や福島市で会見をやっていますが、現場に来てやってくれといいたいです。とにかく情報が少なくて」ということだった。

    今日も安竜さんは地域をとびまわっている。

    いわきでは2010年11月にもプルサーマル発電による運転に対する反対集会が行われ、3月27日にも前知事佐藤栄佐久さんなどを招いてまさに「ふくしま原発40年──私たちの未来」が行われるところであった。(いまの知事佐藤雄平氏はプルサーマル推進派。なんせ福島・宮城は佐藤さんだらけです)。このイベントは中止。

    私は以前、佐藤栄佐久前知事に文化政策について1回だけヒヤリングを受けたことがある。穏やかでえばらない印象の方だった。しかしその後、収賄容疑で逮捕され、知事を辞めた。収賄額は〇円で、原発に抵抗する知事を陥れるための「国家の陰謀」ではなかったかとする見方も強い。

    週刊朝日によれば、もともとは原発推進の立場だったが、チェルノブイリ事故の後に知事に就任、福島原発での事故隠しなどに多くの内部告発があり、それを知事が糺しても経産省はまったく反応なし。原発政策については県や市町村には何の発言権もなく情報も来ない。内部告発は保安院に対してもあったが保安院は何の調査もせず告発内容を東電に横流し。経産省大臣すら蚊帳の外におかれ、官僚と電力会社集団でしきっている、とのこと。
    佐藤栄佐久・前福島県知事が告発「国民を欺いた国の責任をただせ」(週刊朝日 2011.3.30)
    筆者:佐藤栄佐久 公式サイト(http://eisaku-sato.jp/blg/)

    これを伝えた『週刊朝日』の編集長が今度は配置転換、一体どうなって いるのか。

    今日は福島について「フクシマ人」として書いてみました。丸森に行くときは新幹線を福島で降り、飯坂温泉や土湯温泉に寄ったりしていたのになあ。果物がとにかくおいしいところです。

    夜、白山のジャズ喫茶『映画館』でスタンリー・クレーマー監督のアメリカ映画『渚にて』を見る会あり。
    いま見ると、怖くて震える。冷戦の中で1954年、第三次大戦が勃発、核による放射能汚染で北半球は壊滅状態、オーストリアのメルボルンにしか人間は生存していない。アメリカ軍の原子力潜水艦はグレゴリー・ペック演ずるタワーズ船長以下、メルボルンに到着、しかしシアトル辺から無線を受信、そのむちゃくちゃな打ち方から子どもが生存しているのではないか、と救出に向うがーー。

    終わっても声なし。ガソリンがないため交通は馬車と自転車になる。これいいかも。さいごに船長の恋人モイラが潜水艦を見送るシーンは松浦佐用姫そっくり。

    たまたまコーヒーを飲みにきた韓国人留学生は「日本文学研究の大学院に受かったので私は日本に着いたばかりです。でも両親はいま日本に行くなんてと発狂しそうだった」とのこと。

    森まゆみ(2011年4月9日)


    ●震災日録4月7日 森まゆみ

    4月7日

    冷蔵庫にある食べ物を出すとき、これは『フクシマ』前だ、これは『フクシマ』後だと選別している自分に気付く。2月末に丸森を退出するときに取ってきたフキノトウがなぜかまだ元気。フクシマ前なので、きざんで味噌汁に入れる。春の香り、でも依然寒い。

    募金したいけどどこにしたらいいと思う? と聞いてくる人が何人もいる。赤十字や赤い羽根という選択肢しか見えないらしいが、大きな組織はかなりの部分事務や人件費にとられちゃうよ、できるだけ小さくて信用できるNGOを選んだ方がいい、という。
    お金はけっこう集まったらしいが、まだ被災者には届いていないそうだ。阪神淡路のときもしかり、集めるのはともかく配分が遅くてへた。
    被災地に入ったマレーシアの人がいっていたが、集積所にはものすごくある、おおきな避難所にもけっこうある、でも小さな避難所や避難していない人のところには物資が届いていない、と。
    ならユニクロみたいに寒い被災地で一番必要なヒートテックを何万枚と自主ルートで現物支給した方がいいような。足長育英基金や日本財団の動きは速い。日本財団はさすが船舶振興会だけに破損した船のためなら無利子で1億円融資するという。

    原発隠しのようなほのぼのニュースとして、中高生が街角で募金している姿がよく流れる。息子曰く、「人の金をあてにするくらいなら自分でアルバイトするとか、お年玉出したりする方がいいのにな」。一理あると思う。
    マレーシアの人は自国で日本人が受け入れられそうな品を集めてきたのに、持っていくとマレーシアからきた水なんか飲めない、といわれたり、物資もこれはいらない、あれはほしいといわれた、とガッカリしているようであった。
    たしかに政府や東電があれだけ混乱しているのだから、被災地の小さな自治体の職員も混乱しているのであろう。でもでも、せっかく来てくれた海外の応援団に良くない印象を与えたくない。

    丸森旗巻峠の友人ようこさんから。

    「こんにちわ。メールありがとうございます。
    泣いたり笑ったり、怒ったりで、元気でやっておりました。

    家も人も、たらふくコンビも無事なのに、原発のせいで、いろいろ不安で。
    何にもできず、手につかず、情けない状態。あっという間に3週間。
    緊張感が続いて、ここ数日ちょっとヘロヘロになっていました。

    電話機が故障し、通信手段が携帯電話のメールのみ。
    なんとか22日くらいに陸の(青葉部落内の)孤島から脱出。
    ADSLの故障は29日に解消しまして、初めて被災地の映像をみて、脳みそがフリーズして、現実逃避。

    ジタバタしても仕方がないですよね。
    今、ここでできることをするしかない、です。割り切って。
    冷静に、情報をキャッチして、今後のこと(畑とか、生活全体)を考えようと少しだけ前向きになりつつあるところです。

    2011 0313 011 何も知らずに、外で日光浴 (被曝した??)
    2011 0313 016 断水で、川へ水を汲みに行く
    2011 0315 001 灯油、プロパンガス温存の為、外で炊き出し。(何も知らずに。。。)
    2011 0331 015 昨日の旗巻の夕焼けに燃える杉林

    くじけず、凹まず、張り切りすぎず。。。
    カンちゃんと支えあい、お互いに寄りかかりあって、ぼちぼちやっていきます。。。
    森まゆさんも、お体、無理せずに。。。」(4・1)

    森まゆみ(2011年4月8日)


    ●震災日録4月6日 森まゆみ

    4月6日

    蔵でみた『ドキュメント・チェルノブイリ』が忘れられない。高木仁三郎さんの遺言というべき作品で、映像ドキュメントの荒川、吉川さんらが20年以上前に作成した。
    だいたいあのチェルノブイリの爆発のあと、作業員らがあんな軽装で後始末に当たったと言うのが信じられない。それをよくまた映像に撮ったものだ。撮った人は被曝でなくなられたとか。

    福島の事故以来、世界が前と違って見える。その前には決して戻れない。
    ベラルーシのジャーナリスト、アレクシェーヴィッチは事故以降に生まれた人を「チェルノブイリ人」と名付けたが、私たちはみな「フクシマ人」となった。

    東京電力は汚染水を垂れ流し、海を汚しつづけている。その映像は3月14日に九州水俣で見たチッソの排水溝とそっくりだ。
    通常の100万倍の放射能が10万倍の間違いだと訂正されてあきれていたら、きょうは1億倍という数字がでてきて絶句。それでも「毎日食べつづけても年に0.6ミリシーベルト、ただちに健康に影響はでない」といういつもの話。
    全漁連の服部会長が「原発には協力できない。やめるべきだ」と怒るのも当たり前だ。東京電力側は「迷惑をかけて申しわけありません」といいながら、どんどん垂れ流す。「悪いわねえ」といいながらばさばさ殺しているおもむき。

    汚染度が増す割合と反比例して、テレビで震災や原発事故についてふれる時間は減ってきている。放水車も写さないし、ロボットや口径の大きなホースや、一度鳴り物入りで紹介していたのにどうなったの? 続報がない。
    もう地デジになったらテレビはやめにして視聴料を返してもらおう。

    丸森の隣町、角田の米農家、面川さんの大学生の息子常義さんが書いていること。
    面川さんは有機でおいしい米を作っているのです。明学の猪瀬さんの転送メールから一部を引きます。

    「今感じているのは、メディアの情報があまりにも偏りがあること。被災地でよく取り上げられているのは、気仙沼、石巻、陸前高田など、みな北部ばかりで、角田の隣町で同じく津波の被害が大きかった亘理、山元という南部の街の名前は一向に出てこない。
    街や住民の状況や復興が進んでいるかなど、いずれの情報もわからない。家は朝日新聞をとっているが、毎日毎日、亘理、山元の名前を紙面で探すが、いつになってもその名前は出てこない。同じく津波の被害にあったのに、街は北部の被災地と同じく大きな被害にあっているというのに。

    この間、父と一緒にその亘理まで被害状況を確認しに行った。
    海沿いの街は、以前の面影が残らないほど無残に消えてなくなっていた。海沿いに近づくにつれ視界が開けてきて、周囲にあったであろう建物は、空爆があった跡のような瓦礫に変わっていた。そして、無造作に打上げられた車や船がその被害の大きさをより際出させた。その光景を目にしたとき、声も出ずにただ眺めることしかできなかった。

    それから数日後、亘理の現状を目の当たりにして、何もできない自分に不甲斐なさを感じ、その気持を抱えながらトラクターで田おこしを行っていると、ラジオから亘理のいちご農家からのメッセージが読まれた。
    県内有数のいちごの産地だった亘理だが、この津波の被害で95パーセントのいちご農家が被害にあい、亘理のいちごブランドが壊滅の危機にひんしているという。農家自体の高齢化も相まって、今後の再建は難しいと話していた。
    でもその人のハウスは無事で、亘理のいちごを廃れさせないように、被災者に配ったり、出荷も再開している。
    亘理のいちごをこれからも残すため頑張っているという話を聞き、同じ農業を志す者としてものすごい勇気をもらった。

    だが、そのような情報も一向に大手メディアでは語られずに、忘れされている。南部の情報はみな原発にかき消され、紙面に載ることはない。ただ政府からの情報をそのまま載せるだけで、助けを求めている人の声や被災に遭い、それでも立ち上がろうとしている人たちの希望の光すら原発問題の前に忘れされている。それを容認しているメディアに対して苛立ちを覚えている。
    そして何もできない自分が情けなくなった。その悔しさを噛み締めながら、それでも角田で以前と変わらず田んぼを耕せるありがたさ、日常を送れる喜びを感じながら畑に通っている。それでも隣町になにかできないかと考えながら」

    わたしも同感です。宮城県南部に何かできないか。いま考えています。もちろん、「原発をまずどうにかしないと被災地の復興を手伝う人もいなくなってしまう」とデモの参加者の意見も正論ではあるのだけど。

    森まゆみ(2011年4月7日)


    ●震災日録4月5日 森まゆみ

    震災日録4月5日

    窓を開けなくなって久しい。ベランダの水やりをしようと思って、開けたらカイドウの花が咲いていた。水もろくにあげないのに、けなげに。ごめんね、と声をかけた。桜は咲く。しかし底冷えのする春である。いつになっても寒い春。心が冷えているからか。

    丸森の友人が、すばらしい夕焼けの写真を送ってきた。こんなに晴れて、こんなに世界は美しいのに。(放射能は目に見えない)。別の知人は田植えの時期、種もみの準備をしながら涙をこぼしたという。
    一生懸命、農家をやっている人ほど今回のことがこたえないはずはない。愛する大地を捨てて逃げるわけにもいかない。港や船をどうにか復興しようとしている人々に、プルトニウムの流出はどんなにショックだろう。

    そうでなくても2、3%しかいない農民ががんばってくれているからこそ、私たちは新鮮な野菜やおいしい米が食べられるのである。彼等がやる気をなくしてしまったら、私たちは食べ物がなくなる。
    安い中国野菜が入ってくるから大丈夫、といった妄言を許すわけにはいかない。遠くでできたものがどのくらい信頼できるのか。農薬や化学肥料で育った中国野菜と放射能を含む自国の野菜とどっちを取るのか。よくわからないけど。

    関東の野菜をどうにか町で売れないか、と相談にきた人がいた。そこの県も品目によって出荷停止である。
    その品目以外なら私は食べてもいいけれど、たくさん仕入れて他の人にまですすめ、売り切る自信はなかった。福島の野菜を買って応援したいと思ってもスーパ−や小売店には並んでいない。卸のところで仕入れされないからだろう。

    風評被害というけれど、放射能が降っているのは事実であり、野菜が汚染されているのも事実なのである。
    政府やNHKが正確な数値も明らかにせず『安全』「健康に問題はない」というから、消費者はますます疑ってしまう。自分で表を読む努力もしないといけない。これから死ぬまで放射能とはお付き合いがつづく。だから物理13点の私もこのところお勉強中。
    食品の放射性物質検査について(http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r98520000016nd7-img/2r98520000017246.pdf)

    「原子力は安全」にだまされたからもう政府の安全宣伝は誰も信じないのだ。
    それは科学でなくて、安全神話という宗教だった。原発は『事故を起こすまでは安全」だそうだ。
    「想定外」どころか、福島では共産党県議団が再三、津波が事故につながる可能性を申し入れたが無視された。地震学者も今日の事態を予想していた。
    発信箱:すべて想定されていた=福岡賢正(毎日新聞 2011.3.29)
    http://mainichi.jp/select/opinion/hasshinbako/news/20110329ddm004070015000c.html

    それみたことかとはいえない。自分も油断していたから。松島湾で釣りをするとき、「いま女川で事故が起こったら一発だね」なんていったり、相馬から常磐線で帰るときも、福島や東海村を通る時にひやっとしたりしたが、それ以上、行動しなかった。事故が起きたからみんな行動をはじめた。核と人間は共存できない。

    原発を承認、時に誘致した自治体があるからこそ原発はできる。まずは地方議会で受け入れ反対、即時停止の決議をあげていくべきであろう。

    鹿児島県川内では

    川内原発:増設反対申し入れ/鹿児島(毎日新聞 2011.3.29 地方版)
    http://mainichi.jp/area/kagoshima/news/20110329ddlk46040768000c.html

    東海地震の予想される浜岡については

    浜岡原発の停止 集会開き訴える(朝日新聞 2011.4.4 愛知版)
    http://mytown.asahi.com/aichi/news.php?k_id=24000001104040003
    浜岡原発すぐ止めて!4・10東京集会&デモ
    http://fukurou.txt-nifty.com/fukurou/2011/04/post-e53b.html

    大阪では

    周辺住民の避難拡大! 脱原発への転換を!4・9緊急大阪集会
    http://www.greenaction-japan.org/modules/wordpress/index.php?p=481

    京都でも

    4月3日原発をとめろ! 核事故の真相を明かせ! こどもを救え! ピースウォーク京都
    http://pwkyoto.com/
    反原発訴え「今こそ行動」京で500人デモ行進(京都新聞 2011.4.3)
    http://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20110403000112

    わが谷根千では4月8日夜、白山ジャズ喫茶映画館で「アトミック・シ ネマ」
    スタンリー・クレーマー監督『渚にて』1959年
    映画館(http://www6.ocn.ne.jp/~eigakan/)

    チェルノブイリ後に汚染地で生まれた少年はいった。「かくれるところなんかないんだから。勇気をもたなくては」
    そのとおり。原発のない沖縄に逃げる人もいる。しかし米軍機事故や米兵のおこす交通事故、レイプと危険は多い。狭い日本、かくれるとこ探してどこへ行く。

    森まゆみ(2011年4月5日)


    ●震災日録4月3日夜 森まゆみ

    4月3日

    今日は平凡な一日にしたい。

    ブータンの王様は8000万円、義援金を送ってきた。経済的に見れば最貧国なので大変な額だ。
    私は5年前ブータンに行った。彼らは GNPでなくGNH(国民総幸福量)という指標を使っている。金があり、便利で、ぜいたくができても心貧しく、不幸せなひとも多い。足ることを知り、居心地のいい場所とやりがいのある仕事と友だちがいる、それで満足したい。若い人たちがそんな風に生きられる手助けをしたい。

    八ッ場ダムはこれからも反対したい。政府や東京電力は水力発電のために必要だと言い出すだろうが、あれはもともと首都圏の洪水調節のために計画されたもので、必要性をでっちあげるために、後でごく少量の水力発電を後からこじつけてきたもの。

    町中に張り巡らされた電線。その醜い景観もさることながら、こんなに電線があっていいのか。
    たしかに皇居周辺とか外国人のよく来るところはどんどん地中化されているが(地中化がいいとも思わないけど)病気をしてから耳鳴り、頭痛がひどく電磁波の勉強をした。町中に住民に知らされることなくNTTの携帯基地がつけられている。放射能も危険だが、電磁波だってかずかずの障害を引き起こす。癌も含めて。
    杉並のゴミ焼却所の近くに家を買ってしまった知人はそのことを気に病んでいたが、ローンもあって移転できなかった。そして結局癌で死んでしまった。危ないと思ったら自主判断で逃げるに限る。

    午後3時から蔵で「アトミック・カフェ」ならぬ「ニュークリア・シネマ」。
    原爆と原爆に関する映画など。『ドキュメント・チェルノブイリ』(1988年)高木仁三郎解説。いままさに同じことがこの国で起こっている。チェルノブイリは、ソ連という強権国家でソ連軍の決死隊が中に入って危険な作業をした。福島では民主主義日本は自衛隊に『中に入ッて止めろ』とは言えないのだから、やはりこんな制御不可能な危険な原発を許容すべきではない。

    モクレンがそろそろ終わり、白い花は波にさらわれた一人一人に見える。

    森まゆみ(2011年4月3日)


    ●震災日録4月3日 森まゆみ

    4月3日

    大阪大学鷲田清一総長の卒業式式辞には励まされた。
    被災者と被災者でないもののどうしようもない『隔たり』。そのなかで控えめに、普段通りの生活をすることの大切さ。「ここにいるよ」ということ。いつでも替わってあげられるように控えていること。リーダーにならずときにフォロアーに徹すること。
    松下幸之助氏がいったリーダーに必要な3つの条件とは意外にも『愛敬』『運が強そうなこと』『後ろ姿』。そして梅棹忠夫さんのいう「いざというときに差し舞えること」。印象的な引用をしながら,これほどの品格の演説をなさるとは。

    第2回おにぎり握り隊・支援報告(山崎範子より)

    4月2日の「光源寺おにぎりにぎり隊&物資仕分け隊」、前日準備から最後の搬送、お掃除までのお手伝い、ありがとうございました。
    65名の方に来ていただき、午後4時までに下記の物資が用意できました。

    ◎大塚モスク経由で届けられるもの
    おにぎり 1220個(米60キロ)
    その他食料(ミカン・イチゴ・米・しょうゆ・油・インスタント食品など) 13箱
    靴 7箱
    衣類(下着・靴下・子供用洋服など)12箱
    マスク(50枚入り×40箱) 5箱
    *おにぎり、牛乳、果物に食料を乗せるだけ持って、昨晩のうちに仙台に向けて出発しました。
    *今日のいわきには下着が足りないので下着をすべてとその他の食料、靴なども車2台で運ぶ予定です。

    ◎NPOパレスチナ子どものキャンペーン経由で届けられるもの
    絵本・マンガ 4箱
    おもちゃ(ぬいぐるみも)2箱
    文具(紙芝居も)1箱
    この募集の詳細はこちらです。http://ameblo.jp/ccp-tohoku/
    4月5日まで募集しています。直接送付される方は詳細をお読みください。

    ◎3月26日&4月2日にいただいた義捐金
    光源寺さん経由で、あるいはおにぎりにぎり隊の方々に持ってきていただいた義捐金 248,000円
    バンバンバザールさん経由でいただいたマスクの売上 24,800円

    被災地での支援の報告は、届き次第お知らせします。
    要請があれば、来週土曜日も光源寺さんをお借りして、支援の一端を担います。よろしくお願いします。
    山崎範子 noriko@yanesen.com

    丸森の友人からのメール

    「今日、仕事で山元町に行ってきました。
    テレビや新聞で被災地の様子を見ることはできますが、実際に自分の目で見ると、その凄まじい状況にあぜんとしてしまいます。
    普段は見えない所からでも、海が見えました。

    まゆみさんも、もう少し落ち着いたら、ぜひお出で下さい。目で見て、この状況を書いて下さい。どうやって、避難したか、脱出したか、どう死んだか。みんな、話したい、聴いて欲しい、と思ってます」

    もう少ししたら、避難所などお訪ねして、お話し相手になれればと思います。

    森まゆみ(2011年4月3日)


    ●震災日録4月2日夜 森まゆみ

    4月2日夜の部

    首相が復興計画について発表した。高台に町を作り、海際の漁港や田畑にはかよう、という。福祉の町作りをすすめたい、とも。全体像わからず。
    震災以来、漂流していた犬が救助された。何を食べて行きていたんだろう。
    東北・関東大震災が東日本大震災と呼称が変わった。

    昨日、地域の理科系の友人たちと飲みながら聞いたこと。
    東大では原子力研究をしたい人が近年少なく、「環境」とコース名に付けた。しかし脱原発するためにも、これから永劫に原子力の専門家は必要になってくる。ドイツが原発をとめたけど、それは隣りのフランスから原発電力を買えるから。アレバのCEOとサルコジが来日したのは善意でなく商売ではないか。山の中に原発を造ることはできない。冷却水がないんだから。ガイガーカウンターは売り切れ。レントゲン検査よりずっと微量、という発表で検査を怖がる人が出れば、癌の発見など遅れる。経済は悪くなると言うが、復興景気で土建業界はよくなるのでは。『東電社長はどうしているの』『計画入院」『副社長も出てこなくなった』『輪番会見』と、じょうだんでもいっていないとやっていられない、まさに「アスピリン・エイジ」。帰ってひさしぶり頭痛薬を飲んで寝た。

    水についてはペットボトルの水を使ったり水道水を使ったり、イイカゲン。なんと1年前にいただいた神戸ウォーターが30リットルも放置してあったのだ。

    宮城県で放射能値を測定していなかったとの件、池田佳代子さんのブログにもあった。
    丸森からは情報が知りたい、というが、震災でパソコンが壊れたり,携帯が壊れたりしてよその家に送って、という人もいる。東京にいるとむしろあふれかえる情報に嫌気が差すが(本ブログもそのひとつかも)、まったくなくて苦しむ人もいる。
    その転送先になった方からのメール

    「私は 今、安置所の当番があります。(亘理と山元で見つかった方の安置所です)
    子供が4人 まだ引き取り手が見つからず・・・・すでに2週間たつのに。
    大人は3桁の方がまだ引き取り手が見つかっていません。
    安置所にいると・・・親族が見つかって泣く方 見つからなくて泣く方・・・
    とても辛い空間です。
    日常が 普通の日常に戻る日が 待ち遠しい日々です」(29日)

    おっと地域の大事なことも書いておかなくては。下宿本郷館は長年、壊すのは時間の問題、と言われてきたが、今また危機。坂の途中、石垣は別の人のものらしく、壊してマンション建ててもワンルーム、今のまま耐震補強してシェアハウスにでもした方がいいと思う。
    関東大震災にも今回の地震にもびくともしなかった。
    阪神淡路のあと、耐震性に問題がある、と文化財を壊すのに「地震」が使われた。今回もそれに注意しなければならない。

    谷中コミュニティセンターも建て替えになるらしいが、長年の経緯を知っている建築家が地域内にいっぱいいるのに、区は単なる競争入札で安いところにおとすつもりらしい。そういう経済優先のやり方の転換点だというのに。今のセンターをつくるとき、100回以上の住民参加の会がもたれた。そんな経験も生かされない。

    大観音光源寺にて、『おにぎり握り隊」が今日も1220個のおにぎりを握った。
    根津の渡邊米店がお米を半額で、バンバンバザールさんはジュースや下着、マスクなどたくさんの品物を寄付や原価でわけてくれた。それを大塚モスクの方たちが被災地へ届ける。赤ちゃんを背負った方、子連れの方、子供たちもみんなテキパキと働いた。
    「義援金だけでは実感がない。こうして握ると気持ちが落ち着く」という人も。

    森まゆみ(2011年4月3日)


    ●震災日録4月2日 森まゆみ

    震災日録4月2日

    3月27日の銀座デモでは、警官から「あぶない」『車を通して下さい』といった制止にあいながら、後ろ向きに歩きながら、写しながら、インタビューもした。道は車のものでなく人間のものなのに、と腹が立った。『映像ドキュメント』と入れれば観られます。そこで聞いた意見をまとめておきます。

    *チェルノブイリから20年反原発でがんばってきたのに、この数年油断していたと思う。F

    *さんざん活動してきて今さらという感じだけど、しょうがないから来ました。M

    *細かいことはわからないけど、怖いから参加した。M

    *危険だなんてわかりきったこと。この期におよんで原発をとめないなんて東電もいい度胸しているよね。M

    *子供たちにつけをまわすのはやめてほしい。小さいほど影響が多いんだから。M

    *思ったとおりのことが起こり、口惜しくて外へも出られなかったけど、いまやっとみんなと一緒に声を上げることができた。F

    *言ったとおりじゃない。40年前から言ってきたので、想定外などとは言わせない。
    代々木公園に何万も集まって『まだ間に合うのなら』と思ったけど、あのあとしゅーんとしてしまった。
    原発は温暖化を防ぐクリーンなエネルギーだというブラックジョークが広まりすぎて、おそれていた以上のことが起こっている。今この時点でも情報開示がなされていないのは腹立たしい。
    しかし市民メディアが成熟しているのが唯一の希望。F

    *柏崎とかいろんなところで事故が起こったのに、老朽化した福島をとめられなかったのが口惜しい。今は歩くだけです。F

    *東電が許せない。F

    *腹立たしいの一言。国にも、電力会社にも、それを許した自分にも。M

    *いま赤ちゃん2人を取り上げてきたところ。助産婦なんで。あかちゃんこそ希望なのに。こんな時代に生まれて来てくれて、ありがとうとしかいえない。F

    *妊婦です。食べ物にいつも異常に気をつけています。仕事もあるので逃げるわけにもいかないし。F

    *福島からの電気を享受してきた自分が許せない。M

    *原発は必要ない。風力や水力でじゅうぶんやれると思う。私はアメリカ人ですが、オバマ政権だって電力会社と結びついて原発を推進している。でもアメリカのほうが日本のメディアよりはまし、枝野官房長官の発表も、何も言わなくてひどい。M

    *家族で来ました。本当のことを言ってください。子どもは影響を受けやすいので。
    メディアは嘘はついていないとしても言うべきことを言っていない。周りのひとが危機感を持っていないので自分たちが異端者のように感じる。M

    *水が飲みたい。給食も食べたい。小学生

    *怖くて少し京都に避難していました。このままうまく収束したとしても、今脱原発に方向転換しないかぎり、もう日本に安心して住んではいられない、F

    *原発には反対です。他の自然エネルギーとかに転換すべき。今のNHKの報道は国や東電の言うことを伝えるだけ。よくなっているのか、悪くなっているのか、どのくらいがまんすればいいのか、まったく言わない。当面は人体に影響はない、というけどそのうちどのくらいの影響が出てくるかわからない。
    経済が悪くなるというけど、その前にこどもがいなくなったらどうするの。F

    *だまって原発が死んでくれるのを待っているしかない。スリーマイルを越えてチェルノブイリ化しているのではないか。
    被災地の皆さんには悪いが、救援活動のテレビなどは見ていない。原発が決着しないと、救援すべき人たちもいなくなってしまうから。M

    *原発を推進してきた自民党の政治家、東電のOBなどにホースを持たせて排水処理などをやらせたい。防護服くらい着せてもいいから。M

    *わたしはコストパフォーマンスなどの点で原発容認派ですが、今の事態は安全とばかり言っていておかしい。アンチテーゼとしてこういうデモも必要。M

    *反原発を言う団体もばらばらで,もう少し横の連携をつけて情報を出してほしい。F

    *東京電力は情報隠しが多い。今の報道はまったくうそだと思う。M

    *ずっと反対してきたのに。チェルノブイリのころ,子育て中で、子連れで参加した。
    こうなるのはわかっていたが、55基のどこでいつ起きるのかはわからなかった。F

    *あまりにも無関心すぎた。無知すぎた。東電ッてがっかりだね。これから無力感が続くことが怖いから、今日は参加した。M

    *しかたがないです。どうしようもない。長引くでしょう。デモをしても空しい。もう終わりだと思う。M

    *今考えているのは、自分はこれからどうしたらいいかということ。毎日それを鬱々と考えている。M

    *福島でこんなことが起こったんだから、ほかの老朽化原発、敦賀とか、すぐとめなくては。東海地震を考えると浜岡もとめるべき。M

    次ぎの反原発デモは4月10日に行われます。自分も行きたかったのに、という人多数情報をお見逃しなきよう。

    4月3日(日)午後3時。谷根千・記憶の蔵で『ニュークリア・シネマ』の映画会あり。
    『ドキュメント・チェルノブイリ』ほか。先着30人まで。探してきてください。

    森まゆみ(2011年4月2日)


    ●震災日録 31日 森まゆみ

    震災日録31日

    『即興詩人のイタリア』文庫本の校正。こういうときほど、落ち着いて仕事をしよう。仕事は慰め。きのう、内沢さんと話したことだけど、こんなとき、作家は何ができるのか。
    明治の文学史の本など、いま出しても売れるのかなあ、とも思う。反対に震災でやることがなくなった人も増え、不安を沈めるために本は売れ行きが落ちていないと言う。

    石巻市大川小学校に関する記事はネットによれば、河北新報は早くから取り上げているし、このところ全国紙にも上がってきた。正確には108人中21人死亡、行方不明56人とのこと。考えるだけで気が萎える。学校は河口から5キロも離れ,避難所にもなっていたという。
    早速ネットで『人災だ』『校長は何をしてたんだ』『すぐそばに裏山があるじゃないか』といった書き込みがされているが、自分は安全なところにいて人を避難するだけの連中には腹が立つ。
    海外や沖縄にいて原発のひどく悲観的な警告を書きつづっているブログなども気分よくない。

    『正しく不安を持つこと』は必要だが、いま原発の状況は言われていることのもっとも楽観的なことと、もっとも悲観的なことのあいだのどこかにあるのだろう。これは桜井均さんの意見。

    謹んでご冥福をお祈りします。心より追悼の意を表します、といった企業広告その他の頭につく決まり文句もいやになってきた。企業という集合体が「こころより』と言えるのだろうか。心は一人一人の中にあるものではないか。『ご遺体』も引っかかる。こころのこもらない敬語だ。わたしも遺体という言葉がつかえず『なくなった方達が見つかった」という風にしか書けないけど。それにしても頻繁に使うからか、「し」と打つと『死』がすぐに出てくるようになってしまった。

    「23区が計画停電にならないのは許せない」という意見がある。その気持ちはわかるけど、たとえばうちの周りだけでも、東京大学、東京医科歯科、都立駒込病院、順天堂、日医大、日立病院、杏林病院、三井記念病院などあり、停電になるとこれらの病院の医療はストップしてしまう。
    御用学者のいるどこぞの研究室のコンピューターなんぞとまったっていいけどね。いや、こまる。東大原研もけっこうな量の危険物質を抱えているはずだ(浅野地区には放射性物質のマークや立ち入り禁止の看板が多い)。東大病院はかつて医療用のラジウム廃棄物を裏庭にぽんぽん捨てていた。
    そんなことについて谷根千で取材したり、説明を求めたりしたが、都も区も『東京大学が安全と言っているなら安全」という対応しかしなかった。文京区のわが地区の避難場所は東京大学である。しかしあそこには実験用動物もおり、細菌や科学薬品もいっぱいあるはず。その実態も公開されていない。関東大震災のときも科学教室から薬品が燃え上がり東洋一の図書館を始めかなり火災が広がった。だからわたしは谷中墓地に逃げるつもり。

    森まゆみ(2011年4月1日)


    ●震災日録 30日 森まゆみ

    震災日録 30日

    わたしは4年前に原田病にかかって,考えてみると病人継続中なのだった。
    しごとに加え,情報収集、連絡、そしてテレビの被災地の様子を見ると毎回、胸つぶれためいき、頭痛と耳鳴りがひどくなる。不眠気味。
    テレビはあかるいニュースや美談ばかり流している,と思っていたがこれで救われているのかも。お笑いも、こんなときに、と思ったが、これで救われる人もいるのかも。

    被災地に放射能レベルの情報を送っているが、「東北大学の先生がこのくらいなら大丈夫と言ったから、今は信じるしかない」というような返事で、のんびりしているのは美徳だが、心配になる。『正しく不安になること』も大事なのに。

    昼間、内沢旬子さんとランチ。なかなか東北にはボランティアが入りにくいらしい。
    神戸と比べて中越のときも大変だったとか。どうやって集落にとけ込むか、毎晩のようにボランティアが会議をしていたと聞く。確かに排他性が強く、集落をよそ者が歩いているだけで「あれはだれだ」という。
    Iターンのひとは「オウムではないか」という不信をなくすまで時間がかかった。行き交う車は誰かがすぐわかる。
    丸森でもその動体視力にはいつも驚かされた。『奥さんじゃない人を乗せてすれ違ったらまずいわね』とからかったりした。
    役場の職員に乗せてもらって、スーパーの前を通ったので、『あ、5分、待ってて、買物してくるから」といったら,「5時前にスーパーの前でとまっていたら何いわれるかわからないから勘弁して』と言われた。『ラーメンでも食べましょう』といったら「じゃ、隣町まで行きましょう」とのこと。
    この『世間』というもののために、出たくても出られない人がいるようだ。さっさと逃げたと言われるとあとで戻れない、とか。先祖伝来の田畑、かわいい牛も置いていけないとか。

    出版社の友人たちと話す。かりかりして仕事にならない人が多いという。「こういうときに馬脚をあらわす」「子どもがいたりして不安なのはわかるけど」。有休を取って遠くへ行ったひとのあとを、時給1000円のバイトががんばっていると言う。

    昨日中国の人が帰った話を書いた。そういうことを書くと、中国人への偏見を広めるかも知れない。ある研究者は,うちの留学生は帰っていない、と書いてきた。でも,働きにきた国が危ないからふるさとに帰るのはあたりまえではないかと思う。
    テレビによると東京にいたフランス人、6000人中2500人しか残っていない。ピーター・バラカンさんは大危機における日本人の自制心と助け合いに敬意を表しつつも、「自分で判断すべきときには判断する」という民主主義と個人主義の力が弱いのではないか、と述べていた。
    そのとおり、長いものにはまかれろで、原発を許してきた。『福島県民は東電を許さない』と言う人がいたが、双葉町は福島原発7、8号機の建設を陳情してきた。
    ここにも過疎自治体の財政や複雑な問題があるが、いまはとにかくとめること逃がすこと、が先決。

    ある海際はすっかり瓦礫が片付き、荒野になっていた。茫然とする風景。
    わたしは今回,東北と縁が深いのでかなり当事者感がある。前を知って居るからだ。
    でも知人でなくなったひとはいない。さいわい、と書くと死者に対して申しわけない。
    きのう友人の同僚の友人がなくなった話を聞いた。岩手で里帰り御産して、赤ちゃんとともに亡くなって発見された。「産まれて10日しか一諸にいられなかった」。涙はこぼれるが、こちらも心弱くなる。知っている宮城・福島に対して、縁の薄い岩手にはずっとリアリティが持てずにいる。『気持ちはわかります』と言ってはいけない。当事者にとっては「わかりっこない」なのである。

    新卒内定取り消しなどのニュースにもぎくっとする。「十八の春は泣かせない」という。
    別の会社はあらわれないか。松井秀喜選手が5000万義援金、これも普及効果あるだろう。日本財団は漁業者に1億円無償で貸す。船舶振興会だからだろうが、よかった。
    江戸川区にある福島県産のアンテナショップは支えたいという人で賑わっている。これも良いニュース。

    森まゆみ(2011年3月31日)


    ●震災日録 29日 森まゆみ

    震災日録 29日

    朝からむやみとしごと片付ける。医学書院の漢方のテープ起こし。『保険師ジャーナル』のエッセイを送る。お礼状2通、支払い一件。『世界』の記事の校正。昼、北海道新聞のインタビュー女性の記者がきた。千駄木在住とか。

    ドイツでは古い原発を十何基とめているのに、なぜ日本は危ない浜岡や敦賀を止めないのか。ドイツでは日本の原発事故で25万人のデモになっているのに、日曜日に1000人くらいしか集まらなかったのは残念。それでも初めてのデモ,意義はある。ドイツの選挙では緑の党が大勝した。次ぎの選挙には脱原発党を旗揚げしたいものだ。

    電磁波過敏症の友人は『空気が悪い』といって九州の温泉に脱出、一年くらいいられる家を探している。赤ちゃんが生まれたばかりの友人家族は京都に引っ越し。ホテル暮らしで情報をくれる作家の友人もいる。
    わたしも気のせいか、体調が悪い。のどが腫れてきた。少しどこかで休養したいが、サトコは東京、そのうえ、ヒロシも授業が始まるので帰ってくる。
    久しぶりに中国整体院に行くと、大忙し。中国人の先生は、怖がって帰っちゃったと言う。
    『僕も怖いよ』といいながら働くリン先生は、日本人の奥さんは北京へ行かせたとか。
    東京新聞の『放射線』というコラムのタイトルがなんだか気になる。手塚治虫はなんでアトムとかウランとか主人公に命名したのだろう。

    溜まり場に行くと『脱原発銀座デモ』の編集に追われていた。荒川さんの勇姿見てください。スローガン的な発言が多いなか、簡潔に今するべきことを述べていた。
    いま原発から20、30キロ圏の屋内退避から自主避難となった人たちがいる。畑が,牛が気になる。寝たきりの母を置いていけない,その気持ちはわかるが、赤ちゃん、子ども、どうぞどうぞ、遠くに行ってほしい。

    森まゆみ(2011年3月30日)


    ●震災日録 28日 森まゆみ

    28日、森まゆみ発

    昼すぎ丸森の妹真理ちゃんが立ち寄ってくれた。

    彼女は那須で揺れた。それから11日中に、封鎖前の東北道を走って丸森へ。途中かなり家が壊れていた。それから家を片付け、停電のなかで寝た。石油ストーブは一番弱くつけて、湯たんぽで寝た。
    被災地に湯たんぽを送りたい。那須の農業組合と東京で農業トラストはできないか、という相談。
    丸森からは下着と靴下が届いたという連絡あり。けっこう宅配便は速くつくようです。協力してくれたひとに感謝。

    しかし優先順位としては、まず福島原発20、30キロ圏の人たちを避難させること。双葉町や大熊町は逃げたが、南相馬は、あまり避難がうまくいっていない模様。
    原発を無害化すること、そのあとで今年の植え付けや農業収入のことを考えるしかないという結論。

    自分だけ逃げるわけに行かない、という共同体のちからが悪い方に働くのではないか、という話。
    妊婦さん、赤ちゃんや幼児のいる家庭は、どんどん逃げてください。
    東京も人口が少なくなっていた方が、いざというとき渋滞が起こらないので、また新幹線や飛行機の切符も取れなくなると思うので、今のうちに出るひとは罪の意識など感じずに出てください。

    森まゆみ(2011年3月28日)


    ●震災日録 27日 森まゆみ

    27日、森まゆみ発

    第二のふるさと丸森の測定値がやっと見つかりました。東北大学測定、役場前で3月21日には1.48マイクロシーベルト/毎時です。荒川さんの計算方法では、20日ちょっと同じようにさらされれば国の決めた容量を超えることになります。50キロ圏。

    12日のニュースで六ヶ所だかどこかの原子力関係の建屋で4人、作業員がなくなっていたように記憶しますが、あの続報はないのでしょうか?

    被災地からは『買い占めに走る東京が許せない』『電気を使っているのは東京の連中だ』といった書き込みが目立ちます。震災以来、わたしは野菜を600円買っただけです。家庭で使う電気の量は東北でも東京でもそんなに変わらないのになあ。
    わたしはアイロン、掃除機、皿洗い機は使っていません。あんな不便なものをなんで売っているんでしょう。去年はクーラーも使いませんでした。病気になって以来、電磁波が耳鳴りを呼ぶので。

    27日2時、東京で初めての反原発デモが行われ、京橋公園から東京電力前をとおって日比谷公園まで歩きました。
    妊婦さんや家族づれもいて、怒っているという人と、無力さを痛感しているというひとと二種類いるような感じでしたが、どちらも嫌がらずに発言してくれました。
    これもNHK ニュースでやったのかな?
    あさの『おはよう世界』ではやっていました。毎日見ていますが、けっこう大胆、率直です。外国のメディア経由で情報を得るとは。

    日比谷は寒くて風邪引いてきょうはダウンです。

    森まゆみ(2011年3月28日)


    ●震災日録 26日 森まゆみ

    森まゆみ発26日、日録

    4年間、畑を借りていた宮城県丸森町は被害軽微と思っていましたが、どっこい、そんな簡単なものではないことがわかりました。
    まず町民のなかで海際の山元町、新地町、相馬などに通勤していたひとに死者が出ています。葬式が行われているようです。

    南相馬町の老人施設から200人が筆甫の廃校になった中学校に避難してきました。災害地に避難民が来て、しかも介護を必要とする方達で受け入れに苦慮しています。
    何かできることはないか、というと下着と靴下が足りないとのこと、きょう焼け石に水かもしれませんが、大塚モスクと大観音光源寺の協力のもと、段ボール2つ分新品を送りました。

    壊滅に近い山元町、新地町などの施設に入っていた町民も丸森に戻ってきました。町外の施設からも認知症や寝たきりの方達も避難されています。東北全体で過疎地の老人の多いところに災害が発生、インフラのないなかで少ない若い人たちで介護や診察をしなければならない現状が見えてきました。

    以下、仙台在住で長年東北各地の町づくり、農業のあり方を考えつづけてこられた結城登美雄さんから電話で聞いた話をまとめます。

    神戸の震災を都市型だとすれば、今回は漁村型、海辺の町が襲われたと言っていい。
    阪神淡路は倒壊した建物と火災でなくなったが、東北・関東大震災では死者・行方不明者の9割が津波でさらわれている。

    久慈のちかくの野田町では220艘の漁船のうち使えるのは3艘のみ。
    気仙沼では漁船から油が流れ出して、大火災になった。
    仙台の荒浜はNHKのドキュメンタリー『イナサ』の舞台だったが、あれに登場した漁師も含め7人なくなった。
    石巻では茅葺きの熊谷産業の対岸の大川小学校で、83人中50何人なくなったが一切報道はされていない。

    日本の海岸線な3万5000キロ。5、6キロごとに漁村があり、12キロごとに漁港がある。その漁船の9割が被害にあった。電気はまだ来ていないし、携帯の充電もできないので,集落はいまなお孤立している。

    今回の特徴は、その漁民たちがもうもとに戻りたくない、恐い、と言っていること。補償金が出るとしても船の借金を返したら終わりにする、つまり廃業するしかないということ。そうすると日本人の魚の食べ物は入らなくなる。どうしたらやめないでもらえるか。
    (農業についても今2、3%の農民で39%の自給率。農民の70、80%は60代以降、10年後には農家はほとんど廃業して日本は食糧に苦しむ国になる)

    日本人は鮮魚を1年に5万5000円食べている。百人の都会生活者が6万円ずつだして一軒の漁業者を支える仕組み、そうすると600万の収入で漁業を続けられるのではないか。

    農業ではCSA(コミュニティ・サポーテッド・アグリカルチャー)を提案しているが、漁業においてもCSF (コミュニティ・サポーテド・フィッシェリー)を考える。かつて唐桑で『お魚クラブ』を組織したが、東京の小売でけっこう高くなるので,多少送料はかかっても,安く新鮮な魚を直接届けるシステムが,たとえば唐桑と谷根千とかでできないだろうか。

    ということでした。参考になると思い,書いて送ります。結城さんはパソコンもやらないので、自分の考えを伝えられればありがたいとのこと。

    森まゆみ(2011年3月27日)


    ●震災日録 25日 森まゆみ

    25日、森まゆみ発。

    山崎佳代子『解体ユーゴスラビア」という本がありました。
    ユーゴの内戦を一主婦の目で生活からとらえたものです。
    被災地はとりあえず屈強で経験豊かなNGOやジャーナリストに任せて、今の東京を記録しておくのもいいと思います。

    九州から帰ると羽田空港も節電、歩く舗道が止まっていた。
    三田線もエスカレーターは止まり、エレベーターだけ動いていた。電気も半分くらい。

    不要不急のものが売れない。お花屋さんでは、チュ−リップを10本400えん。ピンクのを買ったら黄色いの10本、おまけにくれました。

    サトコは町のお店でで牛乳をタダで配布していたので2本もらってきました。

    美容院は、いつもなら卒業式でかきいれどきなのにひまだって。結婚式も中止であがったり。

    白山の火風鼎は、つゆの材料(魚介類)が入らないのでつけ麺は休み。

    居酒屋みさきでは、水道水にヨウ素検出で水割りをどうつくるか、なやんでいた。

    千駄木の天米。お彼岸時は客が多いのに、少なくて困っている。さいわい材料は西のものが多い。市場はむしろ余り気味。築地までのオートバイのガソリンが心配。

    帰宅難民、文京区ッてホントに坂が多いわ。四ッ谷から千駄木まで歩いた人、紙が入らないので雑誌も大幅変更。茨城の印刷会社が止まり困っている。

    私の4月から始まるはずのY紙の連載も延期、いつになるかわからない。
    4月の講演も二つキャンセル。フリーはつらい。

    原田病の目には今くらいの光量の方がまぶしくなくてありがたい。白内障、緑内障の人たちにとってもいいはず。
    タクシーはリーマンショックで売り上げ半減、今はそのまた半分、暮らしていける売り上げじゃない。全部歩合制なので。

    荒川のこっちは真っ暗、足立区側は耿耿と電気、腹が立つ。埼玉在住者。
    林町東町会のはりがみ。『明るさに協力』、どういう意味だろう。

    千駄木小学生たちはオレンジ色の防災ずきんを被り、雪ん子みたいに集団下校。

    森 まゆみ(2011年3月25日)


    ●震災日録 24日 森まゆみ

    きのう、谷根千地区古書ほうろうで『昔日の客』の著者関口良雄さんをしのぶ息子さんの直人さんのコンサートがありました。雨にも関わらず55人参加、みんな不安ななか、集まる所を求めているのだと思いました。静かな歌を一諸に歌いました。

    丸森町は福島に陥没したような町なので原発50キロ圏で、ヒッポ地区では住民の避難が始まっているようです。
    『樅の木は残った』の舞台船岡のはとこは「森家はみな無事、しかし夫はいないし、姑がデイホームがなくて電気もつかない中介護が大変。食糧はとなり近所が助けてくれる。水は23日やっと出た、余震が大きくて恐くて風呂に入る気がしない」とのこと。
    角田の障害者施設虹の園は「みな無事、でも障害者雇用施設のピザハウスは山元町にあって流された」とのこと。
    仙台文学館は天井が崩落、再開のメドが立たず、館員の赤間さんは5歳時を山形の両親に預けて働いています。仙台−山形間のバスはあるようです。
    石巻の日本で唯一の茅葺き屋根の熊谷産業では『社員は無事、しかし社屋、家屋跡形なし。対岸の小学校100人中90人行方不明」だそうです。涙がこぼれます。

    那須の妹分真理ちゃんは仮住まいで荷物がほどけないので、まゆみさんにもらった『舞姫』と『円朝ざんまい」をむさぼるように読んだ。することないし、読書は心を支えてくれる、といっていました。
    千駄木の川本眞理さんも被災者には食糧が最優先だけどおもちゃや本も届けたい、といっていた。おもちゃもゲームも教科書も流された子供たちもいます。

    都のアイソトープ研究所の友人は毎日深夜まで検査です。
    水道のヨウ素は心配する値ではないが、8日で半減するので汲み置いて使うこと。活性炭を入れるとかなり効果あるといっています。彼の話は25日夜に聞きます。これについてはアグネの権上さんから。

    友人知人のみなさま
    権上かおるです。BCCいっせい送信、またご不要の場合、ご容赦ください。
    都合により、雨研HPのメンテができないでいますが、市民科学研究室のHPにおもなものが掲載いただいております。その他の情報も充実しています。ご参照ください。
    [提言]放射能汚染に対する生活上のアドバイス(NPO法人 市民科学研究室)
    (http://blogs.shiminkagaku.org/shiminkagaku/2011/03/post-42.html)

    82歳の老母の素朴な疑問

    ・シートベルトとかシューベルトみたいなあれ、なんなの?
    ・福島原発がいつできたかって、最初の頃ずっと言わなかったわね。4 0年と言えばロートルよね。
    ・いまのところわかりません、確認中ですって、わからないもの作らないでほしいわね。
    消防の人はたしかによくやるけど、中にいる作業員は誰で、どこで、何やっているのか、何も報道はないわね。
    ・設計した連中はもう退職して、古い電化製品だから部品がないんじゃないの?
    ・NHKのアナウンサーは「だいじょうぶなんですよね」と念を押すだけ。自分が恐いのね。民放の方がキャスターが現地へ飛んでいるわよ。
    ・あんなの見てると気分悪いから、BSで仕掛人梅安見てるの。
    ・わたしは薬のないとこ行く気はないし、「ただちに人体に影響ない」ったって10年後にでるんでしょう。でもそのとき92だから ね、逃げることないわよ。

    森まゆみ(2011年3月24日)


    ●震災日録 22日 森まゆみ

    森まゆみです。いま九州から帰ってきました。
    さいわい宮城県丸森からは引き上げたところでした。ご心配かけました。

    オール電化住宅でひどい目にあったという話。ガス、石油、電気、薪ストーブなどオルタナティブな熱源があった方がいい。景色がいいからと高い超高層マンションを買ったとて、エレベーターが止まったら高齢者など避難はできません。

    丸森町は福島県境、宮城の南限の里山でそれほど被害はなかったようです。
    しかし18日くらいまで友人知人にはまったく連絡とれず。
    丸森は、今は福島原発近くからの避難者を350人引受けているようです。
    しかしガソリンがなくて手も足もでないそうです。
    八島やという何でも屋さんは小売値でガソリンを仕入れ、その価格で売っています。
    峠を越えた隣りの相馬、新地、山元町、岩沼、名取あたりは壊滅です。
    津波が海沿いの低地の田畑をなめていった映像のあたりです。楽しい思い出がいっぱいありますが。
    丸森で一番仲良しだった30代の真理ちゃん、わが妹のようなひとも連絡とれなかったのですが無事がわかりました。那須町の道の駅で農産物普及のマネージャーについたところ、野菜出荷停止となり、その上、道の駅が被災者受け入れの窓口になるそうです。

    町作りの面から一言。

    三陸へ行くと、明治2年の津波のときここまで水がきた、これより海際に家を建てるな、と書いてあるのに、いっぱい家が立っていて恐いなーと思います。『失敗は伝わらない』、本当です。

    町作りも防災も歴史に学ぶことが必要です。
    瓦礫の撤去が終わったら、戻ってまた家を建てると被災者はいっていますが、海際は捨てて山ノ上にコミュニティは生かしたまま、町を再建したほうがいい。

    イタリアなどではマラリアやペストの猖獗のころ、高燥な山の上に町を造りました。なかなかこじんまりしていいレストランもあって、楽しそうな町が多いです。
    不便なら香港みたいにエレベーター、エスカレーターをつけたらいい。

    想定外の津波にやられたので、もっと高いコンクリの防波堤をつくる、というような開発土建主義の復興を続けさせてはいけません。どんなコンサルが入るか、によって相当復興のし方が違ってくるでしょう。

    森まゆみ(2011年3月22日)

     

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    初出2011年3月25日
    ページ新設2011年4月 3日
    更新2012年3月13日